〜BLACK〜
<後編>

August 8th, 2004

★ ★ ★







− 1 −

 石板の横に立って、ぼんやりと入り口の向こうの廊下を眺める。
 それは変化のない景色だ。
 ろうそくの明かりが微かに揺れてはいるが、変化といえるほどの変化ではない。
 時はたしかに動いているはずだ。
 けれど、その実感がない。
 まるですべての時間が停止してしまったように世界は動かない。
 一見風景画のようだけれども、特別注目するものもない絵なんて、ただの静止画だ。
 きっとものの数分で飽きてしまうはずのつまらない構成。
 だが自分の心の中に思考を飛ばして、何事か考えるにはうってつけだ。
 動かない風景は、心に波風を立たせることもない。
 何にも邪魔をされず、思索にふけることが出来た。
 元来うるさいのを嫌う方だったから、そうやって立っていることが多かった。
 ふと。
 かたりとどこかで音が聞こえたような気がした。
 思わずはっと顔を上げてしまう。
 顔を上げて、そしてすぐに首を振る。
 以前は……たとえ多少の物音がしたところで、意に介さず考え事をしていられた。
 それが今ではどうだろう。
 一瞬、「また来たのか」と思った自分がいる。
 誰が来ようが関係なかったはずなのに。
 思わず気配を探してしまう自分がいる。
 いったい何なのだろう、この変化は。
 別に…来れば来たでうるさいだけだろうに。
 それでも、知らず知らずのうちに探している。
 それを今でも妙だと思っているのに。


 特別何かを思い立ったわけではないが、ルックはその場を離れた。
 廊下へ出ると、ひんやりした空気が足をなでる。
 一体今は何時だ?
 時間を計りかねて階段を覗き込んだ。
 すると踊り場の窓の向こうは、すっかり夜の景色。
 鈍い紺色の空に星がいくつか光るのが微かに見える。
 さっき部屋を出た時はまだ昼間だったから、相当石板の横でぼんやりしていた計算になる。
(たしかに……僕も危なっかしいかもね)
 ひとり思って肩をすくめる。
 多少眠らなくとも平気だが、まったくゼロで大丈夫だというわけでもない。
 ちらりと階上に目をやり、ルックは踵を返した。






 今夜はずいぶん風がある。
 開け放した窓から流れ込む空気が、少し冷たい。
 何度か瞬きをして、レイは寝返りを打つ。
 今夜も頭が冴えて眠れない。
 眠くならないのではない。
 浅い眠りの中で見る夢が、やけにリアルで…決まって悪い夢だったりする。
 だから、なんとなく眠るのが怖かった。
 起きた瞬間に頭の隅に残る残像の紅が、どうしようもなく痛い。
 それは自分の負った痛みではないはずなのに。
 夢……誰かが、暗く紅い海に倒れている夢だ。
 誰か、というのは眠るたびに違った。
 仲間だったり。
 家族だったり。
 喪ってしまった人、だったり。
 喪いたくない人…だったり。
 それも、ただ、倒れているんじゃない。
 その前には何故か自分が立っていて、同じ紅にまみれて笑っていた。
 瞳が禍々しい赤に染まっていたのを覚えている。
 まるで、何かの暗示だ。
 自分が死神になってしまったような。
 ………それに怯えて目を覚まして、自分に問いかける。
 違うのか? ……と。
 喪った人……それは、自分の手で、自分のせいで、喪ったのに。
 今更何を言うんだろう、と。
 それを自覚しているのに、その夢を見るたびに手を伸ばしてしまう。
 誰もいない部屋で。
 この手を掴んでほしいと。


 レイははっと目を覚ました。
 いつの間にかうとうとしていたらしい。
 また今日もあの夢を見た。
 赤の海……染まっていく自分。
 目を開く瞬間、唇が呼んでいた。
 大切なひとの名前を。
 虚空に伸ばしていた腕をおろして、そっと顔を覆う。
 いつかこの夢を、見なくなる日が来るんだろうか。






 なんとなくここだろうと思って、ルックは図書室を覗き込んだ。
 案の定、壁に寄りかかるレイの姿をそこに見つけた。
「おはよう。生きてる?」
 周りに人がいないことを確認してからそう声をかける。
 一応図書室ということで遠慮をしたルックだ。
 ユーゴの姿も何故か見えないが、朝食でも摂りに行っているのだろうか。
「…………」
 そばまで近寄ってみるが、返事がない。
 さらに近寄って、ルックは溜め息をついた。
「レイ……本、さかさま」
「えっ? あ、わ、ルック? お、おはよう」
「おはよう。なんなんだよ、その典型的な放心状態。あまりにお約束すぎて指摘すべきかどうか迷ったよ」
 あはは、とレイは頭を掻いて笑う。
 一応ちゃんとした笑顔だけれど。
「やれやれ……。しっかり寝不足の顔しちゃって」
「そ、そんなに?」
「わかるよ。…………これで、わかったんじゃない?」
「?」
「…レイって…鈍いよね」
 本気で呆れた様子のルック。
 どうせ読んでいなかった手元の本を棚に戻しながら、レイは首を傾げる。
「あの…ルック? この前もそうだったけど……僕…どう見えるの?」
「じゃあ、はっきり言うけどね」
 腕を組んで、何かを言いかける。
 …ふたりの動きが、止まった。
 気配を感じ取ったからだ。
「ただいまー。帰ってきたよ」
 場違いな明るい声。
 すっと冷めた視線を巡らせると、入り口に寄りかかって立っている、短い金髪の笑顔。
 わずかに間が、あいた。
 口を開いたのはレイだ。
「……どうしたの? 今は任務に就いてるはずだよね?」
「あぁ、だいぶ片が付いたからさ。オレがいなくても大丈夫なとこまで行ったから、先に帰らせてもらったんだ。第一、男ばっかのパーティで花がなくってさあ」
 軽く笑う。
 そう、とレイは頷いた。
「あんまり褒められたことじゃないな。あまり口うるさく言われないかも知れないけど、軍規もあるんだからね」
「わかってるって。けど夜通し張り切って帰ってきた気持ちもわかってよー」
「うん」
 もう一度頷くと、満足げに壁から体を離した。
 思い切り背を伸ばす仕草。
「あー、一晩中歩いてたら腹減ったなー。ちょっと食堂行ってくるわ。じゃ、またあとでな」
「わかった。………シーナ」
 名前を口にすると、ちらりと視線を寄越し、ひらひらと手を振って図書室を出て行った。
 しん、と沈黙が降りる。
「……レイ」
 ぽつりとルックが呼ぶ。
「うん」
 短く、レイも答えた。



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