〜トライアングル11〜

February 5th, 2003

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 その知らせを聞いたとき、来た、と思った。
 いつか来るだろうと思った。
 そしてそのいつか、は目の前だろうとも感じていた。
 だからだろうか……。
 僕は、なにも、
 思わなかった。





 椅子を引き寄せて窓辺に座って、空をなんとなく見上げる。
 窓から入る風が、今日は妙に生ぬるい。
 星の光も鈍く見えて……それは、僕の目が濁っているからなのかもしれない。
 窓枠に肘をついて、僕はひとつ息をついた。
 ……あぁ…ダメだ。
 考えちゃダメだ。
 違う、そうじゃない、明日のことを考えなきゃ。
 僕が考えなきゃならないのは明日のこと。
 過ぎたことじゃない。
 取り戻せないものを、思うことじゃない。
 わかってるから。
 大丈夫だから。
 もうすぐだから。
 きっと……もうすぐだから。
 手のひらに力が入った。
 それを無理矢理開くと、余った力で震えている。
 右手…。
 時々熱くなるその甲は、手袋越しにも暗い光が見えるようだった。
 一体、どこで何が狂ったんだ?
 どこから狂ってしまったんだ?
 ここにいる僕はなに?
 どこへ行く?
 思考はぐるぐる回る。
 ともすれば闇の淵に落ちていきそうな思考を、僕は唇を噛んで食い止める。
 僕はなに?
 ……僕はリーダーだ。
 帝国の圧制から人々を助け、自由を勝ち取るために存在する、解放軍のリーダーだ。
 どこへ行く?
 そう、人々を新たな時代へ…導く。
 その先に立つ。
 だから戦うんだ。
 たとえ相手が誰でも…戦わなきゃいけない。
 負けられない。
 絶対に負けられない。
 たとえ相手が、父であろうとも。


 こつこつ、とドアが鳴る。
 ずいぶんと控えめな音。
「はい」
 立ち上がり、返事をする。
 ドアは少し間を置いて、開いた。
「レイ様……まだ起きてらっしゃるんですか」
 入ってきたのは、クレオだ。
 何か迷うような表情で、ドアのところに突っ立っている。
「明日も早いですし…。早めにお休みになってくださいね」
「うん、ありがとう」
「あの…明日は私がお供しても?」
 言葉を探しながらのセリフ。
 僕は頷いた。
「そうだね…。お願いするよ。…それなら、僕以上にクレオがちゃんと休んでくれなきゃ。大丈夫、僕もすぐに寝るから」
「…はい」
 答える声は、悲しげで。
 上げた視線に笑ってみせると、クレオはもう一度視線を落とした。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、レイ様」
 会話が途切れる。
 クレオは何か言いたそうな表情で、けれどそのまま部屋を出て行った。
 足音が遠ざかる。
 僕はまた、椅子に座った。


 静かだ、と思った。
 ここのところやけに夜が静かだ。
 今までより争いは激しくなり、昼は何もないときでも訓練で騒がしい。
 そして夜も気は抜けないから、あちこちに人の気配がする。
 なのに、なぜか静かだ。
 心の中も凪いで、音もない。
 こんなに静かなものだったか…僕はふと振り返ってみようとする。
 けれど……。
 振り返ろうとするたびに、凪は嵐に変わりそうになる。
 突然転覆しそうな強さで何かが押し寄せる。
 だから僕は、考えるのをやめる。
 僕が……立ち止まるわけにはいかないから。
 弱音?
 そんなもの、ねじ伏せればどうにでもなるものだ。
 そうやって胸の奥に潜む何かを力で押し込めて、僕はぼんやりと思う。
 ……このごろ…ひとりでいることが多くなったな、と。
 伸ばしたはずの手が…空振るようになった。
 空振って呆然とするなら…手を伸ばさなければすむこと。
 ただそれだけのことだ。
 それだけのことなんだ。
 明日も早いから、寝なくちゃね。
 僕が寝不足じゃあみんなに迷惑をかけてしまう。
 明日…そうだ、明日はサラディに向かう。
 火炎槍……以前僕がオデッサさんと共に設計図を届けた、あの武器。
 フリックが思い出してくれたそれは、たしかに強力な武器になる。
 将軍に勝つ方法があるなら、少しでも力の足しにしなきゃいけない。
 僕は一度、負けているのだから。
 ……たしかに、あの人はパーンと一騎打ちしたあと、軍を引き揚げた。
 それを相打ちと見る者もいるが、結果としてあれは負けだ。
 解放軍は帝国軍と真正面からぶつかったものの、力の差は歴然。
 あれ以上戦を続けたら、おそらく解放軍は壊滅に追いやられていた。
 だから僕は撤退の命令を下した。
 その時点で、負けていたんだ。
 そこでさらに追撃すれば、僕らを壊滅できただろうに。
 それを考えると複雑になった。
 所詮僕は……あの人にかなう器ではない、と宣告されたようで。
 …いや。
 そうなんだ。
 僕には到達できない場所にあの人はいる。


 戦場で向き合ったのはあれが初めてだった。
 彼方に見えた帝国軍の陣営。
 ……僕は馬上から指揮をとった、平然として。
 でもそのとき、本当は、僕は…怯えていた。
 あんな空気、知らない。
 離れていながらびりびりと感じる威圧感、あれが歴戦の将軍の持つ気なのだと初めて知った。
 それは僕の知るあの人とは……かけ離れた強さで。
 優しくて、怒ると怖かったあの人。
 けれど僕が対峙したのは、人の父としてのそれではない、帝国に命を預け戦う将軍の気迫。
 あれが……僕の父か。
 大将軍と称えられる僕の父なのか!
 僕は…僕があの人の息子であることを、そのとき忘れようと必死になった。
 必死に頭から追い払い、ただ目の前の戦に集中しようとした。
 絶対的な強さの違いも確かにあっただろう。
 けれど勝敗を決したのは、軍を率いるあの人と僕の違い。
 僕だ、僕が弱いからだ。
 僕が……!!
 次は負けない。
 でもそれには、僕自身に決定的な何かが必要だ。
 少し前まではほのかであるけれど、僕の中に確かにあったような気がする『何か』……。
 それが何かわかれば、僕はあの人に勝てるだろうか。
 そうじゃない、勝たなくちゃいけないんだ。
 僕は、リーダーだから。
 たくさんのひとを、救わなくちゃいけないんだから。





 このごろ、ひとりでいることが多くなった気がする。
 何度目とも知れないそれを思って、僕は頭を振る。
 ひとり?
 ばかな。
 だってこんなに解放軍の仲間も増えて、今だって厳しい戦闘を仲間たちと乗り越えているじゃないか。
 先頭に立って帝国兵の剣を薙ぎ払いながら、頭の中に浮かびそうな思いを否定する。
 気を抜いたら怪我するからね。
 一瞬でも気は緩められない。
 左…右…両方から迫ってくる気配。
 どちらかを受ければどちらかが隙になる、ならば両方相手にするまでだ。
 左にいた兵士の剣が腕を掠るけど、たいしたことじゃない。
 右の兵士の剣を叩き落す、その勢いのまま左の兵士の鎧の外れた腕に棍を叩きつける。
 ……鈍い音がした。
 いやな音だった。
 右にいた方が奇声をあげて突進してくるのを避けて、後ろから首に向けて棍を振り下ろして。
 ばたり、と倒れるのを…僕はただ見ていた。
 腕を打った方も、もう戦う気はなさそうだ。
 そうじゃない…戦えない。
 頭の中に紅い靄が広がって、じんわりとした痛みと一緒に思考が麻痺していくような感覚。
 棍を持つ手さえ、現実ではないように遠く感じる。
 僕は踵を返した。
 早く…行かなきゃ。
「おい、レイ」
 慌てたように声をかけてきたのはビクトールだ。
 …最近、僕の名前を呼ぶのはほとんどがビクトールだな、と思いながら振り返る。
 そういえば、誰かと話した記憶があまりない。
 忙しいから。
 立ち止まっていられないから。
「……なに?」
「なに、じゃねぇだろう。何だ、その荒れた戦いっぷりは」
「そう? そんなつもりないけど。そう見えた? なら少し気をつけるよ」
「っておまえ、なぁ」
「…あぁ、うん、ごめん。ほら…また大きな戦いが近いでしょ? ちょっと気が立ってたみたい」
 僕は笑った。
 けれど、ビクトールの目は真剣な色をしていた。
 それを僕は真正面から受け止める。
 やましいことは何もないから。
 その視線に僕はたじろぐつもりもない。
 ずいぶんと長い沈黙のあと、ビクトールは大きく息を吐いた。
「……俺はな。ああだこうだ言うつもりもないし…大きな口叩ける立場でもないと思ってる。第一、おまえを引きずり込んだのは俺だからな。それは間違いじゃないと今でも思ってるが……だけど、レイ、いいか」
「ビクトール」
 僕は、それを遮った。
「ごめんね。あとでいい? 今の戦いで、血の匂いがする…魔物が集まってきてるよ」
 言うと。
 ビクトールがぷっつりと黙り込んだ。
 僕は行こう、とビクトールを促して、また歩き出す。
 うしろで、ぽつりと言う声が聞こえた。
「……なぁ。おまえが支えにしてきたものは…おまえを支えとしてきたものは……それですべてだったのか?」


 紅い靄の中。
 小さな晴れ間が、そこにはあった。
 僕が支えにしてきたもの…。
 僕を支えとしてきたもの…。
 失ったもの。
 ビクトールは、それがすべて消えたのか、といっている。
 小さな晴れ間。
 けれどそれは、すぐに靄の中にかき消されていく。
 すべて?
 そうかもしれない。



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