September 20th, 2000
★ ★ ★
空も明けぬ 起きがけの夢の中で、
あの人の夢を見た。
満天の星空の下で、ふたりは砂浜に座ってそれを眺めていた。
海からまっすぐに、煙のような白い靄。
ただ黙って、流れ星を探していた。
空は藍色だと思っていたけれど、本当は闇色だったんだ。
そんなことを何気なく思った。
星座の線をひとつずつ辿る白い指先。
それは幻のようで。
肩を寄せ合うわずかなぬくもり。
───みつからないね。
短い言葉がやけに耳に心地よく届く。
他には何にもいらなかった。
そして、私は漠然と思う。
───なんだ。こんなに普通に喋りあえたんだ。
私は、とても安堵する。
そこで夢から覚めた。
ぽかり、とベッドの上に投げ出されたようだった。
映り込んでくるのは、くすんだ白い天井と、見慣れた電灯。
わずかに顔をしかめて身をよじると、飾り気のないカーテンの隙間は、まだ暗い。
反対側の壁にかかる時計に目をやったが、なるほど起きるには早い時間だ。
私はもう一度目を閉じる……だが。
目を閉じると、今見た夢を思い出してしまう。
あの人といた夢を。
そんな……夢みたいな夢を。
あんな風にはもう、たぶん笑いあえたりはしないのに。
何をいまさら?
もう幾年も前についえたはずのふたりなのだから。
思い出は遥かに蘇(よみがえ)り、戻ることはない。
さて…今日はどうしよう?
せっかくの休日。
天気も良さそうだし、どこかへ出かけようか。
あんな夢を見てしまった、気晴らしにでも。
簡単な身支度をして、私は家を出た。
行き先なんて決めていない。
ただ電車を乗り継いで、気の向いたところで降りてみようと考えた。
何かを探そうとしても、見つからない。
それは何かのついでにぽんと見つかったりするものだ。
そう思ったからでもある。
今、私の心に、何か……ぽっかりと風穴があいているような気がして。
だからきっと、それを埋めるものを探していたのかもしれない。
いつの間にか失ってしまった心の欠片(かけら)を。
出がけに……ふと気になって、鞄に手紙を放り込んだ。
あの人からの手紙だった。
綺麗な青い封筒に、小さな便箋(びんせん)が1枚……。
それだけの短い手紙。
どうしてそんなものを今更引っ張り出してきたのか、自分でもよくわからない。
……もしかすると、予感のようなものを感じていたのかもしれない。
ぼんやりと車窓からの景色を眺めていた。
次々と移り変わっていくはずのそれは、案外同じような家々の連なりを右から左へ流していく。
その単調な景色に、私はこの都市もそれなりに広いのだと思った。
私がその次の駅で降りたのは、バスにでも乗って少し行き先を変えようと考えたからだ。
繰り返される灰色の町並みに飽きたのかもしれなかった。
高くなったホームから階段を下りると、そこは静かな家々が立ち並ぶ人の少ない町。
客もいない人待ち顔のバスが何台か、ロータリーにぽつぽつと止まっていた。
特に行くあてもない旅だ、どれに乗っても構わない。
とりあえず、別の駅へと向かうバスがいい。
そう思って、一台のバスに狙いを定めた。
その時だ。
「あれ? どうしたのこんなところで」
聞き覚え? ……そんなもの。
「久しぶりだね、元気してた?」
ないはずが、あるものか。
私は誘われるままに、その人の家へとついていった。
別に、何かを期待していたわけじゃない。
……そういったらやはり、嘘になるだろうか。
なる、のだろうな。
無意識にあの駅で降りてしまったことがその証拠だ。
忘れたはずのその人の家への道のりが、一歩一歩ごとにたしかな記憶となって戻ってくる。
私は、その道すがら、その人と他愛ない話をしながら歩いた。
会わなかった時間の、小さなこと大きなこと……。
思っていたよりすんなりと言葉が口をついて出た。
今まで何度も再会を願った、その私の想像の中では、いつも私は辛辣(しんらつ)な言葉を吐いた。
あるいは、その人の口から耐え難い言葉を聞いた。
それはおそらく最悪の事態を予想していたからだろうし、もう二度と会うことがないから、せめてその理由を自分の中で必死に正当化しようとしていたからだろう。
しかし、どうやらそれも杞憂(きゆう)だったようだ。
───なんだ、こんなに普通に喋りあえたんだ。
私は一瞬そう安堵して、そしてはっとした。
夢でも同じことを思った……。
気が付いて、心の中でそっと苦く笑う。
こんなに?
普通に?
そうだな、普通だ……。
けれど、それだけじゃないか?
「紅茶でも入れてくる」
そう言って出ていったその人の部屋を、改めて眺める。
柔らかく光の入る窓。
少し配置の換わった家具。
本の増えた本棚。
新譜のCDが入ったラック。
窓の外の景色は、最後にここを訪れたあの時から、何も変わっていない。
けれど、少しずつ違う。
微妙に何かが変わっている。
あの人も……。
それは、どこか鋭さの消えた口調。
わずかにわがままだった性格は、今では私を思いやる素振りさえ見せる。
そんな、小さなこと。
でも小さいがゆえに、ずっと側にいたら気付かなかっただろう変化だ。
あの人もずいぶんと大人になったものだ。
けれど、そのわがままを聞くことが私は好きだったのだ……と言ったら、あの人は笑うだろうか。
あの人にもう一度出会えたら、失くしていた心のパーツを埋められるだろう。
そう思っていた。
どこかでそう信じていた。
実際、あの人に拒絶の言葉を吐かれるんじゃないかという不安は消えた。
もう二度と会えないという絶望も消えた。
それでは何故、パーツは埋まらない?
合わないジグソーパズルのピースのように、何故当てはまらずにもてあますだけの気持ちがある?
私はふと目を上げた。
机の上。
アルミのフレームの写真立て。
知らない人たち。
私の知らない人たちの真ん中で、楽しそうに笑うあの人。
見たことのない写真の数が、会えなかった時間を鈍く指し示す。
忘れたはずの気持ち。
忘れなければならなかったはずの気持ち。
もしかしたら、いっそ拒絶された方が楽だったかもしれない。
そう、私たちは大人になったのだ。
あの頃のような、無邪気で純粋な思いは、もう……捨ててしまうべきものなのだ。
例えばそれは、薄いガラスのようなもの。
そのあやういガラスの上を、手をつないで歩いているようなもの。
それはとても脆いから、ちょっとしたことで…ほんのひとことの言葉でさえ割れてしまう。
壊れたガラスを嘆き、修復しようとしたところで、割れ目は消えようはずもない。
たとえ再び歩けるくらいに直せたとしても、永遠にその傷痕(きずあと)は残ってしまう。
そんなものなのだ。
私はあの人の家を出てから、また電車をいくつも乗り継いで、小さな駅に辿り着いた。
最終の電車が去っていくその後ろ姿を見送って、無人の改札口を出る。
風は、わずかに潮の匂い。
錆びついた記憶を辿って坂を下る。
新しくなったばかりの暗いトンネルを抜け、人の気配のない民宿の間の狭い路地をさらに下って。
季節が移り変わる前ならば、きっとこのあたりも海水浴客でごった返していただろう。
だがもう、風も涼しくなった。
ぽつんとともる街灯の明かりだけが淋しげに光って、小さな虫たちを巡らせる。
変わっていく、とはこういうこと。
得るものもあるかわりに、失ってしまうものも多い。
ほんの数週間前までの雑踏が、ただ一つの足音に変わってしまった、この寂寥(せきりょう)感。
荒っぽいコンクリートの地面には、今は私の足音だけが響く。
しかしそれも、近付く海の音にかき消されていく。
あぁ、大きな空間───。
どこまでも広い空間。
岬にわずかなあかりが灯るが、それ以外に人工の光のない世界。
星……満天の星。
鮮やかな星の色。
帰ってきた……いつかあの人と来た、この海へ。
あの人との、思い出のはじまりの場所。
夢で見た、あの海だ。
あの人と見たのは昼の海だったのに、どうして夢の中では夜だったのだろう。
夢の中で見たのはふたりだったのに、どうして今ここでは私1人なのだろう。
広い……。
よくこんな場所で、自分をちっぽけに感じるという人がいる。
それもあながち嘘ではなかったらしい。
なんと私は小さいのだろう。
あなたを想う自分の、なんと小さいことか。
知らず知らず、涙があふれてくる。
あぁ、波の音がすべてを洗い流していくようだ。
私の瞳も。
私の心も。
私の中に残る、ふたりの思い出さえも。
不思議と、悲しくはなかった。
しばらくそうして涙を流して……私はふと思い出した。
“何故、私たちはついえたのだろう?”
その理由を知らないことを。
一体、何が起こったのだったろうか。
あなたがいつしか連絡を絶ったのかもしれない。
それとも、私があなたを怒らせたことでもあっただろうか。
思い出せない。
いや、知らない。
それでも……今はもう構わない。
そう、私はあなたと離れてよかったんだ。
どちらにしてもわたしはあれ以上あなたといるわけにはいかなかったのだから。
たぶん、あのままなら……私はあなたを独占しようとしただろう。
「それ以上」をあなたに求めてしまっただろう。
それは間違いなく、築きあげてきたものを壊してしまうことになったはず。
それに…今日あれだけの言葉を交わしたのに、決して心は通わなかった。
だから……もう。
これからも、私たちは「長く続いた友人関係」としてあるのだろう。
たとえ遠く離れても。
それは紛れもない事実だから。
そして私もそれを装う仮面で、何気ないことを何気なく語りながら生きていくのだ。
…………けれど。
私が失くした心の欠片(かけら)は、いつまでもそのままだ。
そのぽっかり口を開けたどす黒い闇は、あなたの面影を抱いたままでいつまでも私の心の底でよどみ続けるだろう。
……そうだ、私はたぶん壊れている。
叶わぬ希望(それは絶望に似た)、それを抱きながら(あるいはしがみつきながら)、生きていくのだ(それは死に限りなく近い)。
もう二度と、(あの頃の)あなたには会えない(永遠に)。
私は、そこで初めて永遠の意味を知った。
“心を持つもの”、それに限りがあるのなら、“永遠”は“取り戻せない過去”でしかありえない。
天の闇。
海の闇。
私の闇。
私は鞄の中に忍ばせた手紙を取り出した。
もう読み返したりなんかしない。
波打ち際まで歩いて、その青い手紙を、そっと波に浮かべた。
それはゆらりゆらりたゆたい、やがて引いていく潮に攫われ、私の視界から消えていく。
……さあ、お帰り。
天の闇へ。
海の闇へ。
私の闇へ。
───流れ星。
ふたりでは見つけられないのに、ひとりでは見えるんだね。
「 さよなら 」
End
<After Words> |
…久しぶりにシリアスな気がするなぁ。シリアスっつうか…なんと申しますか。 モデルですか? ええ、あの人なんですけどね。まだプレイなさってない方もいると思うので、コメント控えます。 そのコメントでばれそうな気配もするけど。 あえて両方とも性別明記しないでみました。どっちでもいいです。どっちだろう。(おまえが迷うな) うーん。変わっていくことも、離れていくことも、仕方ないんだと思うんですけどね。 ただ、それってどっちかはけっこう「置いていかれた」って気分になるものじゃないかなぁ。 「置いていった」方はそれが印象に残らなくても、「置いていかれた」と思う気持ちは強く残ってしまうものだし。 そこから無為に時間が過ぎてしまえば、煮詰まってこんな風になっちゃうんじゃないかなぁと。 間違いだろうな。けど、わかってても思考は螺旋を描いて落ちていく、というか。 あああ。シリアスであとがき書こうっていう方が間違ってるらしいです。ので、やめときます(こんだけ語って?)。 そんなわけで、イメージソングは遊佐未森の「バスを降りたら」と「Island of Hope and Tears」で。 |