それは、とある都郊外の静かな住宅街でのお話。
 駅から徒歩15分くらいの、ちょっと大通りからは外れた場所に、小綺麗な建物がありました。
 そう大きくはありませんが、茶色のタイルが整然と貼られ、なかなか上品なつくりです。
 道に面したところに両開きのガラスのドアがあって、どうやら中に入ってすぐのところに新しいエントランスがあるようです。
 そのドアの右側……。
 濃い茶色のレンガの上に、金色のプレートがついています。
 それは、同じ金の浮き彫りで、文字が刻まれていました。
 そこにはこう書いてありました。


     ───『三上マンション』


三上マンション物語・ロゴ

〜 第1話 その日、天使は舞い降りた 〜

November 26th, 2000

★ ★ ★




 その日、空はからっと嫌味なくらいに晴れていた。
 前日までじめじめしつこく降り続いた雨が嘘のようだ。
 “秋晴れ”にしては時期の遅い、雲ひとつない青空を、チッと舌打ちして睨みつける。
 手に持った書類入りのフォルダで、朝イチの太陽から目を守るが、起きがけの目にはやはり眩(まばゆ)い。
(ったく……こんな朝っぱらに引っ越しだと? 何考えてんだか)
 昨夜、新手のサイトをみつけ、遅くまでネットサーフィンにいそしんでいた。
 そのせいで寝不足なのである。
 が、それは自業自得というものでは?
 しかし、そんなものはものともしないのが彼である。
 重いドアを手荒に閉め、仕方なく仕事に取りかかろうとする…と、階段の手前に人影がある。
 声をかけるまでもなく、向こうがこちらに気が付いた。
「おはよう」
 人のよさそうな笑顔が向けられるが、
「よぉ」
 とだけ、無愛想な挨拶を返す。
 それでも相手はそれに慣れているのか、まったく動じない。
「こんな早くから仕事か? 管理人も大変だな、三上」
「……だったら替われよ」
 言いながら、生あくびを噛み殺した。
 そんな三上の様子に仕方ないな、という笑いを浮かべて、
「引っ越しか?」
 尋ねた。
「まぁな。男の……一人暮らしだな。面白くともなんともねェ」
「おいおい。不謹慎だな」
「そんな役得でもなきゃやってらんねーんだよ。……それより渋沢、おまえの隣のやかましいヤツ、どうにかしろよ」
「隣? 藤代か?」
「他に誰がいるんだ。あのバカ昨夜も遅くまでバタバタしててよ……。おまえ班長だろうが」
 それに対し、渋沢が何事か喋ろうとしたとき。
 マンションの目の前に、1台のトラックが止まるのが見えた。
 どうやら、例の引っ越しのトラックらしい。
「じゃ、あとでな」
「あぁ」
 軽い挨拶を交わすと、三上はエントランスへ、渋沢は階上へと別れた。
 なんだかんだいって、仕事はきちんとこなす三上である。


 エントランスを通り抜けて入口のドアを出る短い間、三上は引っ越しの相手に来た時のことを思い出していた。
 厳密に言えば、当人の兄、であるが。
 なんでも当人の都合で兄が代理で来たらしい。
 人当たりはいいが、見てくれのチャラチャラした兄に、
(コイツの弟じゃたかが知れてんな)
 と思った。
 だからよけいに機嫌が悪い。
 自分より学年的にひとつ年下、らしいが、また厄介な人間が増えるのか、と眩暈(めまい)がする。
 ガラスのドアを開ける……と、ガラスに朝の光が反射して、一瞬目がくらむ。
 その狭い視界の中で、トラックの助手席のドアが開いた。
 隙間をするりとすり抜けて、ひょこりと降りた影。
 それは、ずいぶんと小さい。
(…………は?)
 三上は思わず唖然とした。
 コイツが、まさか?
 その小さいのは、呆気にとられている三上のもとにぴょこぴょこ寄ってきて、ぱたりと頭をさげた。
「初めまして。管理人の方ですよね?」
「あっ……あぁ」
「今日引っ越しの予定を入れていた、風祭将です。えぇと、管理人さんは……」
「三上だ」
「よろしくお願いします」
 そういって、小さいのが笑う。
 ふっと空気が和んだ気がした。
(……へぇ……)
 三上はにや、と笑った。
 子犬のようにまっすぐで綺麗でくるくるとよく動く、黒い瞳。
 ほどよく日に灼けた、なめらかな肌。
 ほんのりと朱が入った頬。
 形のいい、まだあどけない口元。
 つやつやと朝日に輝く真っ黒な髪。
 歳が近いだなんて信じられないくらいの、華奢な身体つき。
 触れたら折れてしまいそうだけれど、それほど頼りなくもない。
 素直な明るさが、全身から滲み出ている…そんな少年だった。
 白いシャツを着ていたが、それはまるで……。
(これは……面白いことになりそうだな)
 ちょっかいでも出したら、速攻で反応が返ってくるに違いない。
 なんだか新しい玩具(おもちゃ)でも手に入れたような気分だ。
「部屋は…3階の303号室だったな。詳しいことはこれに書いてあっから」
 言いながら三上は、持っていたファイルを渡す。
 はい、と素直な返事が返ってきた。
 朝早くで悪かった機嫌もいつの間にか直っている。
「えぇと……。で、契約の方は全部済んでたな。細かいことは荷物運び入れて一段落ついたらで構わねーからな」
「わかりました」
「うちのマンションは……まぁ聞いてるだろうが、各階ごとに班になってて、連絡だのなんだのは班長通じて行くから、そのつもりでいろよ。3階の班長は……」
 言いかけて、やめた。
 3階の班長…三上にとって気にくわない、いつか目にモノ見せてやる、とさえ思っている奴。
 よりにもよって、3階にしか空き部屋がなかったとは!
 三上は将に聞こえないくらいの音量で舌打ちした。
「…ま、とにかく。班長は302だ。それじゃあ、部屋行くか」
「あっ、はい。ありがとうございますっ」
 くるりと背を向けると、将がついてくる気配がする。
 その時の三上の何か企んでいるような笑いは、将には見えていなかった。





 小物を詰め込んだダンボールを抱えながら、将は顔がほころぶのを押さえられなかった。
 南東向きの窓は、3階とはいえ景色がことのほかいい。
 古くからの民家もこの辺りには多いらしく、背の高い建物がないからだろう。
 近くには川も流れていて、のんびりとした風景だ。
 部屋ももちろん、文句はない。
 ひとりで暮らすには広すぎるかと思うくらいだったが、扱いきれない大きさではない。
 収納スペースにも気を遣った、とても丁寧なつくりだ。
 何よりバルコニーが広いのが嬉しい。
 将は、自分のためにこんな部屋を探してくれた兄を思う。
(ほんと…功兄には感謝しなくちゃね。僕…ここで上手くやってくからね)
 兄はわざわざ、独立したいという将のわがままを聞き、そこら中の不動産屋をはしごしてくれたのだ。
 そして心配そうにしながらも、笑って送り出してくれた。
 世間様から見れば少し(かなり?)ブラコンな兄だが、将にとってはよいお兄ちゃんなのだった。
「あの、私たちの方でやりますから」
「はい、でも軽いのだけ。僕もやることないんです」
 業者にもにこにこと笑顔を振りまいて、将は一抱えもあるダンボールを抱えなおす。
 背が低い将には、その体勢ではあまり前が見えないのだが。
 だから十分足元には注意していた……はず。
 階段もちゃんと数えていたし。
 あと1段、だったはず。
 たしか。
(……えっ?)
 踏みだした足が空振って、初めて最初の段を数えていなかったことに気付いた。
「っわ……っ!」
 バランスを失いかけて。
 そのとたん、腕の中がふっと軽くなった。


 あれ、と思う。
「気をつけろよ」
 降ってきた声に、将ががばっと顔をあげる。
 そこには、ひとりの少年が……将の持っていたダンボールを片手で支えていた。
 色素の薄い髪に、端整な顔立ち……。
 女の子ならあっという間になびくだろう、ジャニーズ系の少年だ。
「あ……っ、ありがとう……っ」
 慌てて礼を言うと、彼はふと表情を和らげた。
「今日、引っ越してきたんだろ?」
「え?」
「上から見えた。俺は302の、水野竜也」
 それでピンとくる。
 302といえば、先程三上が言っていた……。
「あ、僕、303に越してきた…風祭、将です」
「風祭、か。よろしくな」
「こちらこそ!」
 そう言って、ふたりは握手を交わす。
 ……が、実は、“見えた”のではなく、“見てた”が正しいのである。
 ふと見た窓の外に引越の業者のトラックが見えて、隣に入居者があることを思い出した。
 そしてその入居者がどんな奴なのか気になって密かに下を眺めていた。
 はじめは眺めているだけのつもりだった。
 だが、自らもせっせと荷物を運び出す将の姿に、いてもたってもいられなくなった。
 それでも部屋を飛びだしかけたところで、バランスを失いそうになっている将に出くわしたというわけだ。
「俺も手伝うよ、風祭」
「えぇっ!? いいよ、大丈夫だし…水野くん、ほんと……」
「遠慮すんなって」
「あ、ありがとう」
 ほんの少しだけ不安だった一人暮らし。
 その矢先に水野の優しさに触れて、将はどこかで安堵する。
 そうして惜しげもなく、にこりとたんぽぽのような笑顔を向けた。
 無邪気で、人を疑うことを知らない笑顔。
 水野もつられ、笑う。
(…変なやつ……)
 そこに興味以上の意味が含まれていたことに、水野本人も気付かない。





 結局大まかな片付けだけで、ほとんど1日費やしてしまった。
 家具は一通り設置されたものの、まだ半分以上の荷物がダンボールの中だ。
 それでも、家具も荷物も最低限のものしか持ってこなかったのが幸いして、かなり片付いた方だ。
 水野が手伝ってくれたことも大きな要因なのかも知れない。
 細々としたことまで手伝ってくれ、その間にふたりはだいぶ仲良くなった。
 それはふたりが同い年だったからでもあるだろう。
(…ちょっと信じられない気もするけどね)
 将はそんなふうに思った。
 なにせ身長が違う。
 自分がずいぶんと低いせいでもあるけれど、水野を見る時にはどうしても見上げる格好になってしまう。
 いつも年齢より下に見られる将は、水野の大人びて落ち着いた雰囲気に羨ましさと「かっこいいなぁ」という素直な感想を抱いた。
 もちろん、水野は知る由もない。
「おなか、すかない?」
 将が言うと、玄関先に荷物を置いていた水野が顔を上げた。
「…あぁ。そうだな。こんな時間か」
「1日付き合わせちゃってごめんね」
「気にすんな。俺も暇だったんだよ」
 水野が口元をほころばせると、よかった、と将も笑う。
 その笑顔を見て水野もよかった、と思う。
 場がほんわかしたところで、将がぱたりと手を打った。
「そうだ、水野くん。ごはん一緒に食べよ?」
「え?」
「…って言っても、コンビニのお弁当なんだけど。ばたばたしてたら食べられないだろうって、今朝兄貴が買ってきてくれたんだ。そんなのでよかったら」
 水野はふと考えて、
「いいのか?」
 聞いた。
 将はそれに対してなんの疑いも持たずに答える。
「うん。たくさん買ってくれちゃったから。水野くんの分もあるよ」
 そう言う意味で聞いたのではないのだが。
 水野の“いいのか?”は、“見ず知らずの俺なんかを家に入れて、あげく夕飯も一緒になんて、慎重にならなくていいのか?”という意味だった。
 が、将には最初から人を疑う心というものが存在しないらしい。
 水野はそっと苦笑する。
(危なっかしくて…目が離せないな……)
 そうして積み上げたダンボールに囲まれ、将は越してきて初めての食事を水野とふたりで摂ったのだった。


 帰り際。
「……あぁ、そうだ。風祭、あまり知らない奴を家に入れるんじゃないぞ」
「うん。気をつけてるから、大丈夫だよ」
「って、風祭……。俺を入れてるじゃないか」
「え? だって水野くんだから。水野くんなら安心でしょ?」
 その将の言葉に、水野は一瞬目を見開いて。
 けれどすぐに、口元に穏やかな微笑みを浮かべた。
「……そうだな」
 まずは、ひとり(笑)。





「うん……そう。隣の人がね、水野くんっていって…班長さんなんだ。うん、そう。同い年。ここに来ての、初めての友達だよ」
 リビングの片隅で、将は受話器に向かって嬉しそうに喋る。
 将の引っ越しに合わせて、将の兄功がひいてくれた電話だ。
 電話の向こうの相手は当然功で。
「…だから、大丈夫。ここで上手くやっていけそうだよ。…うん。うん。え? うん。そんなに心配しないでってば。うん、戸締まりもちゃんと確認したし。うん。それじゃあね。……あっ」
 一度言葉を切る。
 そして、ふと笑って。
「……ありがとう、功兄…。おやすみ」
 そう告げた。
 かちゃり、静かな室内に受話器を置いた音が響く。
 改めて将は、大きく息をつく。
 ひとりきりの部屋───。
 自分以外誰もいない部屋。
 ほんの小さな物音でも大きく響いてしまう。
 それでも、決して淋しくはない。
 将は部屋を見回して、くすりと笑った。
「今日から、よろしくね」
 新しい部屋と、これからの新しい生活に。


 ベッドに潜って、将は明日からの日々に思いを馳せる。
(えぇと、とりあえず両隣には挨拶しておかないと。水野くんには会ったから、反対の部屋の人にちゃんと挨拶しないとね。今日はいなかったみたいだし……。仲良く…できる……と…いいな……)
 音のない部屋。
 よほど疲れていたのだろう。
 すぅすぅと、小さく穏やかな寝息だけが聞こえる。
 将の新生活1日目は、何事もなく終わっていった。





 しかし、
(面白そーなヤツが入ってきたもんだぜ。どう遊んでやろうかな……)
 この管理人と、愉快で騒々しくてちょっぴり危険な住人たち。
 三上マンションに平穏なんて言葉はない。
 騒動は、これから始まるのであった。






continued ♪



<After Words>
はい。なんでこんなことに? それは「三上マンション物語とはなんぞや」を読んでいただければ…。
それにしたってなんで? ですよねぇ。うん。わたしも思ってます。
しかもどうここから話が動いていくのか……書いてる本人すらわかりませんっ。
果てさて、どんな話になっちゃうのか…。それは我々2人にかかってるんですねー……。
いやー。ご感想下さいね!! 「あの人出せ!」とか「こんなエピソードが欲しい」とか、ぜひぜひv





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