August 8th, 2004
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石板の横に立って、ぼんやりと入り口の向こうの廊下を眺める。
それは変化のない景色だ。
ろうそくの明かりが微かに揺れてはいるが、変化といえるほどの変化ではない。
時はたしかに動いているはずだ。
けれど、その実感がない。
まるですべての時間が停止してしまったように世界は動かない。
一見風景画のようだけれども、特別注目するものもない絵なんて、ただの静止画だ。
きっとものの数分で飽きてしまうはずのつまらない構成。
だが自分の心の中に思考を飛ばして、何事か考えるにはうってつけだ。
動かない風景は、心に波風を立たせることもない。
何にも邪魔をされず、思索にふけることが出来た。
元来うるさいのを嫌う方だったから、そうやって立っていることが多かった。
ふと。
かたりとどこかで音が聞こえたような気がした。
思わずはっと顔を上げてしまう。
顔を上げて、そしてすぐに首を振る。
以前は……たとえ多少の物音がしたところで、意に介さず考え事をしていられた。
それが今ではどうだろう。
一瞬、「また来たのか」と思った自分がいる。
誰が来ようが関係なかったはずなのに。
思わず気配を探してしまう自分がいる。
いったい何なのだろう、この変化は。
別に…来れば来たでうるさいだけだろうに。
それでも、知らず知らずのうちに探している。
それを今でも妙だと思っているのに。
特別何かを思い立ったわけではないが、ルックはその場を離れた。
廊下へ出ると、ひんやりした空気が足をなでる。
一体今は何時だ?
時間を計りかねて階段を覗き込んだ。
すると踊り場の窓の向こうは、すっかり夜の景色。
鈍い紺色の空に星がいくつか光るのが微かに見える。
さっき部屋を出た時はまだ昼間だったから、相当石板の横でぼんやりしていた計算になる。
(たしかに……僕も危なっかしいかもね)
ひとり思って肩をすくめる。
多少眠らなくとも平気だが、まったくゼロで大丈夫だというわけでもない。
ちらりと階上に目をやり、ルックは踵を返した。
今夜はずいぶん風がある。
開け放した窓から流れ込む空気が、少し冷たい。
何度か瞬きをして、レイは寝返りを打つ。
今夜も頭が冴えて眠れない。
眠くならないのではない。
浅い眠りの中で見る夢が、やけにリアルで…決まって悪い夢だったりする。
だから、なんとなく眠るのが怖かった。
起きた瞬間に頭の隅に残る残像の紅が、どうしようもなく痛い。
それは自分の負った痛みではないはずなのに。
夢……誰かが、暗く紅い海に倒れている夢だ。
誰か、というのは眠るたびに違った。
仲間だったり。
家族だったり。
喪ってしまった人、だったり。
喪いたくない人…だったり。
それも、ただ、倒れているんじゃない。
その前には何故か自分が立っていて、同じ紅にまみれて笑っていた。
瞳が禍々しい赤に染まっていたのを覚えている。
まるで、何かの暗示だ。
自分が死神になってしまったような。
………それに怯えて目を覚まして、自分に問いかける。
違うのか? ……と。
喪った人……それは、自分の手で、自分のせいで、喪ったのに。
今更何を言うんだろう、と。
それを自覚しているのに、その夢を見るたびに手を伸ばしてしまう。
誰もいない部屋で。
この手を掴んでほしいと。
レイははっと目を覚ました。
いつの間にかうとうとしていたらしい。
また今日もあの夢を見た。
赤の海……染まっていく自分。
目を開く瞬間、唇が呼んでいた。
大切なひとの名前を。
虚空に伸ばしていた腕をおろして、そっと顔を覆う。
いつかこの夢を、見なくなる日が来るんだろうか。
なんとなくここだろうと思って、ルックは図書室を覗き込んだ。
案の定、壁に寄りかかるレイの姿をそこに見つけた。
「おはよう。生きてる?」
周りに人がいないことを確認してからそう声をかける。
一応図書室ということで遠慮をしたルックだ。
ユーゴの姿も何故か見えないが、朝食でも摂りに行っているのだろうか。
「…………」
そばまで近寄ってみるが、返事がない。
さらに近寄って、ルックは溜め息をついた。
「レイ……本、さかさま」
「えっ? あ、わ、ルック? お、おはよう」
「おはよう。なんなんだよ、その典型的な放心状態。あまりにお約束すぎて指摘すべきかどうか迷ったよ」
あはは、とレイは頭を掻いて笑う。
一応ちゃんとした笑顔だけれど。
「やれやれ……。しっかり寝不足の顔しちゃって」
「そ、そんなに?」
「わかるよ。…………これで、わかったんじゃない?」
「?」
「…レイって…鈍いよね」
本気で呆れた様子のルック。
どうせ読んでいなかった手元の本を棚に戻しながら、レイは首を傾げる。
「あの…ルック? この前もそうだったけど……僕…どう見えるの?」
「じゃあ、はっきり言うけどね」
腕を組んで、何かを言いかける。
…ふたりの動きが、止まった。
気配を感じ取ったからだ。
「ただいまー。帰ってきたよ」
場違いな明るい声。
すっと冷めた視線を巡らせると、入り口に寄りかかって立っている、短い金髪の笑顔。
わずかに間が、あいた。
口を開いたのはレイだ。
「……どうしたの? 今は任務に就いてるはずだよね?」
「あぁ、だいぶ片が付いたからさ。オレがいなくても大丈夫なとこまで行ったから、先に帰らせてもらったんだ。第一、男ばっかのパーティで花がなくってさあ」
軽く笑う。
そう、とレイは頷いた。
「あんまり褒められたことじゃないな。あまり口うるさく言われないかも知れないけど、軍規もあるんだからね」
「わかってるって。けど夜通し張り切って帰ってきた気持ちもわかってよー」
「うん」
もう一度頷くと、満足げに壁から体を離した。
思い切り背を伸ばす仕草。
「あー、一晩中歩いてたら腹減ったなー。ちょっと食堂行ってくるわ。じゃ、またあとでな」
「わかった。………シーナ」
名前を口にすると、ちらりと視線を寄越し、ひらひらと手を振って図書室を出て行った。
しん、と沈黙が降りる。
「……レイ」
ぽつりとルックが呼ぶ。
「うん」
短く、レイも答えた。