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花を 捧げましょう あなたのために 野に咲く花を あなたのために 一輪 一輪 手折りましょう 精一杯の心をこめて 今はもう 逢うことのできない あなたのために あなたのいるその場所には どんな花が咲いているのでしょう それが 僕の捧げた花であればいいと 僕は今 心から思うのです 願わくば いつか あなたとふたり 並んで その花を 見つめられますように |
ええと。 まず最初に謝っておきましょう。 すみません。 ごめんなさい。 生まれてきてごめんなさい。 やっちまいました。 しかも「6月30日は妹子の命日だから」が行動の原点でした……!!! で「…同じ所に辿り着けたのかなぁ」ということでこんなことに…。 元ネタは六角堂の伝説から……。 最初は、妹子の命日に詩をひとつ…ということだけだったんです。 詩のページに載せようと思っていただけなんです。 でもそれがこんなことになってしまいました。 えー。 「天上の花」とは、曼珠沙華の別名です。 曼珠沙華に見えないところが痛いです。 それ以前に妹子に見えないところが激痛です。 妹子が好きです。 ……しょっぱなから死にネタで本当に申し訳ありません!! 一応、以下に遣隋使好きさんにとっては蛇足な補足を入れておきますね。 「日和」ファンとはバラしていない友人向け日記(笑)に書いたものです。 |
07.07.08 追記。 のんびりとサイトチェック(注:自分の作品を見直すこと←自分好きかおまえ)を していて、星の庭園(色々痛い、詩とかのページ)を眺めていて、思い出したことが! そう…曼珠沙華の花言葉って、「思うのはあなたひとり」だったんですよ!! 思うのは、あなたひとり……あなたがいない今でさえ、ってことですか!? せっ、切ねぇ……! |
バック画像は満月夜会様の素材を使わせていただきました。
(以下、別の日記にてだらだら語った内容です) |
6月30日は小野妹子の命日です。 そして、今年2007年は妹子が1回目に隋に渡って1400年目となります。 そんな節目にお送りする本日のひとりごと。 彼は歴史上超メジャーなひとですが。 たぶん、どんな人物だったのかを道端で聞いたとしたら、結構な割合で「遣隋使の人」くらいしか答えは返ってこないのではないかと思います。 え、スピードワゴンの「ドラマ部」のネタを思い出す? そんなやつおらへんやろ〜。 概要としては…。 607年7月3日、隋へ出発。 608年4月、隋の使者裴世清を伴い帰朝。 同年6月15日、煬帝の書を百済にて紛失したことを奏上し、群臣は処罰を求めるものの、大王はこれを許した。 同年9月5日、裴世清を送るため再び隋へ。 609年9月、帰朝。 こんなところですかね。 歴史の教科書に載るとすればこのあたりまでかと。 その後のお話。 遣隋使に任命された当時大礼(冠位十二階の5位)だった妹子はその後大徳(冠位十二階の1位)までに出世。 のちに出家し六角堂へ入堂いたします。 六角堂といえば。 聖徳太子が物部守屋との戦いにおいて、仏に祈り勝利をもたらしてくれた際には四天王寺建立を約束すると誓ったわけですが。 その四天王寺建立のための資材を求めてその地を訪れたとき、池があったので沐浴をした、と。 その時衣と一緒に持仏を木にかけたら取れなくなってしまったそうな。 どうやらその持仏が「ここにとどまりたい」と夢で告げてきたそうです。 ならば、と建てられたのがこの六角堂である、といわれております。 妹子はその池の畔に坊を構え、太子の教えに従い、毎日花を供えたのだそうです。 入道後の名前は、「専務」。 もっぱらつとめる、で専務。 ただ仏に祈り、花を供える勤めを果たすために。 妹子は生没年不詳ですし、入道のタイミングはわかりません。 が、609年時点で大礼だったことを考えると、622年の太子逝去以降なのかな、という気がします。 ちなみに、妹子の子で天武天皇に仕えた小野毛人は677年12月に亡くなっていることがわかっています。 小野毛人墓誌には「御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」とあって、太政官と刑部省のお偉いさんだったことを考えると相当な歳まで生きての逝去だろうと思われます。 そして、妹子が亡くなったのは669年、という説もありまして。 ……これを…しゃかしゃかと考えていくと…。 やっぱり妹子が隋に赴いたのは20代だったのかな、と。 で、太子は34だよな、と。 池の畔にあったその坊を、世間の人は「池坊」と呼びました。 現在まで伝わる華道の池坊は、ここに端を発するのだとか。 大阪府南河内郡太子町にある小野妹子廟が、そのお墓だと言われています。 辿り着くまでにはかなり登るようですが、静かでいいところだそうですよ。 ちなみに、聖徳太子陵もこの町にあるんだよな……。 いっそ行ってしまいたい。 |