〜桜下迷宮〜

June 2nd, 2000

★ ★ ★







 あれから…僕たちは何が変わってしまったのだろう。
 あの日のあの空は、たぶんもう2度と帰らない。
 だから、あの日の僕たちにも、もう2度と帰れないのだろうか。
 こんな月の夜は、何かを思い出す。
 こんな月の夜は、時間をゆっくりと刻んでいく。
 こんな月の夜は、振り返れない。
 こんな月の夜は、罪色に染まってしまった僕を、君が見ているから。





 ぼーっとしていた僕の目の前を、不意にピンク色がよぎる。
 僕は大して驚きもせずにその落ちてきた花びらに目を落とした。
 桜……。
 もうそんな季節になってしまったのか。
 僕は、時が流れることもなくただこうしてぼんやりと毎日を過ごしているだけだというのに。
 『時が止まる』……。
 そんな不自然な現実が僕を襲ったのは、いつのことだったっけ。
 もう忘れてしまうくらい、この体で、この想いで、僕は僕のまま、長いこと生きている。
 それでも、あの時…時間は確かに止まったんだ。
 そして僕は年も取らず死ぬこともなく、この世に生きていなくてはならなくなった。
 もう僕を知っているものはいないだろう。
 僕が知っている生き物たちはとっくの昔に息絶えてしまったのだから。
 そう…ただ一人をのぞいては。
 この星は、あれから幾度もの危機にさらされた。
 人災、天災、考えられる限りの試練が一度にこの星に与えられたかのようだった。
 そのたびに様々な種が滅び、新しく生まれ、また滅びていった。
 今ではまったく新しい生態系がこの星を支配し、滅びを迎えるたびに僕が植えた桜の木がやっと花を咲かせている以外は、昔のこの星の姿など伺い知ることも出来ない。
 まるでカミサマにでもなったような気分だ。
 それでも、別に僕がすることは何もない。
 発生と滅亡は自然現象だ。
 この世のすべての現象には意味があって、無駄なことなどただのひとつもないというけれど。
 なら僕がこうして不老不死の体を得たことにはなんの意味があったって言うんだろう。
 生き物たちは勝手に生まれて勝手に滅んでいくのだから、僕がいようといまいとなんの関係もない。
 それでも、僕が生きている意味があるというのなら、それは……。


 夜の風がふわりと僕の頬をなでる。
 少し冷たい、だけど甘いような優しい風。
 これだけは、何も変わっていないように思う。
 あの日の夜、僕をくぐり抜けていった風も、確かこんな感じだったような気がする。
 甘くて、優しくて、冷たいような、暖かいような……。
 泣きたくなるくらいに柔らかい『風』……。
 そう、それは今でも側にある。
 僕の側で、いつも。
 星座まで姿を変えてしまった今でも、ずっと。
 だけど…だから、不安だ。
 消えてしまったものは、思い出しか残らない。
 自分にとって都合の悪いものは消してしまえばいいし、美化してしまえばそれで終わりだ。
 でも、側にあったら、消しようがない。
 僕が、それが変わっていってしまうことをどんなに強く否定しても、変わっていくことを止められない。
 変わっていくのを、ずっと見ていかなくちゃならない。
 それが、あいつと共に生きていくと決めた僕自身が負うべき罪。
 もう逃げられない、永遠の宿命。
 そう…これはきっと罪なんだ。
 この、決して終わることのない時間の牢獄は。
 僕が抱いたあの感情の、大きすぎた代償がこの体だと?
 でも、誰が答えを教えてくれるわけでもない。
 考えるだけ無駄なんだ。
 それでも、僕が僕に課す問いはあとからあとから涸れることもなく湧き出てくる。
 こんなことをしていたら気が狂いそうな気もするけど、僕にはそれさえも許されないのだから、どうしようもない。


 また、桜の花びらが落ちてきた。
 今度はそれを手のひらで受けとめる。
 花びらは触れたか触れないかわからないくらいのわずかな重みしかなかった。
 けれど、夜の不思議な空気が淡いピンク色をよりいっそう淡く、綺麗に輝かせて、その存在感を強調していた。
 ……桜は、心臓の形をしている。
 心臓…昔から、心の集まるとされた場所。
 生命の象徴。
 どうして桜は心の形なんだろう。
 桜には、心があるんだろうか。
 たった一人きりで、悲しんでいるんだろうか……この僕のように。


 僕は、花びらを外に返して、窓の側から離れた。
 家の中はすべての照明を落としてあって、暗闇が月の光から逃げるようにじっとしている。
 する事もないから、仕方なく眠ることにした。
 きっと眠らなくても生きていけるのだろうけれど、他にやることもないし、起きていても生きていく時間が長くなるだけだ。
 それに、おかしなもので睡眠が習性になっている。
 こんなに時間が経ったのに、まだ普通の生き物だった頃の習性が抜けていないなんて…。
 ベッドに入って目を閉じる。
 すると、今夜もまた、あいつの顔がぼんやりと浮かんできた。
 僕の、永遠の、『風』……。
 自由なその『風』は、その翼でならきっとどこへでも行ける。
 その翼を僕が縛ってもいいはずはない。
 もういい加減、やめてしまいたい。
 だけど、できない。
 永久に回り続ける、運命の輪。
 感情が消してしまえれば、何も考えずに済むのだけれど……。





 窓の外から、暖かな陽射しが差し込んでくる。
 その光に誘われるように、僕は眠りから覚めた。
 生き物の声が、花咲く季節の喜びを高く高く歌い上げているのが聞こえる。
 その昔、『鳥』と呼ばれた生き物によく似た声だ。
 でも『鳥』とは違う。
 別の生き物だ。
 狂った生態系…でも、ちゃんと生きている。
 星の持つ浄化作用は、ここまで偉大な力なのだ。
 …もちろん、『ヒト』に似た生き物だって、山を下ればいくらでもいる。
 それこそ『何代目』かの『ヒト』が。
 それにしても、この近くで生き物の声がするなんて珍しい。
 このあたりには植物が栄えこそすれ、動物が来ることはめったにないと思っていたのに。
 僕は、翼でも持たない限り入ってこられないような山の奥地に、小さな必要最低限の家を建てて暮らしている。
 本当は、そんなこともする必要ないんだけど、これもおかしな習性だ。
 とにかく、そういった場所に家を建てて、なるべく外界と関係を持たないようにしている。
 いちいち外界を気にしていたらきりがないからだ。
 昔は僕もこんな風には思わなかった。
 生き物との接触を面倒だなんて…。
 やはり気が遠くなるくらいの永い時は、誰かと過ごすより一人でいる方が楽だったから。
 だからその癖がしっかりついてしまってるのだろう。
 慣れてしまったから、孤独なんて、そんなことはどうでもよかった。


 ドアを開ける。
 キィ、と軋んだ音がする。
 だいぶ長いこと開けてなかったから、金具が錆びついてしまったらしい。
 道具もそろそろつきてしまうし、今度はどうしようかなんて考える。
 人里に降りて道具を調達するのも、もう億劫だし。
 別にそのあたりにある洞窟に住んでもいいわけだから、大した問題ではないけれど。
 一歩外へでると、少しめまいを感じた。
 そうか、外へ出るのは久し振りだから、日の光が体にしみるのか。
 しみる、なんて変な表現だが、そんな感じだった。


 深呼吸をして、『森』に入る。
 麗らかな陽気のせいか、木漏れ日が鋭さを消していた。
 僕の手のひらより大きい葉の吐く息が、穏やかな空気の流れを生み出して、前髪をほんの少し揺らす。
 木々は、一生懸命背伸びをして、より高くを目指す。
 そういう季節だ。
 そのへんは何も変わっていないような気もするけど、太陽の光があの頃より弱く感じられる。
 気のせいかもしれない。
 だけどありえない話じゃない。
 その時木の上で、何かがざわざわっと葉を揺らした。
 ふとその方を見ると、茶色の毛をした目の大きな小動物が、不思議そうに僕を見ていた。
 手には一抱えもある大きな木の実を持っている。
 『リス』に似た愛らしい姿だ。
 その生き物は、少し首を傾げると、チチッと小さな鳴き声をあげて逃げてしまった。
 すると今度は茂みから長い耳を寝かせた真っ白い動物が出てくる。
 それはキー、と甲高い小さな声で鳴いて、僕の足もとにすり寄ってきた。
 僕が怖くないのか、しゃがんでゆっくりなでてやっても逃げようとしない。
 この辺りはよっぽど平和なのだろう。
 敵がいないのならば、こんな風にしていても死ぬ心配はない。
 うまくできたものだ。
 僕が立ち上がると、その白い動物は、もう一度だけ鳴いて、何度か振り返りながら茂みの中へ駆け込んでいった。


 目を閉じて、耳をすませてみる…。
 そこには、たくさんの音があった。
 木々の囁き、空気の渡る音、動物たちの声、様々な命の存在が強く感じられる。
 何度も死にかけたこの星が、無意識に行う浄化作用。
 失敗を繰り返しながら、星は何故かまた命を育もうとしている。
 そこにどんな意味があるかなんて知らない。
 けれど何らかの意味があることは確かだ。
 それは、生き物たちが「同じような進化」を遂げているからだ。
 生き物たちは、昔の生き物たちとは違うものだが、同じような姿になる。
 やはりその形態がぴったりと来る気候などの条件があるのだろうが。
 『森』の姿も、『山』の姿も、あの頃と何も変わらないから、だからよけい僕の時間感覚は根本から狂ってくる。
 足もとの草をざわつかせて、僕はゆっくりと進んでみる。
 そのほかには、わずかな命の呼吸が音になって聞こえてくる。
 その静けさは、あの時この星のあげた悲鳴が嘘のように思えるほどだ。
 それでも、あの崩壊は幻ではない。
 けれど、今のこの星にとって、そんなことは最早どうでもいいことだろう。
 大切なのは『現在』であって、過去などもう知っているものもいないのだから。
 …なのに、もしかしたら今までのことはすべて夢だったのではないか…そんな幻が僕をよぎっては消えていく。
 夢だったらどんなに楽かわからないが、それの方がありえない。
 かえって現実だと受けとめて、変な期待をしない方がよほど得というものだ。
 得、といえるほどの得を僕はしていないけれど。


 『森』の深呼吸が、一瞬乱れたような気がして僕は目を開いた。
 何か奇妙な信号が胸の辺りでざわめく。
 懐かしいような、二度と感じたくはないような、わけのわからない感覚。
 木々の悲鳴が、本当の音のように響いたイメージが急に広がる。
 僕は、苦く微笑った。
 その感覚には覚えがあったから。
 くるりと後ろを振り向いて、僕はもと来た道を辿った。





 月は真っ白な光を下界に降らす。
 窓辺に頬杖をついて、僕はその光を受けとめた。
 少しずつ少しずつ離れてゆく月。
 いつか完全に見えなくなってしまうだろう夜の真珠。
 月のあかりは散っていく心の欠片を煌々と照らしだしていた。


 あぁ、だから、今ならわかるよ。
 僕の本当の気持ち。
 何が大切だったのか、何が欲しいものだったのか、何が得たものだったのか。
 そして何が罪だったのか。
 思いが罪でもかまわない。
 時が実れば、どんなに罪深くても、心は咲いてしまうから。
 あぁ、後悔はしていない。
 だから、最後に。
 もう一つの罪を。
 許されなくてもいい罪を。


 『風』が吹いた。
 ほんのり甘い、目の奥がツンとするような『風』。
 僕が待っていたもの。
「逢いたかった──」
 死ねない僕と共に在(あ)るために、お前が最後に望んだこと。
 ──ニ、ナリタイ…
 ああ……。
 なんて優しくて、なんて残酷な選択をしたんだ、お前は……。
 誰より僕を苦しめ、誰より僕を傷つけ、そして誰よりも僕を愛したお前。
 僕の最初で最後の願いを、お前は聞いてくれるだろうか。
 『風』が吹く…。
 暖かな空気。
 花びらが嵐のように渦を巻く。
 綺麗だな…。
 昔、共に見た夢のよう。
 2人で追いかけた幻のよう。


    ───連レテ行ッテ……


 声にはならない声。
 ……『風』が、吹く……。
 僕は穏やかな気持ちになって微笑んだ。
 一瞬、あいつの腕に抱かれたような気がした。





 枝にぽつりと、散り遅れた一枚の花びらが揺れる。
 辺りにはもう、散り落ちた花びらはない。
 そして最後の桜のひとひらが、……風もなく舞い降りた。
 ひらひら、ひらひら。
 淡い淡い紅の色の、心。
 土の上に落ちて。
 静寂。
 ただひとつの、音もしない。





End




<After Words>
結構前に書いたお話のちょっとリメイクでございます。本当はここから始まる長い話だったんですが。
なんだか間延びしそうなのでやめました。
タイトルも最初は「月下迷宮」だったんですけどね、やっぱりここは桜だろう、と思って変えてみました。
しかし、これをのせる時期を考えるとかなり時期外れなんですが、来年まで待ってるのもあれだし。
実はこのお話はとあるアニメ番組のキャラクター設定をもとに書いたモノなんですけど。
たぶん、わからないんじゃないかなあ…。わかる人、います?



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