June 25th, 2004
★ ★ ★
− 1 −
大きく息を吸う。
静けさを含んだ冷たい空気が体に入り込み、細胞のひとつひとつにまで行き渡るイメージ。
そこでそっと息を止めると、一方向に流れていた空気が動きを止め、行き場を求めてぐるぐると回り出す。
その感覚にじっと神経を集中させる。
息を吐くと、それが抜けていく。
また息を吸う。
今度は息を止めずに、先程の巡る感覚を再現させる。
初めはバラバラだったイメージと呼吸が、だんだんとリズムを帯びていく。
目を上げて、星の瞬きにさえ同調するように。
息を吐く。
息を吸う。
吐く。
吸う。
繰り返す。
何度も何度も。
体の中を隅から隅へと回る感覚。
一連の流れを自然に体が行うようになってくる。
そうして、ようやく深呼吸して体の力を抜いた。
わずかに熱を持った肌に、風が心地よい。
「………レイ?」
階下へ続く階段から、シーナがひょいと顔を覗かせた。
振り向いたレイは表情を和らげる。
「こんな遅くにどうしたんだよ」
「それ、オレのセリフ。レイって朝起きんのも早いのに」
「寝ててもなんか落ち着かなくて。って、いつまでそんなとこにいるんだよ」
「いや…レイの邪魔しちゃ悪いかなーと思ってさ」
「今更でしょ」
軽く言うと、やっとシーナが明るい笑顔を見せる。
レイの様子にさすがのシーナも遠慮していたらしい。
許可が下りたとあって、いそいそと駆け寄ってくる。
まったく、わかりやすい奴だ。
「ところでさ、何してたの?」
気になっていたらしいシーナが訊く。
「ん? 集中力の特訓」
「ふーん?」
「完全に独学なんだけどね。魔力をコントロールするにはやっぱり集中力っているだろ? イメージトレーニングって言ってもいいのかな」
つい、とシーナの視線がレイの右手に落ちる。
そうしてすぐに慌てたように目をそらしたから、レイは笑って肩をすくめてみせた。
「いいよ。その通りだから。………時々、負けそうになるんだ。今は、大丈夫だけど」
左手でそっと、自分の右手を包んでみる。
さほど大きくもない手。
でもこれが宿したものの意味は。
これが呑み込んだものの重さは。
だから今は、考えないようにしている。
それの意味を考えてしまっては、きっと潰されてしまうから。
今レイがその呪いに心ごと喰われてしまったら、成されようとしているこの革命は……。
あの冷たい雨の日から、「運命」という言葉に踊らされている。
……ぽん、と。
いつの間にか強く握りしめられて震える両手に、シーナは軽く手を乗せた。
はっとして見ると、琥珀の瞳と真正面からぶつかる。
「根詰めてたら良くないぜ? リラックスも必要だよ。緊張と緩和のバランスが大切なんだからさ」
「………そのセリフ、シーナっぽくない」
「えー? オレが理知的だとそんなに意外? 惚れ直した? ん、じゃあそろそろ寝よっかー。眠れないなら、オレ、添い寝するし」
「…………ごめん、おまえ間違いなくシーナだわ」
調子づいたシーナが抱きついてきそうになるのをさらりとかわし、レイはさっさと歩き出した。
あとからついてくる足音は、空耳じゃないたしかな音。
なんとなくそれを、暖かい思いで聞いていた。
夜の静けさが好きだ。
どこに誰がいるともしれない昼間とは違って、自分の世界を邪魔するものがないから。
灯りはわずかに灯る燭台の火、あとは窓から見える星くらい。
夜は穏やかだ。
優しい、とすら感じる。
物怪でも現れそうな闇も、静謐ささえ感じさせてくれる。
人に光と闇の属性があるのなら、自分は闇に属するのだろう。
夜の中でひっそりと呼吸を繰り返す。
それがたぶん一番適しているのだ。
いっそのこと、このまま夜の中でだけ生きられたら、と思う。
いや……どうせ「いっそ」と願うなら。
「あれ」
声を聞くような時間ではない。
だからそれは気のせいなのだろうかと一瞬思った。
気のせいでその声を聞いてしまったのなら、それはそれで悔しいのだけれど。
しかし顔を上げると、廊下から覗き込んでくる顔があって、どうやら気のせいではなかったことを知る。
「どうしたんだよ、こんな遅くに?」
つい聞いてしまうと、シーナは眉をひそめながら笑った。
「同じコト聞くんだからなー」
「は?」
「んー、いやいや。こっちの話」
ルックは首を傾げるが、シーナはなんでもないというふうに首を振る。
言いたくないのならそれでも構わないが。
「いいけど。でもあんたがこの時間まで起きてるのって珍しいよね?」
「気を付けてないと、早起きのクセに夜更かししちゃうハニーがいるからさ」
「何それ。僕のこと?」
「だけじゃなくて」
言うと、ルックは目を落とす。
誰のことを言っているのかに気付いたのだろう。
気付くまでもなく、知っていただろうし。
「……やっぱり。眠れないみたい?」
「いや、最近は平気だよ。夜中に目ェ覚ましてる気配も前ほどはないし。ただ、寝てても落ち着かないんだ…って言ってた」
「そう………」
最近ふたりでいると、レイの話になる。
過保護ではないかと感じながら、思わずにはいられない。
けれど、とルックは頭を振った。
「…あんたってそんなに頻繁にレイの部屋に行ってるんだ。しかも夜中に」
「うっ。いや、ほら、あれだ、レイってリーダーだし、狙われちゃうし、用心に越したコトはないじゃん? 時々クレオさんたちが交替で立ってるみたいだけどー」
焦ったシーナのセリフ。
ようやく場の空気が和らいで、ルックがわずかに笑う。
「いいよ。別に弁明しなくたって。あんたってそういう奴だろ」
「わわわわ、でもオレのコト誤解されちゃうとあれだしっ」
「誤解も何も。今更取り繕うようなモノがあるとでも思ってんの?」
「それが誤解なんだってー」
ふりほどいてもふりほどいても、何度も伸ばされる手。
懲りることを知らないのだろうか。
鬱陶しい。
……と、思っていた。
自分に伸ばされる手なんて、あったとしても迷惑にしか思わないだろうと。
そう、あの日、魔術師の島で初めてレイに会うまでは。
あれから少しずつ、変わってきた「何か」。
なんとなくそれを、暖かい思いで見つめていた。
覗き込むと、壁に寄りかかって何やら大きな紙を広げるレイ。
誰もいない部屋にぽつんと。
シーナはなんだろうと思って足を踏み入れる。
「んー? ずいぶん早いね」
とたんにのんびりしたレイの声。
顔は隠れていて見えないが、こっちにも気付いていないだろうと思っていたのに。
「早い???」
「…忘れてるな? 軍議入ってただろ、今日はさ」
「あ」
呟くと、苦笑気味のレイが顔を上げた。
「たまにはやる気見せるんだ、って感心したところだったのに」
「あ、いや、覚えてたよ。ばっちりさ」
「はいはい。そーゆーことにしとこうか? …で? 来たからには出るんだろ」
「…………はい」
レイに言われてしまっては、断れない。
本当は堅苦しいことは好きじゃないのに。
でも、それでも、近くにいたいじゃないか。
「…あぁ。早いね」
そこにタイミング良くルックが現れる。
もう、これで完全に逃げ場はない。
いや、逃げる気なんて本当はレイの姿を見た瞬間から皆無だったのだ。
それでもいいか、などと思ってしまうところが結構単純かもしれないよな、と自分でも思うのだけれど。
「おはよ、ルック。ルックも早いね」
「別に他にすることもないからね。どうせレイも早いんだろうと思ってたし」
こんな時でもないと、顔をつきあわせる時間もないだろ、と小さくルックは言った。
このところ、パーティを組んで外に出ることが少なくなった。
そのかわり、軍を率いての大規模な戦いが増えている。
それだけ、こちらの勢力も強まったと言うことだ。
少数のゲリラ戦ではなく、真っ向から戦えるだけの戦力がついたのだから。
そんなわけで、最近は戦闘よりも戦場にいる時間が多い。
戦闘と戦場は、どちらも命がけで戦うことに変わりはない。
けれど違いはたくさんある。
人の多さも、戦い方も。
でも一番違うのは、3人に「格差」が出来ること。
パーティを組んでいれば隣にいられるのに、「解放軍」ではレイはリーダーで、ルックは魔法の使い手として重宝されている。
…立つ場所が違う。
たしかにシーナも戦力として一目置かれてはいる。
それでも、「レパントの息子」だと真っ先に見られてしまうから。
どう見られようが知ったことじゃないし、「息子」という立場を最大限利用させてもらっているのも事実だ。
ただ、一緒にいられない。
それが不満だ。
不満だと言ってもどうしようもないのが現実なのだけれど。
「なーに辛気くさい顔してるんだよ」
気付くと、レイが仕方のない奴、とでも言いそうに笑っている。
ルックも呆れ顔だ。
「情けない顔してんじゃないよ。まったく」
……一緒にいられない。
なら、いられる時間は出来る限り一緒にいたい。
「あー…。うん。あ、でも、こーいう憂いを帯びた感じがクールでカッコいい、とか思わない?」
「「思わない」」