November 5th, 2002
★ ★ ★
その家は海に程近い丘に建っていた。
砂利の多い坂道を下って、ふたつ角を曲がれば海が見えた。
道の両脇には石造りの塀が並んで、その上から緑色の葉が茂っている。
それは桜だったり柿だったり枇杷の木だったりした。
ただそれは今になったからわかったことで、あのころの自分には何の木なのかさっぱりわからなかった。
秋になれば柿の木がまぶしい夕日の色の実をつけたから、それでようやくあれが柿の木なのだとわかった。
とはいえ、いつもここに来るのは夏休みに両親に連れてこられたときだけ、いつだって木々はただ緑の葉をつけるばかりで区別なんて付かなかった。
時々時期をずらして秋に来ることもあったけれど。
すると柿の実が重そうに連なる枝の向こうにくすんだ海の青が見えたものだった。
そこは別荘のような場所だった。
どうやら今は亡くなった祖母が住んでいたらしいが、少年が生まれる前に亡くなったという話だから覚えてもいない。
売ってしまってもよかったのだが、せっかくだからと子供たちのためにとっておいたらしい。
ずいぶんと金もかかったようではある、幼すぎてよくわからなかったけれど。
しかし木々の隙間に突如として現れる赤い屋根のその家は、子供心に強烈な印象を残した。
何かが起きるような胸の高鳴りをいつも感じた。
だから、売ってくれなくて本当によかったと思っている。
今年の夏は父親の仕事が忙しく、休みを取ることが出来なかった。
普段は近くに住むいとこたちと夏休み中遊ぶのだが、今年はそれもかなわない。
両親はそれではつまらないだろうと今年は行くのをやめようか、と提案したのだが、否定したのは少年自身だ。
少年があまり行きたがるものだから、父親は秋の連休を利用して休みを取ったのだ。
そうして今年もまたこの家にやってきた。
赤い屋根の家へ。
夏に来たいとこの家族が掃除をしてくれていたらしく、ほとんど汚れていない。
それでも人の動きがない家は埃があちこちにたまっていた。
父親は早速母親に頼まれた夕食の買い出しに行き、母親は廊下の掃除を始めた。
洋風の建物は割と古い時代に建てられたらしく所々痛みがあったが、祖母の手入れがよかったようで、大した手直しもせずに済んだ。
とはいえやはり古い建物だから、昔ながらの作りそのままの場所もある。
それが不思議なギャップで、少年は飽きずにその家を探検して回る。
走り込んだダイニングは天井まである大きな窓から光が差し込んで、白く光る。
誰もいない部屋の中には不思議なざわめきを残していた。
白いペンキで塗られたテーブルと、揃いのイス。
黄色い縁のついた赤いテーブルクロスが斜めにかけられている。
イスにはちょこりと熊のぬいぐるみが座っている。
どうやらいとこの忘れていったものらしい。
台所はぴかぴかに磨かれていて、紅茶をさっき入れたような甘い香りがした。
けれど少年が目指していたのはここではない。
ダイニングをそのまま走って通り抜けると、やはり白い木で作られた階段がある。
壁には大きな窓、光であふれたアーチのような階段を駆け上る。
2階は寝室がふたつあって、もうひとつ部屋がある。
そのひとつはもともと物置だった。
それを片付けて、おもちゃをたくさん置いて子供部屋にした。
ドアを開けると、わずかに埃が舞った。
壁際にはタンスがふたつ置かれている。
部屋の真ん中には古い木馬。
もたれるように人形がふたつ。
積み木が積み上げられて、何かの形を作っている。
どうやらままごと遊びをしてそのまま片付けずに帰ってしまったらしい。
少年は隅に残っていた木のブロックをずらしてどかした。
その向こうの壁には赤いひもがたれている。
天井からたれているそのひもに手をかけた。
気をつけて引くんだよ、と言われているから、慎重にそのひもを引いた。
ゆっくりと引く。
するとひもに引かれて、天井から同じゆっくりの速度ではしごが降りてくる。
その端が床につくや否や、少年はそのはしごに飛びついた。
天井にぽこんと空いたような穴から上に顔を出すと、天井が斜めになっている部屋がある。
いわゆる屋根裏部屋だ。
ここは少年のお気に入りの場所だった。
大きめの部屋が壁で仕切られていて、ふたつの部屋を結ぶのは扉のないドアだ。
少年は斜めの天井をくぼませて作ったような窓に手をかけ、それをいっぱいに押し開ける。
すると向こうに見える海と同じ香りの風が、ふうっと部屋に流れ込んできた。
気持ちのいい風。
少年は白木の枠のついたそのドアから隣の部屋にも走り込み、同じように窓を開けた。
こんな風に両方の窓を開けるとよく風が通ることを、習ってはいないが知っていた。
「────……」
ふと何かに呼ばれた気がして、少年ははっと下を見た。
すると……緑に枯れた色が混じっている庭、そこでひとりの少女が手を振っていた。
白いワンピースにベージュのカーディガン。
肩より少し長い黒髪が、海の香りの風になびく。
「…ともくーんっ。ともくん、ひさしぶり!」
少年はぱっと顔を輝かせ、手を振り返した。
「木葉ちゃん!」
と、その時階下から、
「智宏? 手を洗ったの?」
母親の呼ぶ声がする。
少年は面倒くさそうに振り返り、もう一度窓の外に身を乗り出した。
「僕、手を洗ってくるから。木葉ちゃん、あがってきてて」
少女は笑って頷いた。
少年が母に言われたとおりに手を洗って屋根裏部屋に戻ると、少女は向こう側の窓にもたれて外を見ていた。
気配を感じたのか、少女が振り返る。
笑って手招きをするので、少年は走って木枠のドアを抜けた。
「久しぶりだね、木葉ちゃん。よく僕が来たってわかったね」
「うん、ともくんの家の車が見えたから。今年は、秋に来たのね」
「そうなんだ。お父さんの仕事が、夏は忙しかったから。でも、僕は秋に来た方が好きだよ」
「どうして?」
「だって、木葉ちゃんに会えるじゃない」
「…うふふ。ともくんたら」
少女はくすぐったそうに笑った。
この家には生まれてから年に1回は来ているが、少女に初めて出会ったのは5年前の秋だった。
あの年も父の仕事の都合がつかなくて、秋に来ざるを得なかった。
いとこたちがいないため、ひとりきりで遊んでいるときに会った。
少年よりひとつかふたつ上に見えた。
既製のおもちゃしか持っていなかった少年にドングリのコマや秋草の笛の作り方を教えてくれた。
話を聞くと、少女は体が弱く、養生のためにこの町にいるのだという。
このあたりに住んでいるのは、第一線を退いて子供も独立した壮年の夫婦が多い。
そのせいで子供の数が少ない。
だから少女にはなかなか友達が出来ないのだという。
「夏休みになったら遊びに来る子もいるんじゃない?」
と聞いたが、少女は寂しそうに笑った。
「夏休みにはね。お父さんが休みをもらえるでしょ。だから、それで、外国に行くの」
「外国?」
「うん。私の病気、難しいんだって……。だから、外国の病院に治療に行かなきゃいけないの」
そうなんだ、と少年は頷いた。
よくわからなかったが、少女が悲しそうにしているのだけはわかった。
人にはいろんな事情があるんだ、と子供心に思った。
「…大丈夫だよ。僕がいてあげる。僕が友達になるよ」
必死で伝えた言葉。
少女は泣きそうにしながら、笑ってくれた。
「ありがとう」
あれから夏に3回、秋に1回、春に2回ここに来た。
けれどやはり彼女に会えたのは秋に来たときだけだ。
春にいなかったのは、ちょうどその時入院していたからだという。
とはいえ、だいぶ良くはなったらしいが。
「木葉ちゃん」
少年は、今持ってきた皿を差し出した。
皿の上にはおやつに、と母がむいてくれた柿が乗っている。
「いいの? ともくんのおやつなんじゃないの?」
「木葉ちゃんと半分こ。わけてあげる」
「ほんと? 嬉しい」
少女が笑う。
その笑顔が嬉しくて、少年も笑う。
窓の外。
冷たい風。
枯れた色の葉。
上って、上って、落ちる。
踊るように。
窓をかすめる風の音、歌を歌っている。
小さく、高く、不可思議なリズム。
世界の謎を囁くような歌。
初めてひとりで外に遊びに行ったとき、
忘れてきてしまった何かをはっと思い出すような。
かすかな声。
耳の奥で響く声。
呼んでいる。
呼んでいる、そっと。
あれは、
きっと、
秋の声。
「なぁに、ともくん大きな荷物」
「ああ。宿題がいっぱい出ちゃったんだ」
「宿題…小学校?」
「うん」
「そっかあ。いいなぁ、私も行ってみたい」
「……あ。ごめん」
体が弱くてこの町で養生している…それはすなわち学校にも行けないということ。
とっさに少年が謝ると、少女は何でもないことのように笑った。
「あ、私もごめん。いいの、気にしないで。だってしょうがないもの。でも、私も元気になったら行きたいな」
「そうだね、行こうよ。楽しいよ」
「ふふ。楽しみ!」
少女の笑顔は屈託がない。
あまりに無邪気で、自分より年下にさえ時々思えてしまうほど。
「…ね、木葉ちゃんって普段は何して遊ぶの?」
「うーん……私、はやりのおもちゃとかって知らないから」
「そうなの?」
「あんまり表にも出ないでしょ。テレビも見ないし…欲しくても誰かに買ってきてもらわなきゃ手に入らないもの。だからね、自分で作るのが得意になるのね」
「でも、その方がすごいと思うよ」
心からの尊敬のまなざしで少女を見る。
ひとりで何もないところにぽつんと置き去りにされたら、きっと少年は何も出来ずに呆然としてしまうことだろう。
だが、この少女なら自分で何か遊びを作り出せる。
それはとてもすごいことだと思う。
少女は慌てたように首を横に振った。
「すごくなんかないわよ。何にもないからしょうがなくて、だもん」
「今は? 今は何してるの?」
「え? …落ち葉で絵を描いてるの。ほら、落ち葉っていろんな形があるでしょ? それを集めてきてね、紙に張って動物を描いたり……」
「へえ、おもしろそう!」
少年が言うと、少女は少し考えるようにして首をかしげた。
そしてすぐにこくりと頷く。
「…そうね。スケッチブックも買ってきたばっかりのがあるし…。今からなら裏山にも行けるわね」
「裏山?」
「うん、私の家の裏側にね。今から、行く?」
「うん!」
少女は笑い、すくっと立ち上がる。
「ね、ともくん。こっちから行ってみる?」
言うと、部屋の隅の床を探る。
少年がそばに寄ると、そこにはへこんだ取っ手がある。
ふたりがかりで持ち上げると、そこにははしごがあって、下には部屋が見える。
「へえ! こっち側にも階段、あったんだ」
「そうよ。さ、行こ、ともくん」
ふたりは、ゆっくりとそのはしごをおろす。
そしてそれを下りると、ふたりは手をつないで駆けだしていった。
玄関で落ち葉を掃いていた母親が走ってくるふたりの姿を見つけた。
「あら……博人くんに利香ちゃん。また遊びに来てくれたの? おかあさんは?」
「今、車停めてる。ともくんは?」
「いるわよ。また子供部屋で遊んでるみたい。呼んでくるわね」
笑って、ふたりをそこに残して2階へ上り、子供部屋のドアを開ける。
「智宏? いとこの博人くんと利香ちゃんが来たわよ。…智宏?」
返事はいくら待ってもない。
部屋には屋根裏に続くはしごがおりている。
もしかして屋根裏で眠りこけてしまっているのではないかと、母親はそのはしごをのぼった。
「智宏…?」
しかし、そのがらんとした部屋には誰もいない。
あたりを見回した母親がふと気付き、白木の枠へと近付いた。
「………鏡?」
全身を映す鏡。
その時、風が吹いた。
鏡のこちらと向こう側で、風に吹かれた窓がぱたんと閉じた。
End
<After Words> |
30,000ヒットありがとう企画ノベルオリジナル編。 詞・詩の「星の庭園」でいろいろ書いていたために、 久し振りになってしまいましたオリジナル。 なにせ、わたしの書く短編ってどこか詩っぽくて。 なのであんまりオリジナルって書けなかったんですね。 …長編書きたいなぁ。 |