September 20th, 2001
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− 1 −
ぽかん、と。
何もない空間に投げ出された感じ。
視界は一瞬真っ黒にも見えたけど、そのイメージはすぐに拡散した。
柔らかいような…何かぐにゃぐにゃしたもののような…そんな微妙な感覚(それとも感覚なんてないんだろうか)。
それに抱かれているみたいで、もしかしたら流されているみたいで。
あやふやな世界。
自分が誰かなんて、そんな認識さえも失ってしまいそう。
手も足も、体の感覚もない。
体のすべてをなくして…狂った思考だけが残ったみたいだ。
何も、ない……。
……あれ?
違う。
冷たい…これは……何?
僕を押し流す……流す?
水?
……水?
川?
川…あれ、そういえば、僕……。
あぁ、たしか……。
突然、目の前に色が表れた。
鈍い黒茶色…でもさっきまでの何もない空間からすれば、十分にそれは「色」だった。
いきなり色が戻ってきたのは僕が気がついて目を開けたからだったんだけど…それに気付くのもずいぶん経ってからだ。
しばらく目を開けたまんまぼーっとしていた僕は、そばでぱちぱちと火のはぜる音がしているのにようやく意識が行った。
ほんの少し身じろぎをして、上半身を起こす。
「………気がついた?」
炎の音が聞こえたその方向から、声。
上着を脱いだルックが片膝を抱えて焚き火のそばに座ってる。
「あー…僕……?」
思わずとぼけた声をあげると、ルックは呆れた顔をした。
「まったく覚えてないとか、そんな間の抜けたこと言わないでよね」
「だ、大丈夫。なんとか」
うん、覚えてるよ……。
情けないよね…。
崖のそばなんだから、足場が悪いのは十分わかってたはずなんだ。
第一、垂直に近い崖っていうのはすなわち、ときどき崩れるからああいう形になるわけで。
その上、雨があがったばかりだったんだから。
あんな端に行けば道が崩れてまっさかさま、だろうことは、簡単に想像できただろうになぁ。
そうして僕は当然崩れた土と一緒に谷底の川へ転落…、ってわけ。
……実は、その前後の記憶はあやふやなんだ。
コマ送りみたいにして狭くなっていく光の筋と、そこに見えた誰かのシルエット。
そんなくらいしかはっきりしなくて。
でも、ここがどうやら見たことのない岩穴で、ルックがいるところを見ると、ルックが飛び込んでくれたらしいことはわかった。
で、気がついたら外はもう夜…と。
「…ありがとう、ルック」
「何が?」
「助けてくれて…」
僕がそう言うと、なぜかルックは肩をすくめた。
そして、
「礼ならそいつに言いなよ」
「……そいつ?」
ルックの指し示した方を見る。
岩穴の、少し奥まったところ。
…こっちも上着を脱いで横になった、
「……シーナ」
あ。
うん、そうだ。
僕が意識を飛ばす直前、耳に届いたのはシーナの声だった。
「そいつもまったくたいしたもんだよ。ついさっきまで意識あったんだからさ」
「それって……」
「そういうことだね。気を失ったレイと僕を川から引き上げて、この岩穴まで連れてきたのはそいつ。岸がそばまで近付いてたからって、とんでもないバカ力だね」
ルックの声にいつもみたいな刺はない。
だからルックもルックなりに心配してるんだな。
だって、それってシーナがいなかったら僕もルックもどうなっちゃってたかわからないってコトだから。
シーナがいてくれてよかった。
それにしたって、あの高さの崖から落ちたんだよね…?
うわぁ、考えるとぞっとする……。
「よく…僕たち無事だったね。シーナも大丈夫?」
「あの高さから落ちて無事にすむわけないだろ」
……え?
今、ものすごいことをさらりと言ったような……。
ルック…?
目を瞠(みは)る僕に、ルックがこくりと頷いてみせる。
「レイも僕も、2、3本骨折れてたよ。まぁそれですんだのは幸運だったとしか言いようないけどね」
「じゃ、シーナは?」
「……よく動けたもんだ、と思うよ。普通あんなケガ負ったら意識のひとつやふたつ失って当然だろうにね。そんな体で僕たちをふたりここまで運んできたもんだから、あちこちボロボロだった」
あー……。
なんでこいつ…こんなにバカかな……。
そんな酷いケガして…。
それなのに僕たちを助けてくれたって?
…ホントにバカだよ……。
僕は背を丸めるようにして眠るシーナの、その背中をじっと見る。
たぶん、ルックも同じ思いでシーナを見てる。
焚き火の音だけが、ぱちぱちと聞こえる。
その沈黙は、どうしてだろう…ちっとも息苦しくなかった。
僕はその中で、ぼんやりといろんなことを考えてた。
そのどれもが他愛のないことだったけど、少しも退屈はしなかった。
でも今回の視察と、この事故(?)のことに考えが至って、僕はふと思った。
「ねぇ…ルック。僕やルックの傷と同じようにさ、シーナのケガも治したんだよね?」
「治したよ」
「でもやっぱり、一応医者に見せた方がいいよね?」
「だろうね」
「じゃあ、早く城に戻った方が……。シーナのケガって、尋常じゃなかったんだろ?」
「例えるなら首の皮一枚、ってところじゃない。…『瞬きの手鏡』は?」
「……っあ…。グレミオに渡しちゃったや……」
「なら、どうしようもないね」
しまった……。
こういうことになるってわかってたら(ってわかってたら当然くい止められたはず…っていうのはおいといて)自分で持ってたのに……。
って…。
あれ…?
「…ねぇ、ルック。ルックの魔法は?」
ルックはひとつ溜め息。
「重体も重体の奴を完治させたんだよ? いくら僕だって魔力が尽きることくらいあるんだよ」
「転移魔法で城戻って数人がかりで治癒魔法かけた方が早い上に安全だって知ってて?」
「…………っ!!」
ありゃー…ルック、気付かなかったんだ。
僕も、自分で言いながら気付いたんだけどね。
いつも冷静で論理的なルックが、めずらしい…。
あ、もしかして。
「もしかしてルック、シーナが心配で、それどころじゃなかった?」
「な…っ。そんなわけないだろっ、僕がこんな…っ!!」
「シーナに言ったら喜ぶよー?」
「だから僕はっ」
なんだかおかしくて、僕はちょっと笑う。
頬が赤く見えるのは、焚き火の炎のせいなのかな。
…するとルックは、僕を上目遣いに睨んできた。
「…レイも人のこと、言えないんじゃないの」
「へ? 僕が?」
「シーナが心配だから、早く城に帰りたいんだろ? リーダーとしての責任でなんてモノじゃなくてさ」
え?
…って、あ、そういえば…っ!!
そうだ、「リーダーが急にいなくなって大騒ぎしているだろう軍」のことなんてこれっぽっちも考えてなかった…。
僕はリーダーなのにっ。
僕は、ちらりとルックを見る。
「えぇと…。ルック、このことはお互い秘密ってコトで……」
「…了解、リーダー様」