太陽は西の大地に吸い込まれていく。
鮮やかなオレンジから群青へのグラデーション。
静かなマンションの壁面を、柔らかな色で照らす。
…静かな?
いや、見た目は静かそうでも、窓ガラス1枚隔てただけの内側では、決まって何かしらの騒動が起きていた。
いくら表面ではおとなしかったとしても。
騒動、すなわち日常。
それがこのマンションの常識でありました。
〜 第3話 心、スクランブル 〜
May 24th, 2001
★ ★ ★
たん、たん、たん、たん、たん……。
心地よい一定のリズムが響く。
まな板の上に整然と落ちるのは、まんまるい緑の小さな輪。
そのどれもが見事に同じ幅。
それを先端の方まで刻み終えると、持ったままの包丁を使って小鉢に移し入れる。
視線を巡らせると、ことことと煮える鍋。
かき混ぜながら溶いた卵を流し入れる手つきはよく慣れたものだ。
「ここ、食器1コないぞ」
「あっいけね。えーっとあとは……そうだ、笠井、グラス!」
カウンターの向こうのリビングでは、騒ぎながらテーブルを整える声がする。
渋沢はふと笑んで、鍋の火を消した。
「すまないな、ふたりとも。手伝わせてしまって」
ぱっと顔をあげたのは藤代だ。
「いーんですよぉ、キャプテン! どーせ俺たち暇だったんですから」
笠井も頷いて、
「そうですって。こういうときでもなきゃ藤代は食事の支度なんてしませんからね」
「えー、俺だってたまには作るぜー?」
「たまには、だろ? ほとんど俺かキャプテンの部屋に転がり込んでるくせに」
作ってる、作ってないで言い合いになってしまった二人に、渋沢は仕方なさそうに笑った。
こんなやりとりはいつものことだ。
当たり前すぎて、すっかり慣れてしまっている。
と、そこに、
ピンポ───ン……。
玄関のチャイムが鳴る。
ふと動きかけた笠井を、渋沢は手で制した。
「いい。俺が行こう」
もちろんそうしたのはここが自分の部屋だからだ。
だがそれ以上に──予感がした。
何か心にひらめくものがあった。
もしかしたら“気配”のようなものを感じていたのかもしれない。
がちゃり、少し重いドアを開く。
そこにはふわりと、まぶしい笑顔。
「お招きありがとうございます、渋沢先輩」
「──あぁ。よく来てくれたな」
将ははにかむようににこりと笑う。
それに笑みを返してから、渋沢は将の後ろの人影に気付いた。
ドアの陰に、ふたり。
渋沢の視線が自分の後ろに行ったのを見た将が、はっと渋沢を見る。
「あ、渋沢先輩。実は…友達がふたりほど……」
「大丈夫だ。余分に用意してあるから」
渋沢の笑顔に、将はほっとしたような表情をした。
───実は、この事態を渋沢は予想していた。
引っ越しの日、かいがいしく荷物運びの手伝いをしている水野を見かけたせいだ。
ちょっとしたことで将に「大丈夫か」と声をかけていたほどだから、おそらく心配してついてくるんじゃないだろうか、と。
渋沢の読みは見事に当たった。
とはいえ、さすがにふたりになっているとは思わなかったが。
「じゃあ3人とも、あがってくれ。汚い部屋だけど」
30分ほど前のことだ。
部屋の片付けをある程度で中断して、片付けで埃まみれになったシャツを着替えた将は、渋沢の手伝いをしようと部屋を出た。
(渋沢さんが僕のことを覚えててくれたなんて……)
そう思うと嬉しくて仕方がない。
覚えられていなくて当然だったから、余計にそう感じる。
しかも自分を歓迎してくれると言う。
(僕って幸せだなぁ)
鍵を鍵穴に差し込みながらも、そんな風に思ってドキドキしてしまう。
するとそこに、良すぎるくらいのタイミングの良さで、隣の──302号室のドアが開いた。
(……あ。風祭)
声をかけようとして、水野は一瞬ぴたりと止まる。
(かっ…風祭?)
当の将はといえば、もどかしそうに鍵を閉めている。
が、水野がどきりとしたのはそんなことではない。
将が渋沢に誘われた感激に目を潤ませ、頬を染めている、その表情にだ。
水野は思わず開きかけたドアの陰に身をひそめた。
将は何かうきうきしているようである。
が、それしかわからない。
気になって、心配で、どうしようもなくて、水野は一度息を吸うと、勢いよくドアを開けた。
「…風祭? どうしたんだ?」
さりげなく、今気付いたように。
将はそんな水野の様子を勘繰る素振りひとつ見せずに笑った。
「あ、水野くん」
どくん、と心臓が鳴る。
一瞬心臓を捕まれたように。
(なんだ……? これは……)
水野はそんな自分に戸惑いを覚えたが、それがなぜなのかはわからない。
わからないから無理矢理胸の奥に押し込めて、なんとか笑いを作った。
「出かけるのか?」
将はこくりと頷いて、
「うん、渋沢さんのお宅に…。夕食に招待されたんだ。あ、水野くんは渋沢さんのこと…」
「あぁ、知ってる。あの人は2階の班長だから、班長会で」
「そっか…やっぱり渋沢さんは班長なんだ」
その言葉が、ふと気になった。
将には水野の知らない時間がある。
それは当然のことだし、だからどうだとも思わない。
けれど、その水野の知らない将の時間を、共有していた誰かがいる。
(そんなことはわかってる。けど)
それがなぜ渋沢なのか。
どうしてあの連中に帰結していくのか。
水野はほんの少し迷い、わずかしてから口を開いた。
「あの人は…俺の父親のお気に入りなんだ」
「え?」
きょと、と将が目をしばたたかせた。
水野は軽く笑って、
「……このマンション。俺の父親の持ち物なんだ」
「水野くんの、お父さん?」
どうして、と問おうとした将を、水野は首を振ってとどめる。
そして、今まで誰にも告げたことのない言葉を口にした。
「両親さ。離婚してんだ。…どっちにしたって、そんなことがなくてもあそこにいるつもりはなかったんだ。せっかくの機会だから、ついでに家を飛び出して、このマンションに落ち着いた。…けど結局ここも父親の持ち物で、俺はあいつの手から抜け出せないでいるんだ。所詮、ここを出ていける経済力もないしな」
「水野くん……」
言いながら、水野自身困惑していた。
なぜ、誰にも言わなかった…言えなかったはずのことを出会ったばかりの将にしゃべってしまえるのだろうか。
それを口にすることを迷ってもいたけれど、しゃべろうとする自分を、自分で押さえきれなかった。
水野は、じいっと自分を見つめてくる将に、ふと笑いかける。
「ごめん、風祭。こんな話するはずじゃなかった。……この話、黙っておいてくれるか?」
「え、あ、うん。もちろんだよ!」
頭をぶんぶんと縦に振って将が答える。
水野もごめん、ともう一度呟く。
そして「あ」と短く声をあげ、
「渋沢さんの所へ行くんだよな? 俺も……」
言いかけて、止めた。
将が不思議そうに水野を見上げる。
その次の言葉が、言えない。
将を心配する気持ちと、将のそばにいたいという不可解な気持ちと、渋沢の迷惑を考慮する気持ちと、その他様々な気持ちが水野の心の中で入り交じっていた。
その時、これもまた絶妙なタイミングで、シゲがコンビニから帰ってきた。
しかも階段を使って昇ってきたせいで、階上から声がするのに気がついた。
どうやら水野の声のようだ。
どれどれ、と耳を澄ませてみると、
「渋沢さんの所へ行くんだよな? 俺も……」
と、聞こえた。
だがどうしたことか、いつまでたってもそれから先が聞こえない。
(……なぁーにやってんや…タツボン……)
シゲには状況が手に取るようにわかってしまう。
どうやら“渋沢”の所に行こうとしている将に同行したいものの色々葛藤してしまい、言い出せなくなっているらしい。
(ったく、しょおもないやっちゃなぁ)
このままでは何時間でも立ち尽くしているに違いない。
ここは背中を押してやらないわけにはいかないだろう。
「よぉ♪ 何しとるん? タツボン、ポチ! なんや、夕飯食いに行くんかー? オレも付き合うでー♪」
まったく、手のかかる連中だ。
玄関はよくまとまっていて、シックな雰囲気だ。
きれいに磨かれた靴が一足端に置かれていて、反対側には新しめのスニーカーと履き古した靴が並べてある。
「えっと……お邪魔します」
ぺこりと将がお辞儀をして部屋にあがる。
律儀に膝をついて靴をなおしているのが、なんだかとても将らしい。
渋沢はそれを微笑ましく見守ってから、後ろの人影に目をやる。
と、目が合った水野が会釈をする。
3階の班長だ。
よく知っているというほどでもないが、知らないわけでもない。
だがその後ろからついてくるもうひとりには見覚えがなかった。
金色に脱色した髪に、ピアス。
ずいぶんと軽い印象を与える人物だ。
(派手なやつ……)
思わず渋沢は思ってしまったが、シゲの方も、
(渋い旦那やなー)
などと思っていたので、おあいこといったところだろうか。
じゃあ中へ…と言おうとした渋沢だが、ばたばたと走ってくる足音にそれを阻まれてしまった。
「キャプテーン。来ましたぁ?」
底ぬけに明るい声。
わりと静かだったその場が、急に明るい雰囲気になる。
駆けてきたのはもちろん藤代で、渋沢は軽く息をついた。
「こら、藤代。走ったら階下の人に迷惑がかかるだろう」
「えー、大丈夫ですよぉ。だってここの下って三上先輩じゃないですか」
その三上から苦情が来ているんだが…言いかけたときには、すでに藤代は将のもとに詰め寄っている。
やれやれ、と渋沢は笑う。
「あんたが、風祭将?」
「えっ……はい!」
将はびっくりした顔で藤代を見た。
楽しげに覗き込んでくる顔はすかっと明るくて、無邪気な表情。
人見知りしない人なんだな、と将は思う。
「俺ね、藤代誠二ってゆーんだ。隣に住んでるんだけどさ、パーティだっていうから、おこぼれに預かりに来たんだ」
「パーティ…?」
「そ。キャプテンの手料理って美味いんだぜv」
言って、にっと笑う。
と思ったら、ふいに渋沢の方に向き直る。
落ち着きがない、というより、何かはしゃいでる感じだ。
「ねぇキャプテン。三上先輩遅くないですか?」
「…あぁ、そういえばそうだな」
「どーせやさぐれてんですよ。俺、迎えに行ってきますねー♪」
「藤代、意味知ってるのか……?」
「あはは、知りませーん」
そのまま藤代はスニーカーを突っかけて飛び出していってしまった。
あとには、呆然とした空気。
まるで台風が通過していったようだ。
「……騒がしいやっちゃなー……」
シゲがぼそりと言うから、渋沢は苦く笑った。
「すまんな。あれが藤代のいいところでもあるんだ」
すると、将がにこりと笑う。
「いえ。とっても楽しい人ですね」
どきり、と。
((風祭……))
水野と渋沢の心情のハモリに気がついたシゲは、そっと肩をすくめた。
ピンポンピンポンピンポ───ン。
どんどんどん。
「せっんぱーい。三上先輩ー。いるんでしょー。開けて下さいよー」
右手でチャイム、左手でドアを叩きながら、さらに声までかける。
ドアはウンでもスンでもないが、どうせいるに違いない。
ピンポンピ──ンポ───ン。
どんどどどんどん、どんどん。
しまいにはリズムをつけて。
すると、いきなりドアがものすごい勢いで開く。
藤代は、それをひょい、とよけた。
「あー、ほらやっぱりいるじゃないスかぁ」
にへ、と笑う。
「っっっ……てめぇなぁ〜〜〜……。やかましいんだよ毎回毎回っっ!!」
三上がぎろりと睨みつけるが、藤代はまったく気にしない。
「それより先輩、早く来て下さいよ。パーティ始まっちゃいますよ」
「だからいつ、オレが行くなんて言ったよ。面倒くせぇ」
「せっかくキャプテンがゴハン作ってくれたんですからー」
「…まぁ渋沢の飯には惹かれなくもねぇけどよ」
「でしょ? ほら、行きましょ、先輩っっ」
「って…おい藤代! 引っ張んじゃねぇよッ!!」
半分引きずられるようにしてついていきながら、三上は舌打ちする。
風祭将の、という点に関しては何も問題はない。
渋沢主催の、という点にも異論はない。
むしろ自分から乗り込んでもいいと思う。
だが……少しばかり、いやな予感がする。
(面倒起こすんならかまわねぇが……巻き込まれんのは気にくわねェんだよ……)
三上マンション2階、202号室。
様々な心境を抱いた者たちが、そこに集まりつつあった。
そうして微妙な人間関係を作り上げてゆくことになるのである。
以下、待て次回。
continued ♪
<After Words> |
た……たいへん長らくお待たせいたしましたっっっ!!!(まったくだ) 三上マンション物語の第3話ですっ!! 前回の更新日見ると、愕然としちゃいますよねー…1月11日……? 芝会場自体でも、前回ノベルを更新したのが「存在」の1月25日だってさ! 今やもう6月にもなろうとしているときに、いったいこのざまは何なんでしょうねぇ。 こ、今回こそお約束させてください!!!! 今回ほどはお待たせいたしませんから!! (って、4ヶ月待たせる以上の何が出来るっていうのさ………) |