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〜宵〜

June 2nd, 2000

★ ★ ★







 タッタッタッタッタッ。


 乾いたアスファルトの上を、かすかな足音が走る。
 耳に痛いほどの静寂に、ただそれだけが響く。
 何の造作もしていないコンクリートの壁は、いやにそれを大きく反響させる。
 今夜は月もない。
 わずかなばかりの星明かりが、細長い通路を照らし出す。
 しかしそれも底までは届かず、澱むような闇が静かにたゆたう。
 それはまるで深淵の闇。
 二度と明けぬ永遠の夜。
 日も届かぬ海の底。
 水底をどこまでも駆ける足音は、暗闇そのもののようにどこか鈍い。
 時折立ち止まるそれは、何かを探している気配。
 キュッと音を軋ませて、一瞬の沈黙が起こる。
 天上で輝く星ばかりが時を刻んでいるよう。
 音と同時に時間も消えてしまったよう。
 いや、わずかに衣擦れの音。
 壁に身を預け、何かに耳をすましている、そんな気配がする。
 そうしてまた地を蹴って走り出す。
 幾度も幾度もそれを繰り返す。
 まるで永久に続く迷路。
 現実にはありえないような景色。


 足音が、突然止まった。
 通路がそこだけ広くなり、あたかも広場のようになっている。
 そこにつながる4本の路、そのひとつに身をひそめ、闇にじっと目をこらす。
 たたた、と小さな羽音。
 寄り添うように聞こえたそれは、頷く気配に羽ばたきをやめた。
 気配が、消える。
 何を探っているのだろう。
 そして音はしばらく途切れた。
 未だ何の気配もない。
 それは何十分にも、何時間にも感じられるほどの。


 その果てに、一陣の風が吹いた。
 生暖かく、不穏な臭い。
 ズ…、ズズズズズ……。
 遠くで、何かを引きずるような音がする。
 ズズ…ズズズ…、ズズ……。
 それはどんどん近付いてくる。
 ちょうど真正面の通路からだ。
 ぽっかり空いた広場には、星の光があまねく射し込んでわずかに明るい。
 ズズズズ……ズ…ズズズズ……。
 何か腐臭のようなものがあたりに漂う。
 じわり、じわりと音が近付く。
 一歩、といえるかどうか。
 けれどそんな規則的な速度で近寄ってくる。
 そしてとうとう、遥か闇の中に金色の光が見えた。
 ズ、ズ……ズズ…ズズズ……。
 光は、かなりのスピードで距離を縮ませてくる。
 あっという間にそれは2つに分裂する。
 同じ高さに並んだまま、光は広場を目指して直進する。
 隠れた影はこそとも動かない。
 ズズズ、ズズ…ズズズズ、ズ……。


 やがて、星明かりのもとにその姿が晒された。
 布をかぶった人間のようだ。
 目の粗い麻袋のような薄茶色の布で全身が覆われている。
 ただその布はあちこちが破れている。
 足もとの方は特に、わざわざ切り取ったように丸く何か所も穴があいていた。
 肩であろう場所からは、斜めに焦げたような跡がある。
 実際しゅうしゅうと音を立て、白い煙がわずかにのぼっている。
 腐臭はどうやらそこからしているようだった。
 ちょうど目のあたりにあの金色の光が並んでいる。
 目というには幅がありそうだ。
 それはあちこちを見回し、ふと振り返る。
 そして何かに怯えるように今来た道に目をこらす。
 ……いや、人間ではない。
 後ろを向いたそこに、まわりが焦げた穴があいている。
 そこには、皮膚も、肉も、骨も、内蔵も、何もない。
 ただ空虚な闇が口を開いていた。





「天に空に地に住みませる幾多数多の精霊たちよ、その加護を我に与えたまえ」
 ぎくりと肩をふるわせたそれは、声のした方向に───真後ろに向き直る。
「我は引き寄せる者、憑かす者、汝らが力を使役する者なり」
 声は淡々とよどみもなく詞(ことば)を綴る。
「我が名においてその力を示したまえ」
 それは、布のような体毛の下から牙をむき、見えぬ姿に襲いかかる。
「精霊召還……降りよ、シルフ」
 その刹那の後、それのまわりをちらと何かが飛んだ。
 空気の密度が、ふいに辺り一帯濃くなった。
 まさに獲物に襲いかからんとしていた牙が、何かに押し返されたように止まる。
 目には見えない重圧がそれを押さえつけたようだ。
 身動きも出来ないのか、くぐもった唸り声のようなものを何もない口の奥からあげている。
「離還。精霊召還、降りよ、フレイム」
 とたんに空気がもとの圧力を取り戻した。
 が、混乱をきたしたのか、それは動けるはずであるのにぴくりとも動かない。
 それとも、動けなかったのだろうか。
 気配すらなかった正面の闇の中に、人の頭くらいの大きさの火の玉がぷかりと浮いている。
 中心から渦を巻くそれは、空中に媒体でもあったのだろうか、まったく衰えない。
 どころか、じわじわとその威力を上げている気すらする。
 引きつけでも起こしたように、びくりとそれは痙攣する。
 おそらく、これがその身を焼いた炎だったのだろう。
 とどめを刺す喜びでも感じているのか、ゴオォ、と音をたてて。
「…………」
 低い、押し殺した声。
 とどめを指示したのだろう。
 どこかその声は甘く、心を酔わせる。
 囁きにも似た、切なく、妖しく、残忍な声。
 炎の燃えさかる音に、含み笑いが混じったのは、気のせいだろうか。


 ふわりと火の玉が高く舞い上がった。
 金色の目ははっとしたようにその姿を追う。
 そこにもし表情が伺えたとしたら、呆然とした表情をしていたことだろう。
 ぴたり、と火の玉が止まる。
 瞬間の、沈黙。
 わずかに後ずさる。
 けれど既に逃げる隙などない。
 火の玉が、憎しみの色を帯びる。
 そして、急降下……!!
 空気を切り裂いて火の玉は、それを目指して一直線に落下する。
 そして。
 ドオオォォォン!!
 ぐるるぉぉぉッ…!
 一瞬にして炎に包まれ。
 それは、あっという間に塵になる。
 吹いてきた風にさらわれ、流されるように消えていく。
 あとに残ったのは、直撃したはずの火の玉。
 それはめらめらと虚ろな炎をあげてたたずんでいる。
 その光が、まるで昼のようにその場を照らしていた。
 他には何もない、狭い通路に立つ者さえも。
 表情をひとつも浮かべないその端整な顔立ちに、
 真紅の瞳だけが妖しく輝いていた。





 頬をくすぐる風が、ようやく暖かくなってきた。
 建物の隙間を辿るいたずらな風。
 少女たちのスカートを揺らし、少年たちの髪をなびかせ、白いシーツをはためかせて。
「涼子! 飛んじゃう飛んじゃう!」
「え? あ、きゃっ! やだやだぁっ!」
 慌てて、洗い立ての真っ白なシーツを押さえ込む。
 風をはらんでふくれあがったシーツは、少しばかり涼子の手に余った。
「もーお。危なっかしいわねぇ」
 何とか押さえ込むのに成功した涼子に、母親の咲子が笑いかけた。
「ごめんなさい」
 ぺろりと舌を出して、涼子も笑ってみせる。
 そうしてエプロンの端にとめてあった洗濯バサミでベランダの竿にしっかりととめた。
 雲一つない快晴の真っ青な空に、シーツの白が鮮やかに映えた。
 それをパンパン、と手で叩いてから、足もとにあったからの洗濯かごを抱えあげる。
 ……と。
 ちらり、とベランダの外を見やった。
 さっきまでそこで遊んでいたはずの子供たちは、もういない。
 咲子に聞こえないように、ふうっと息をついた。


 部屋に入ると、咲子は年の離れた弟の敏一のおしめを替えているところだった。
「お母さん。全部干し終わったよ」
「ありがと。涼子もお洗濯が上手になったわね」
「そう?」
 咲子がいったほんの一言で、涼子のもやもやした気持ちはいっぺんに吹き飛んだ。
 涼子にとって咲子は特別な存在だった。
 今までは咲子の子供は涼子ひとりきりだったのに。
 それを突然現れた敏一に咲子を独占されてしまった。
 けれど咲子の笑顔を見ると、そんな思いさえが消えてなくなってしまう。
 でもやはり、少しだけ……。


 つけはなしたテレビから、無機質なアナウンスが流れる。
『──日午後11時頃、××市○○町の路上で不審な生物が発見されたと通報がありました』
「あら……また?」
 咲子はふと手を止めてモニターを見る。
 ひと昔前のCGのアナウンサーが、合成音声にあわせて口を動かしていた。
『通報を受けた捜査ロボットが現場に急行しましたがそこには何もなく───』
 涼子もまたか、と思った。
 このところ、この手の話題が多い。
 いつからだったかは覚えていないが、気が付くとそれが日常のようになってしまっていた。
 突然現れた突然消えた、そんな今時流行らないだろう話がこうして毎日のようにニュースになる。
 お偉い学者や研究者は、電磁波が脳に及ぼす悪影響であるとかストレスから来る集団ヒステリー、集団幻覚だと分析する。
 つまり幻だ、と彼らは言いたいらしい。
 涼子もそう思う。
 化け物だ未確認生命体だ地球外生物だと、世間の人々は騒ぎ始めている。
 だが、映像や物的証拠がなにひとつないものを、どうやって真実だと言えばいいのだろう。
 所詮見間違いだ。
 怖い怖いと思って見ていると、脳の中で勝手に置換されることがあるらしい。
 この世に起こるすべての怪異な現象は、それで説明がつくと涼子は考えている。


『なお、この事件に関する負傷者はおりません。警察では引き続き捜査を続けていく方針です』
「怖いわね…涼子も表に出るときは気をつけてね」
 本気で心配そうに自分を見る咲子に、涼子は笑顔を向けた。
「いやあね、お母さん。本当にそんなのがいると思ってんの? 錯覚に決まってるじゃない」
 言うが、やはり気がかりらしい。
「あぁ、そうだ。今日お父さん早く帰ってくるんでしょ? 私買い物に行ってくるね」
「え? いいわよ、宅配で頼むから」
「大丈夫だってば。それに、やっぱり品物を見て買った方が確実だし」
「そう…?」
 今にも引き止められそうな様子に、涼子は素早く立ち上がった。
「すぐ帰るから。心配しないで」
 咲子から財布を預かり、涼子は玄関へと駆けだした。
 見送りに立とうとした咲子だが、敏一がふいに泣き出したために、それは叶わなかった。
 玄関のドアが閉まる音が、わずかに聞こえた。





 夕暮れの町には人の影が少ない。
 珍しく早く帰る父のために、自分の小遣いを足して奮発した材料を提げて、涼子はとぼとぼと歩いていた。
 今は機械式の宅配システムがメインであるため、買い物に出かけることも減った。
 実際品質がそう劣るものではないし、第一楽だから、涼子の家でもいつもはそうしている。
 けれど。
(家にいたく、ないんだもん…)
 まだ中学にあがったばかりの涼子には、気持ちの整理がつかないのだ。
 家には敏一がいる。
 母は敏一にばかりかまっている。
 だが仮にも敏一は自分の弟だし、母が大変なのもわかっているから、涼子は進んで手伝いをする。
 もしかしたらそれは必死に「いい子」をアピールしているからなのかもしれないが。
 とにかく、手伝いをすることで、同い年の少女たちのように遊び回ったり出来ない。
 咲子にかまってもらいたいことと、友達と遊ぶこと。
 子供から少女に変わっていこうとしている涼子の心の中で、それが葛藤する。
 それでも、両方とも原因はひとつだ。
「……敏一が、いなかったらよかったのに」
 知らず知らず涼子の口をついた言葉。
 涼子は気付かず自分の影を踏む。
 が、すぐに…いやな気配を感じた。
 生臭い空気…。
 思わず硬直して、足を止めた。
 遠くない。
 すぐそばに…!


 振り返ってしまって、涼子はひっと息をのんだ。
 金色の目、古びた袋をかぶったような姿、吸い込まれそうな闇の口。
 知っている…いや、聞いたことがある。
 どこで? そう、さっきもアナウンサーが繰り返していた、あの中に似たような表現がなかったか?
 声が出ない。
 涼子にあと一歩で届きそうなくらい近くにいたそれは、黄がかった色の大きな牙をむいていた。
 それは完全な、殺意。
(…なんで? どうして? 夢、よね? ああそう、私幻を見てるんだ…!)
 しかし、この生温い息はなんだ?
 幻には見えない、繊維のような毛までが一本一本鮮明な、このリアルさは?
 ぺたり、と涼子は座り込んだ。
 というより、立っていられなかった。
 呆然と、それを見つめていた。
 ぐる…ぐぉぉぉ…!!
 それは雄叫びのような声をあげる。
 何がなんだかわからない。
 それが迫ってきて…涼子はやっと声をあげた。
「…っ、きゃあああぁぁぁーーっ!!」
 ゴオオォォッ!!
 涼子の悲鳴にかぶさるように、ものすごい熱気が体をなでて吹きさった。


 気が付くと、それが発していたらしい臭気が消えていた。
 そのかわりにぱちぱちと何かが燃える音がする。
 涼子はおそるおそる、無意識に顔を覆っていた指をそっとはずした。
 目の前で、大きな火の塊が何かを燃やし尽くそうとしているところだった。
 それが涼子を襲おうとしていたあれだ、と気付くのには少しばかり時間を要した。
 そして、その炎の向こうに人影があることを知るには、しばらくの時間が要った。
 さぁぁ…っ。
 湿気を帯びた風が吹く。
 燃えていたそれが灰になり、吹き飛ばされてどこへともなく運ばれて。
 涼子はそこに立っていた少年に目をとめた。
 すらりと背の高い、高校生くらいの少年だった。
 感情を見せないその容姿は、思わず見惚れてしまうくらいに整っていて綺麗で、まるで───魔物のよう。
「…………っ!」
 涼子は再び息をのみ、体を固くする。
 あれの仲間が来たのか、と思ったからだ。
 彼の雰囲気、そして、血のように紅い瞳……!


 どこからか火の玉が飛んできて、ふわりと彼の肩に、寄り添うように浮かんだ。
(殺される!)
 不意に思って、大声を上げようとして…涼子は動きを止めた。
 少年が視線を逸らして、わずかに唇を開いたからだ。
「…あいつらは、人の負の感情を好んで喰らう」
 魔物だとは思えない、落ち着き払った声で、彼は言った。
「喰われたくないのなら、出来るだけそんな感情は持たないようにするんだな」
 それだけ言って、少年は踵を返した。
 側で浮いていた炎も、それにならうように飛ぶ。
 そこで涼子はやっと我に返った。
「あ、あの…!」
 掠れた声をかけると、立ち去りかけた少年が視線だけ振り向かせた。
「あ、あれ、は…本物の化け物、なんですか」
 涼子の問いに、少年は少しだけ視線を落とす。
「…目で見るものよりも、感覚を信じればいい」
 そして彼は歩いていく。
 今度は涼子が呼びかけても立ち止まりはしなかった。
 なんでもなかったように去っていく背中を、涼子は呆然と見ていた。
 やがて騒ぎに気付いて飛び出してきた近所の主婦に声をかけられるまで、ただそこに座り込んでいた。
 すべてが、信じられなかった。





 宵の空に、明るい星がひとつ輝いた。
 それが道を指し示すようなものでないことは、もう知っている。
 既に回り出してしまった歯車を止める方法はない。
 影が長く、道と同化していきそうな中を、少年はあてもないように歩いていく。
 目的地は、見つからない。





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<After Words>
はい。元来、わたしが得意なのは(?)この系統のお話ですね。奇妙なファンタジー。
あれ、奇妙だからファンタジーって言うんでしょうかね。
これは少しずつちまちまと、長々だらだらと続けていく予定でございます。
このサイトのメインになればいいな♪ と思ってるんですけれど、いかがでしょうか。
まだ序章なので、次章からちゃんとした話になって…えーと…いけるといいなあ。
ちょっと弱気。



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