〜ON THAT OCCATION〜

January 2nd, 2002

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− 1 −

 水面に叩きつけられても意識があったのは、奇跡としかいいようがなかった。
 冷たい、も痛い、もない。
 窮地に一瞬にして感覚は麻痺したらしい。
 頭がじんじんとする、必死に水から顔を上げて、
(ふたりは!?)
 何よりまずそれを思う。
 目に映るのは昨日までの雨で勢いを増している濁流。
 慌てて左右を見回すと、がつんと何かが肩にぶつかる。
 とっさに手に取ったそれは、見慣れた杖。
(……! ルック!!)
 レイが崖から足を滑らせた時、一番近くにいたのはルックだ。
 シーナが気付いて声を上げた時には、ルックの飛び込む姿が見えた。
 ということはつまり、ルックの方がシーナより先に落ちたはず。
 思って視線を巡らす、すると自分よりわずかに下流の方向に人影がある。
「ルッ……!!」
 声を上げようとした瞬間、何かに足をとられてシーナの体が水中に沈む。
 どうやら流木が足をかすったようだが、それどころではない。
 思い切り手で水をかいて再び水面に浮かび出る。
「ルック!」
 今度こそちゃんと声になった。
 ほとんど叫びのようだったそれは、ルックになんとか届いたようだ。
 ルックはちら、と視線を寄越すと、その視線を自らの前に移す。
 シーナはそこに探していたもうひとりの姿を見つけた。
 ほっとしたような、寒気のような、何ともいえない気持ちで胸がいっぱいになる。
 歯を食いしばって、腕を動かす。
 ほとんどもう何も感じていない足も、たぶん動いていたはずだ。
 そうして必死に泳いで、急流の間に時折見えなくなるふたりに、何とか辿り着く。
 ルックが渾身の力で抱えているレイは、どうやら気を失っているらしい。
 シーナを見たルックの瞳は、おおよそ普段のルックらしくない、少しの不安を刷いた色。
 それでもこの状況でそれだけ気丈でいられるのはすごいと思うが。
「…シ……ナ……」
 水にむせながらの小さな声。
 シーナは、そっとルックに笑ってみせた。
「大丈夫。もう…大丈夫。何とかなるからさ……」
 たぶん、何度も沈みながらのその言葉は、ちゃんとした言葉になってはいなかっただろう。
 けれどシーナがそのセリフを言い終えると、ルックはふっと目を閉じた。
 ギリギリで保っていた意識が、遠のいてしまったらしい。


 ルックにはああ言った。
 だが。
(…なんとかなるよーな状況じゃないけどね…)
 そんなことはわかっている。
 なんとかなるならその方法を教えてほしい。
 川の両側は相変わらず垂直の崖だ。
 しかしこの速さでは、たとえ足場があったとしてもそこによじ登ることが果たしてできるだろうか。
 おそらく、このまま流されていけば、下流へ出る。
 そうすれば流れも穏やかにはなるだろう。
 けれどそれは、何も障害がなければの話だ。
 上流でどこか崩れたのかもしれない、木だの石だのが流れているこの川で。
 しかも、ふたりは気を失っているというのに。
 そしてこの冷たい水……。
「ちくしょー……」
 なんとかなるならないの問題ではない。
 なんとかしなければ。
 せめて、
(…せめて、レイとルックだけでも…っ)
 あれこれシーナは考える。
 ふたりが助かる方法は?
 溺れそうになりながらあたりを見回す。
 何か…何かひとつでいい、助かる方法を!
 が、そのシーナの目の前。
 川の真ん中に、流れを遮るような大きな岩。
(……っ、やべっ!!)
 まっすぐあれにぶつかる流れ。
 さっきから、気のせいか少しずつ勢いを増してきた流れのせいでコースを変えることすらできない。
 とっさに、ふたりの体をぎゅっと抱え込む。
 岩から、背中にふたりを守る体勢だ。
 そして衝撃はすぐにやってきた。
 どん、とぶつかった感じ、じぃんと背中が痛む。
 激しい水音の中で、みしりという音を聞いたような気がした。
 それで一瞬、意識が遠のきかけた。
 それを、何とかつなぎ止める。
(ま…だ、ダメだ…っ。レイ…とルックを……っ)
 よけいな思考はもう一切ない。
 なんとか、というその願いだけで。
 衝撃で水に沈みかけ、また浮かび上がる。
 そのシーナの目に、崖の切れ目が見えた。
 やった、と思ったのも束の間。
 どんどん速くなる水の流れと、唐突に途切れた崖の意味に、鈍くなった思考が追いついた。
(…え? …まさか、これって…。これって……!!??)
 まさか、と思いながら理解はしている。
 シーナは腕の中のふたりを、力一杯抱きしめた。





(世の中には、奇跡ってモンがあるんだなー…)
 ごろりと体を投げ出して、シーナは荒い息をようやく落ち着かせた。
 背中に感じる土の感触がやたらと懐かしい。
 濡れて張りつく服が気持ち悪かったが、それも急流の中に比べれば全然マシだ。
 まったく、あの滝を水と一緒に落ちて、よく意識が残っていたものだ。
 そして、よくふたりを放さないでいられたものだ。
 あのあと、さすがに腕に力が入らなくなったが、それでもそこに運良くせり出した岸が近付いてきた。
 そこで力を振り絞り、ふたりを抱えて泳ぎ着いたあと、岸にはいのぼったのだ。
 どうやらそこは、森のようだった。
 道のひとつもない。
 ふたりに水を吐かせると、ようやくシーナにも思考が戻ってきた。
「あー…なんとか…助かったかなぁ……」
 大地に体が触れていると、何となく安心する。
 土がこんなにありがたいものだったとは、今まで思ったこともなかった。
 流されてここがどこだかはわからないが、頼りなく水に流されている状態を思えば、それこそなんとかなりそうな気がした。
「……っう……」
 と、か細いうめき声。
 力が入らないはずだったシーナは、勢いよくがばっと飛び起きた。
「ルック!?」


 覗き込むと、栗色の髪を額に貼り付けたままのルックが、薄く目を開けていた。
「ルック…大丈夫?」
 声をかける。
 ルックはそのうつろなままの瞳をわずかにずらす。
 なんとかシーナが視界に入ったのだろう、シーナに向かって小さな声で、
「…レイは……?」
 と訊いた。
「あ、うん、気は失ってるけど…大丈夫。水も吐いたから、少しすれば気がつくと思うよ」
「そう…」
 返事は、安堵の色。
 そして返事をしたかと思うと、ルックはゆっくり体を起こそうとする。
 けれど、
「…っつ…!」
 とうめいて、腕を押さえてうずくまってしまう。
 焦ったのはシーナだ。
「ちょ…っ。ルック、もしかして腕…! な、動かない方がいいって!」
「で…も。川の音…聞こえる。川のそば…だろ? もしかする…と、まだ増水するか…も、しれない…。できる…だけ…離れなきゃ…っ」
 左腕を抱え込むようにして、右手だけで起きあがろうとするルックをシーナは思わず抱きしめた。
「ぃた…っ!」
「あ、ごめん…! で、でもその体で動いたらまずいって」
「そうは…言うけどね。ここから…」
 ルックはシーナの体を押し戻そうとする。
 だがここで離しては、間違いなくその怪我を引きずって森の奥に向かうに違いない。
 ルックにそんなことをさせるわけにはいかないのだ。
「だってルック、ケガしてるんだから。ねっ?」
「けど」
「あぁ、わかった、わかったよ。オレが連れてくから。オレがレイとルックを連れてく。それならいいだろ?」
「誰が…あんたなんか…」
「今回だけでいいから。オレのお願い、聞いてくれって。な?」
 言い聞かせるようにして、ルックの目を覗く。
 ルックはしばらくその目をじっと見つめ返していたが、ふとその視線が力を失った。
「…今…回、だけ…だよ…」
 消えそうな声。
 腕の中のルックは、再び目を閉じた。


 はぁ、とシーナは息をつく。
 頑固だとは思っていたが、放っておいたら本気でやりかねないところだった。
 気を失ってくれていた方が、痛みを感じなくていい。
 見たところ、ふたりとも命に別状はないようだし。
 よかった、と思うと同時に後悔もしている。
(…もうちょっとちゃんと魔法、修行しとくべきだったなぁ。せめて治癒系の魔法が使える紋章持ってたら…ふたりのケガ治してあげられたのにな…)
 ぱしゃんっ、と川辺で水が音を立て、シーナはぷるぷると首を振った。
 そうだ、今はそんなことを考えている場合ではない。
 少しでも安全なところへ行かなければ。
 そう思ってシーナは、とりあえずあたりを確認するために立ち上がった。
 いや、立ち上がろうとした。
「…………っ!?」
 ずきんっ。
 急に、背中に殴られたような痛みが走る。
 違う…背中だけじゃない。
 腕も、足も、体中至る所に鈍い痛みがあった。
 見れば、何かで擦ったらしい傷が数か所、足にはえぐられたような傷がぱっくり口を開け、血が流れ出している。
「うっわー…そっか……」
 ようやく、急流の中で岩に激突したことを思い出す。
 それにルックが腕をやられていて、自分が無傷だなんて考える方がおかしいのだ。
 今までは、ふたりのことで必死で、痛覚さえ無視していたらしい。
「…とにかく、まずは森の奥、だよな…。オレのケガは、そのあと考えよ…」
 自分に言い聞かせるようにつぶやく。
 見回すと、最低限の荷物は残っているようだ。
 レイが腰に結わえ付けていた荷物、気を失っても手放さなかった棍。
 あの急流の中でもシーナが必死に握りしめていたルックの杖。
 ベルトにはさんだままだったシーナの剣も、なんとか無事だ。
 なんとかなる。
 シーナはさんざん思ったその言葉を、もう一度胸に叩き込む。
 ふらつきながらも無理矢理立ち上がると、貫くような激痛が襲ってきた。
 困り果てたように笑ったその声は、乾いた笑いにしかならなかった。


 そこが森だったのも、ラッキーだった。
 すがるように枝をつかみながらシーナはそう思う。
(これががらーんとした平地だったら、歩けないもんなぁ…)
 見通しも悪いし足場も悪いが、つかまるものがあるから歩けるのだ。
 背にはレイ、腕にはルックを抱えて、さらに自分は怪我。
 さっきからやたらと目がかすむのもいただけない。
 寒いわ目眩はするわ足下はおぼつかないわで結構これは最悪かもしれない。
(まぁ…あとは、できればモンスターなんかに出くわさなきゃいいんだけどなー)
 それは切実な希望だ。
 川に落ちた時はまだ東にあった太陽は、もうだいぶ西に傾いている。
 やはり魔物は昼より夜に多い。
 できれば日が落ちてしまう前に、どこか休めるところがほしい。
 そんなことを思っていた時だ。
 草をかきわけ、低くたれた枝をよけたシーナの目に、ぽっかりとあいた穴が飛び込んでくる。
 よく見るとそれは大きな岩で、そこに大きな横穴があいているようだ。
 たぶんいくつもの大きな石が積み重なって自然にできたものだろう。
 念のためあたりをうかがってみたが生き物のいる気配はない。
 その横穴にも気配はない。
 何かがいた痕跡もどうやらなさそうだ。
(ここなら大丈夫そうかな…)
 注意深く、その穴に入る。
 奥行きはさほどでもないが、高さが結構ある。
 3人で休むにはちょうどいいくらいの大きさだ。
 シーナは、その奥の方に丁寧にルックとレイの体を横たえた。
 荷物もレイの頭のそばに置く。
 そこで一息つく…が、またはっと気付いて、
「そうだ、火…。体あっためなきゃダメだよな……」
 くるりと体を入り口に向けた。
 とたんに頭がぐらついたが、なんだかそれにも慣れてきたところだ。
 シーナは自分の剣だけを持つと、横穴から外に出ていった。



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