February 5th, 2003
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その知らせを聞いたとき、来た、と思った。
いつか来るだろうと思った。
そしてそのいつか、は目の前だろうとも感じていた。
だからだろうか……。
僕は、なにも、
思わなかった。
椅子を引き寄せて窓辺に座って、空をなんとなく見上げる。
窓から入る風が、今日は妙に生ぬるい。
星の光も鈍く見えて……それは、僕の目が濁っているからなのかもしれない。
窓枠に肘をついて、僕はひとつ息をついた。
……あぁ…ダメだ。
考えちゃダメだ。
違う、そうじゃない、明日のことを考えなきゃ。
僕が考えなきゃならないのは明日のこと。
過ぎたことじゃない。
取り戻せないものを、思うことじゃない。
わかってるから。
大丈夫だから。
もうすぐだから。
きっと……もうすぐだから。
手のひらに力が入った。
それを無理矢理開くと、余った力で震えている。
右手…。
時々熱くなるその甲は、手袋越しにも暗い光が見えるようだった。
一体、どこで何が狂ったんだ?
どこから狂ってしまったんだ?
ここにいる僕はなに?
どこへ行く?
思考はぐるぐる回る。
ともすれば闇の淵に落ちていきそうな思考を、僕は唇を噛んで食い止める。
僕はなに?
……僕はリーダーだ。
帝国の圧制から人々を助け、自由を勝ち取るために存在する、解放軍のリーダーだ。
どこへ行く?
そう、人々を新たな時代へ…導く。
その先に立つ。
だから戦うんだ。
たとえ相手が誰でも…戦わなきゃいけない。
負けられない。
絶対に負けられない。
たとえ相手が、父であろうとも。
こつこつ、とドアが鳴る。
ずいぶんと控えめな音。
「はい」
立ち上がり、返事をする。
ドアは少し間を置いて、開いた。
「レイ様……まだ起きてらっしゃるんですか」
入ってきたのは、クレオだ。
何か迷うような表情で、ドアのところに突っ立っている。
「明日も早いですし…。早めにお休みになってくださいね」
「うん、ありがとう」
「あの…明日は私がお供しても?」
言葉を探しながらのセリフ。
僕は頷いた。
「そうだね…。お願いするよ。…それなら、僕以上にクレオがちゃんと休んでくれなきゃ。大丈夫、僕もすぐに寝るから」
「…はい」
答える声は、悲しげで。
上げた視線に笑ってみせると、クレオはもう一度視線を落とした。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、レイ様」
会話が途切れる。
クレオは何か言いたそうな表情で、けれどそのまま部屋を出て行った。
足音が遠ざかる。
僕はまた、椅子に座った。
静かだ、と思った。
ここのところやけに夜が静かだ。
今までより争いは激しくなり、昼は何もないときでも訓練で騒がしい。
そして夜も気は抜けないから、あちこちに人の気配がする。
なのに、なぜか静かだ。
心の中も凪いで、音もない。
こんなに静かなものだったか…僕はふと振り返ってみようとする。
けれど……。
振り返ろうとするたびに、凪は嵐に変わりそうになる。
突然転覆しそうな強さで何かが押し寄せる。
だから僕は、考えるのをやめる。
僕が……立ち止まるわけにはいかないから。
弱音?
そんなもの、ねじ伏せればどうにでもなるものだ。
そうやって胸の奥に潜む何かを力で押し込めて、僕はぼんやりと思う。
……このごろ…ひとりでいることが多くなったな、と。
伸ばしたはずの手が…空振るようになった。
空振って呆然とするなら…手を伸ばさなければすむこと。
ただそれだけのことだ。
それだけのことなんだ。
明日も早いから、寝なくちゃね。
僕が寝不足じゃあみんなに迷惑をかけてしまう。
明日…そうだ、明日はサラディに向かう。
火炎槍……以前僕がオデッサさんと共に設計図を届けた、あの武器。
フリックが思い出してくれたそれは、たしかに強力な武器になる。
将軍に勝つ方法があるなら、少しでも力の足しにしなきゃいけない。
僕は一度、負けているのだから。
……たしかに、あの人はパーンと一騎打ちしたあと、軍を引き揚げた。
それを相打ちと見る者もいるが、結果としてあれは負けだ。
解放軍は帝国軍と真正面からぶつかったものの、力の差は歴然。
あれ以上戦を続けたら、おそらく解放軍は壊滅に追いやられていた。
だから僕は撤退の命令を下した。
その時点で、負けていたんだ。
そこでさらに追撃すれば、僕らを壊滅できただろうに。
それを考えると複雑になった。
所詮僕は……あの人にかなう器ではない、と宣告されたようで。
…いや。
そうなんだ。
僕には到達できない場所にあの人はいる。
戦場で向き合ったのはあれが初めてだった。
彼方に見えた帝国軍の陣営。
……僕は馬上から指揮をとった、平然として。
でもそのとき、本当は、僕は…怯えていた。
あんな空気、知らない。
離れていながらびりびりと感じる威圧感、あれが歴戦の将軍の持つ気なのだと初めて知った。
それは僕の知るあの人とは……かけ離れた強さで。
優しくて、怒ると怖かったあの人。
けれど僕が対峙したのは、人の父としてのそれではない、帝国に命を預け戦う将軍の気迫。
あれが……僕の父か。
大将軍と称えられる僕の父なのか!
僕は…僕があの人の息子であることを、そのとき忘れようと必死になった。
必死に頭から追い払い、ただ目の前の戦に集中しようとした。
絶対的な強さの違いも確かにあっただろう。
けれど勝敗を決したのは、軍を率いるあの人と僕の違い。
僕だ、僕が弱いからだ。
僕が……!!
次は負けない。
でもそれには、僕自身に決定的な何かが必要だ。
少し前まではほのかであるけれど、僕の中に確かにあったような気がする『何か』……。
それが何かわかれば、僕はあの人に勝てるだろうか。
そうじゃない、勝たなくちゃいけないんだ。
僕は、リーダーだから。
たくさんのひとを、救わなくちゃいけないんだから。
このごろ、ひとりでいることが多くなった気がする。
何度目とも知れないそれを思って、僕は頭を振る。
ひとり?
ばかな。
だってこんなに解放軍の仲間も増えて、今だって厳しい戦闘を仲間たちと乗り越えているじゃないか。
先頭に立って帝国兵の剣を薙ぎ払いながら、頭の中に浮かびそうな思いを否定する。
気を抜いたら怪我するからね。
一瞬でも気は緩められない。
左…右…両方から迫ってくる気配。
どちらかを受ければどちらかが隙になる、ならば両方相手にするまでだ。
左にいた兵士の剣が腕を掠るけど、たいしたことじゃない。
右の兵士の剣を叩き落す、その勢いのまま左の兵士の鎧の外れた腕に棍を叩きつける。
……鈍い音がした。
いやな音だった。
右にいた方が奇声をあげて突進してくるのを避けて、後ろから首に向けて棍を振り下ろして。
ばたり、と倒れるのを…僕はただ見ていた。
腕を打った方も、もう戦う気はなさそうだ。
そうじゃない…戦えない。
頭の中に紅い靄が広がって、じんわりとした痛みと一緒に思考が麻痺していくような感覚。
棍を持つ手さえ、現実ではないように遠く感じる。
僕は踵を返した。
早く…行かなきゃ。
「おい、レイ」
慌てたように声をかけてきたのはビクトールだ。
…最近、僕の名前を呼ぶのはほとんどがビクトールだな、と思いながら振り返る。
そういえば、誰かと話した記憶があまりない。
忙しいから。
立ち止まっていられないから。
「……なに?」
「なに、じゃねぇだろう。何だ、その荒れた戦いっぷりは」
「そう? そんなつもりないけど。そう見えた? なら少し気をつけるよ」
「っておまえ、なぁ」
「…あぁ、うん、ごめん。ほら…また大きな戦いが近いでしょ? ちょっと気が立ってたみたい」
僕は笑った。
けれど、ビクトールの目は真剣な色をしていた。
それを僕は真正面から受け止める。
やましいことは何もないから。
その視線に僕はたじろぐつもりもない。
ずいぶんと長い沈黙のあと、ビクトールは大きく息を吐いた。
「……俺はな。ああだこうだ言うつもりもないし…大きな口叩ける立場でもないと思ってる。第一、おまえを引きずり込んだのは俺だからな。それは間違いじゃないと今でも思ってるが……だけど、レイ、いいか」
「ビクトール」
僕は、それを遮った。
「ごめんね。あとでいい? 今の戦いで、血の匂いがする…魔物が集まってきてるよ」
言うと。
ビクトールがぷっつりと黙り込んだ。
僕は行こう、とビクトールを促して、また歩き出す。
うしろで、ぽつりと言う声が聞こえた。
「……なぁ。おまえが支えにしてきたものは…おまえを支えとしてきたものは……それですべてだったのか?」
紅い靄の中。
小さな晴れ間が、そこにはあった。
僕が支えにしてきたもの…。
僕を支えとしてきたもの…。
失ったもの。
ビクトールは、それがすべて消えたのか、といっている。
小さな晴れ間。
けれどそれは、すぐに靄の中にかき消されていく。
すべて?
そうかもしれない。