BLACK
<後編>
− 3 −
今日の会議は長引いた。
城の外はまだ風が強い。
雲の流れはわずかに弱まったものの、対岸から木の葉が飛ばされてくるくらいに強い風。
時々切れるその雲の隙間からは弱々しい星の光。
静かだ、と思った城内に、しかし足音が遠くで聞こえる。
また来たか。
レイは目を落とす。
気配はすぐにやってきた。
また、後ろからだ。
「レイ! 会議終わったんだ。ほんっと毎日大変だよなー」
がばっと抱きしめられて、レイは鋭く視線を向けた。
「おまえさ…。よく飽きないな」
「飽きるわけないだろ。オレの気持ち、知ってるくせに」
「知らないよ」
視線をそらす。
ここのところずっとこうだ。
レイにわずかでもひとりになる時間があると、こうしてやってきては口説いてくる。
さすがにこの状態が続くと疲れる。
そろそろレイも限界だった。
床を見つめたまま、長く息を吐く。
…と、それが隙になってしまったらしい。
はっとレイが我に返った瞬間、肩を掴まれて壁に押さえつけられる。
「ちょ…っ。何するんだよ、シーナっ!」
「何って。知らないなら教えてあげるよ。オレの気持ち……」
「は? だから、ふざけるなって言ってるだろ!」
「あぁ、ふざけてなんかないぜ」
まっすぐに目がぶつかる。
色素の薄い茶の瞳。
至近距離の色。
そっと押さえつけてくる腕が動いて、そっとベルトにかかる。
(……っ! ちょ…っ)
一瞬パニックを起こしかける思考を、レイはなんとか押さえつけた。
殴り飛ばしそうになる右手も必死で押さえる。
「っ、シーナ!」
「何?」
にやにやと顔を覗き込んでくる。
レイは唇を噛んだ。
「……ここ…。どこだと思ってるんだよ」
「レイスフィア城でしょ。その4階…。静かだよね。お偉いさんのフロアだから、出歩いてる奴もいない」
「だね…。でも誰が出てくるかわかったもんじゃない」
「それが?」
「…………。さすがに…それはまずいよ」
「オレは気にしないよ」
「おまえが気にしなくてもさ…。そのくらいは…気を遣ってくれてもいいだろ?」
困ったような、戸惑ったような表情でレイはちらりとシーナを見る。
シーナはすぐに笑った。
「いいよ。オレの部屋、来る?」
「…おまえの部屋、周りに人がいるじゃないか。いやだ、僕は……」
「りょーかい。わかった。じゃ、おまえの部屋、行こう」
「………うん」
肩を掴む手が離れる。
けれどすぐに手首を掴んでくる。
これは逃がすつもりはないんだな、と思った。
窓の広い廊下を過ぎ、部屋の扉を開ける。
いっそう音のない空間。
灯りのない室内は夜の青に染まっている。
なんとなくシーナの手を振り払い、レイは部屋の中央に進んだ。
普段はそこに置いてある机がどかされている。
シーナに背を向ける格好。
大きく深呼吸して、足許に目を落とす。
俯くレイに、一歩また一歩と近付く気配。
「……それで?」
ぽつりとレイが呟く。
「それで、どうしたいわけ? 僕をどう思ってるんだよ?」
「どう、って?」
「そのままの意味だよ。おまえの言葉って信用できない」
くるくると、よく走り回っている姿を見た。
そんなふうに女の子を追いかけている姿。
それを見るたび、本当に信頼していいのか、本当は迷っていた。
そうしてそれを口にすることも、いつも迷っている。
どうすればいいのかわからない。
距離が近付けば近付くほど、どうしたらいいかわからなくなる。
戸惑う。
自分の心さえ、わからない。
言ってから、レイは弱く首を振った。
「いや……そんなこと、おまえに言ったってしょうがないんだよな」
レイが振り向く。
シーナ、とまっすぐに向き合う。
ほんのわずかな窓からの光でようやくわかる、薄く笑った顔。
「…オレは、おまえのことが好きだよ。誰よりもさ」
「へぇ……」
一歩、近付いてくる。
少しだけ見上げる角度。
また、一歩。
ほとんどふたりの間に距離はない。
「……おまえに、僕たちの何がわかる?」
目をそらしたレイは、吐き捨てるようにそう言った。
「たしかに僕たちが重ねた時間なんてそう長くはない。だけど、薄っぺらなものでもない。簡単に模造品なんて作れない」
「レイ?」
すっと腕が伸ばされる。
レイの背に回る手。
レイは顔をしかめた。
「…ルック? 準備ってどう? そろそろ僕、限界なんだけど……」
ぱしんっ。
一瞬稲妻のような光が部屋を駆け巡った。
ちょうど部屋の中央部分を中心に、空気が妙な形に歪む。
その空気を覆うように薄い光の膜が張っているのが微かに見えた。
床にはうっすらと光の線が走っている。
いくつかの円と幾何学の模様、そして曲がりくねった文字のような形。
……かしゃん。
耳につく金属音。
レイの背後に落ちた。
目を落として、レイはその鋭いナイフを見た。
黒い柄のどこにでもあるようなナイフだ。
けれどその刃が濡れているのがわかる。
「…毒、か。そうだろうね。そのくらいはしてくるだろうな」
息をついて、それを蹴飛ばす。
ナイフはからからと回りながら床を滑り、壁際で止まった。
レイは背を伸ばしながら光の膜の外へ出ると、タンスの陰に向かって手を振る。
そこからすっと出て来たのは、ルックだ。
「………どうして」
円の中心で腕を伸ばしたままの格好で、そいつが言った。
ちら、とレイが振り向く。
「わかんないとでも思った? 最初からわかってたよ」
「な……」
「そう。あの単純バカがレイの命令に背くわけはないからね。あんたがどういう目的でこの城に入り込んだのかわかるまでは泳がせておいたけど」
「やっぱり僕の命が目的だったわけだ。情報も探ってたよね」
立てかけておいた棍を取る。
陣の中心で焦っているようだが、状況はこちらに優位だ。
最初から、勝負はついていた。
偽者の根拠なんて、掃いて捨てるほどあるのだから。
「…それに。あいつの気配を、僕たちが間違うとでも思った…?」
ルックが右手を伸ばす。
レイが棍を構える。
緩く空気が動き出す。
風が生み出されようとしている。
そして、レイの右手が暗闇の中でもそうとわかる黒い影を帯びていく。
「ここまでか……」
低い、声。
レイは小さく笑った。
「目の付け所は悪くなかったと思うよ。ただ、僕たちを甘く見すぎたね」
答えはない。
シーナの姿が溶け、そこには黒いばかりの影が残る。
それはすっと体を縮めると、勢いよく飛び上がった。
ぱりん、とガラスが割れるような音がして、光の膜が飛び散った。
割れた光の膜が残した粒が消えてしまうと、レイはその場に座り込んだ。
「…あーっ、疲れた…。ほんとに疲れた……」
ルックも肩をすくめると、そばに置いてあったイスに座り込む。
「結局逃げられたね」
「いいよ、別に。困るような情報は取られてないし。あれに気付かれそうになる前に握りつぶして、偽の情報掴ませたもん」
「大したもんだね」
「だって、頭に来たからさ。よりによって、なんで、あいつに化けて来るかな、僕一人狙ってさ!!」
ぐっとレイは拳を握る。
それに関してはルックも同意見だ。
「……あのバカがレイに一番近いと見たんだろうね。それがああいう方向で、しかも僕にまで手を出してきたのが腹立つけど」
「まったくだよ。どっからそういう余計な情報掴むんだろうね!」
何がはらわたを煮えくりかえらせるかというと、それだ。
暗殺者ならば別に誰だっていいだろうに。
今までだってただの忍びがレイの命を狙って送り込まれたことは何度もある。
だが仲間の誰かの姿を借りて現れるとは、手が込んでいる。
しかもそれがシーナだというのだから。
ということは外から見てもシーナとの関係は「そういうふう」に見えると言うことか。
その誤解が何より頭に来る。
「最悪だね。まったく、なんで僕まで……」
ルックの怒髪ポイントはそこらしい。
でも、とレイは口を挟む。
「あいつ、シーナを掴み切れてなかったろ。シーナの武器…レイピア、ちゃんと使えてたし」
「…だね。あれは元来突きで攻撃するものだから。あのバカ、振り下ろすからね」
「それでちゃんと戦えるんだから大したもんだよ。偽者の方は防御に鍔をメインに使ってたのでもわかるよね。レイピアはまともに刃で攻撃受けたら、折れるもんでしょ」
「たしかに」
「……てことはさ。それで僕に近付くためにあんな真似して…周りに対してカモフラージュのためにルックに近付いたろ。すなわち、ルックに対してもそう見えるってことで……」
「!?」
ルックは愕然と目を見開く。
が、すぐにレイを睨み付ける。
「…レイっ。言っていいことと悪いことがあるだろっ」
「でもそうなんじゃないかと思うんだけど。文句ならシーナに言いなよ。原因はあいつなんだから」
言いながら、レイも自分で納得する。
そうだ、今いないあいつだ。
あいつがすべての原因なのだ。
「……だけどさ、ルック。僕がおとりじゃなくてもよかったんじゃない? なんかもう相当なストレスだったんだけど……」
「あいつはレイを狙ってたんだからレイを餌にした方が確実に動くだろ。それに、この結界…たしかに僕も破られたけど、レイに僕より上手く敷く自信はあるわけ?」
「……ない」
「だろ。じゃあこれ以上ない適任なんじゃないの」
「だ…だけど、ルックだって僕が部屋に入ってからしばらくするまで結界の発動させられなかったじゃないかっ」
「あれは……。…………。どうなるかちょっと見てみようかと」
「!? る、ルックまで偽者?」
「僕は僕だよっ」