BLACK
<後編>
− 2 −
レイと別れたルックは、石板の前に立った。
愛用しているロッドを小脇に抱え、難しい顔で腕を組む。
なんだ、あれは。
考えれば考えるほど腹が立つ。
何か用でもあったのだろうか、誰かが部屋に足を踏み入れたが、ルックの様子に恐れを成してすぐに出て行ってしまった。
ルックの方でも、それが誰だったのかわからない。
今はそれどころではないからだ。
ただ、腹が立つ。
とことん機嫌の悪いルックには近付かない方がいい。
暗黙の了解があるせいか、昼間だというのに石板の部屋周辺はいやに人口密度が低かった。
だから誰の邪魔も入らず考え事をすることが出来た。
が、ばたばたと足音。
近付いてきて思考を乱す。
むっとして部屋の入り口を睨み付ける。
やがてそこからひょこりと顔を出したのはシーナ…だ。
「あぁ、やっぱりここだったね」
「………」
ルックは答えない。
それをまったく気にせずにシーナは部屋に入ってくる。
まっすぐに石板に向かってくると、宿星の名前がずらりと並んだそれをたしかめるように眺めた。
「すごい数だよな。ひとりひとりなんて覚えてらんねぇけど」
「………」
「ね。なんで黙ってるの? せっかく遊びに来たのにさ」
機嫌が悪いルックが、そう言われて口を開くはずはない。
シーナは覗き込むようにして顔を見るが、ルックはそっぽを向いた。
「なぁ、機嫌直してよ。何日も離れてて、ようやく会えたのに」
ずい、とシーナが近付く。
避けるようにルックがあとずさる。
「会いたいから帰って来ちゃったんだから。ねえ……わかってよ」
背が、壁にぶつかる。
しまった、とルックは眉をひそめた。
くす、とシーナが笑う。
「ほーら、追いつめちゃった」
「………どけよ」
「やっとしゃべってくれたね。……可愛い」
「あんたに言われたくない。どけ、って言ってるだろ」
「つれないね。そこもいいんだけど」
シーナの手が伸び、ルックの両手を掴んだ。
はっと腕を引こうとするが、力を込めて握られて、びくともしない。
そのまま手を壁に押しつけられる。
「……痛い。放せよ」
「やだ。放したら逃げるでしょ? このフロア、ちょうど人いないし。いいじゃん」
囁く音量。
ルックはぎりっと唇を噛んだ。
「…っ、《切り裂き》っ!!」
ざああああああっ。
宣告と共に部屋の空気が歪んで、ねじれる。
そこから生まれた真空が刃となって降り注いだ。
「!」
ぱっとシーナが手を放す。
その隙にルックはその手から逃れ、改めてロッドを構える。
「ふざけるのも大概にしろよ」
押し殺した声で、告げる。
頭をかばったシーナが、腕の隙間から覗いて笑う。
「……ほんとに、ガード堅いなぁ。わかった、ごめん。……でも、諦めてないよ?」
もうルックは答えない。
そうして構えも解かないルックに、シーナはそれじゃ、と言い置いて部屋を出て行った。
しばらくして、ルックはロッドをおろした。
そう来るか……。
溜め息を、ひとつ。
(さっさと対策、練らないとね……)
マッシュとの打ち合わせを終え、レイが自室に向かって歩いていた、その廊下。
壁に寄りかかっていた姿が、レイに気付いて体を起こす。
ぴくりとレイは肩を揺らした。
「お疲れ。話し合いばっかで大変だね」
「まあね。おまえは暇そうでいいよな」
「忙しかったよ。レイを待ってることで」
「それのどこが忙しいんだか」
肩をすくめて、すっと前を横切る。
横切った、つもりだった。
気が付くと腕を捕まれ、後ろから抱きすくめられる。
それは一瞬の出来事だった。
「…なっ!」
鋭い声を上げて、振り払おうとする。
けれど上手く押さえ込まれて、力が入らない。
シーナ、と押し殺した声で呼ぶと、にやけた声が頭の上から降る。
「うん、なに?」
「冗談はほどほどにしとけよ。僕が冷静でいるうちに離れなきゃ、あとは知らないよ」
「冗談じゃないよ?」
「なおさらタチが悪いね。一体何度言ったらわかるんだよ。僕はおまえに構ってる時間なんかないんだよ」
すぅっと息を吸う。
棍を握った右手に力を込めた。
がつんっ。
大きな鈍い音が響く。
「……ってぇ。その体勢から攻撃してくるなんて、さすがだね」
ようやく離れたシーナを、レイはきっと睨み付けた。
くる、と手元で棍を回す手は、手すさびのように見えて油断のならない動きをしている。
次に手を伸ばせばこのくらいではすまさない、とでも言うように。
「当たり前だろ。ある程度の戦闘はこなしてるんだ」
シーナはそれでも笑ってレイを見ている。
レイの方も、黙ってシーナを見ていた。
そうして何かを考えるようにわずかに視線をそらす。
(なるほどね。わかった)
ひとり納得して頷くと、慣れた手つきで回していた棍を左手で受け止めた。
「…シーナ?」
「ん? なに?」
「そんなに暇なら、付き合ってやるよ。……稽古」
シーナの顔を窺う。
少し何かを迷うような色。
一瞬だけ真剣な目を覗かせる。
「…ふぅん? おまえの棍とオレの剣で?」
「そう。暇なんだろ?」
「えー、だって種類が違うじゃん、攻撃のさ」
「……普段の戦闘だって武器の種類が違う相手とも戦うだろ。むしろそっちの確率の方が高い」
「そういえばそっか。いいぜ、付き合う」
軽い口調の答え。
レイはわずかに笑う。
「…ありがとう」
ふたりは屋上に出た。
風が強い。
空に散らばる雲が押し流されるように流れている。
屋上にはカスミを初めとする忍びの者たちがいた。
そっと目配せをすると、はっとカスミが目を見開き、頭を下げて姿を消す。
フウマとカゲも同様にすっと姿を消した。
そうして、屋上には誰もいなくなる。
「さて…と。別に形式なんかどうでもいいだろ?」
「構わねぇよ。稽古なんだしさー」
「だよね」
じゃあ、とレイは棍を構える。
シーナも柄に手をかけた。
(稽古……。うん)
大きく深呼吸をして、相手が柄を握る手と腕の動きに集中する。
とたんにレイの持つ雰囲気が変わった。
穏やかで柔らかな気配が、ふいに消える。
軍を背負うリーダーが戦場で見せる威圧感。
構えたシーナが、わずかに動いた。
瞬間、レイが飛び出す。
振り下ろした棍を、鍔が受け止める。
弾かれた衝撃を利用してさらに仕掛けた攻撃を、今度は柄尻で押さえられた。
ひゅん、と突き出される剣。
ギリギリでかわし、手元を狙う。
上手く左手を突いた、が尖った切っ先が首筋をかする。
バランスがわずかに崩れ、レイはシーナの足を蹴り上げる。
地面についた手にそのまま力を込め、体勢を立て直す。
足を狙われてよろめいたシーナに向け、まっすぐ棍を突き出した。
ふらり、と心許ない足取りが図書室に入ってくる。
ルックはちらりと目を上げてそれを確認した。
いつもならあまり見せない様子は、ユーゴに笑いかける時だけ薄らいだ。
そのあたりはさすがだ。
しかしユーゴから見えない本棚の陰に入ると、とたんにそこに寄りかかって溜め息をつく。
「お疲れ。どうしたんだよ?」
読んでいた本に再び目を落としてルックが問う。
するともうひとつ溜め息が返ってきた。
「……相当疲れてるみたいだね」
上目遣いで小さく頷くレイ。
それに思い当たるところがあるので、あえて否定はしないルックだ。
否定はしない、というか。
むしろピンポイントで同調する。
「で。何してきたわけ」
「……シーナ、と一試合」
「……なるほどね。首筋の傷はそれか」
ページをめくる。
なにやら図形がいくつか描かれたページだ。
ルックはそれをそっと指でなぞる。
そこにあった文字を口の中で呟いて、ちらりとレイを見る。
「突き、か」
ぽつりとそう言うと、レイは傷口をそっとぬぐった。
「かすっただけだから全然大したことはないんだよ。そうだね、柄の使い方は上手い」
「ふうん。……決定打か」
「じゃない? ま、結局勝負はつかなかったよ。人が来たんで、時間切れ」
レイとルックは顔を見合わせて眉をひそめた。
「…にしたって、あいつ、なんだってああかなー」
「僕は最初から迷惑だとしか思ってないよ」
やれやれ。
レイは肩を落とし、ルックはそっぽを向いて息を吐いた。