< 後編 >
February 5th, 2003
★ ★ ★
− 1 −
広い宿の中を、てくてくと歩く。
無言なのは不機嫌だから…というわけでもなくて。
じゃあなんだ、と聞かれても困る。
なんとなく口を開く気になれないだけで。
「ほんとに広いんだなぁ。こういうところもあるんだって、知ってはいたけどさ」
浮ついた声はそれなりに遠慮しているのか小声で、床に敷き詰められたカーペットのおかげで響きもしない。
それでもはしゃぎそうなのを押さえ込んでいる口調ではあるが。
「ほらさ、オレ、あちこちウロウロしてたじゃん? そういうときってさ、やっぱひとりだからランク下げるんだよね〜」
楽しそうにシーナが笑う。
ああ、とか、そう、とか、短く相槌は打つものの、レイはどこか上の空。
シーナはそれにはお構いなしにしゃべりまくる。
荷物からああだこうだと必要なものを抜き出すのに手間取って、少し時間が遅くなってしまったのが廊下の先の窓でわかる。
なにせレイたちは町に着いてまず買い物に出され、ようやく宿に着いたばかりだったのだし。
やれやれ、夕飯に間に合うかなぁ…とレイはそっと嘆息した。
と、シーナがぴたりと立ち止まる。
「……あ。いっけねぇ。忘れ物したみたいだ」
「えぇ? あんなに確認したのに」
「うっかりしてたみたいだわ。な、ふたりとも、先行ってて。オレもあとから行くからさv」
「はいはい」
言うと、シーナは今来た道を小走りに戻っていった。
ひらひらと手を振ってその後ろ姿を見送る。
「…って、シーナ、走るなよ。宿の中なんだから」
はっと気付いてレイが声をかけると、廊下を曲がりかけていたシーナが慌ててスピードを落とした。
「まったく。人にぶつかったらどーすんだあいつ」
「またトラブルになるわけ? やだよ僕、そんな面倒なの」
「僕もね」
レイとルックは肩をすくめて顔を見合わせた。
………なるほど。
体を流して湯船に浸かったレイは、思わず納得する。
「これが名物……ってわけか。たしかにそうかもね……」
ぽつり、とルックが呟いた。
それにレイも笑って、
「あんまり見る形じゃないからね。こういう名物があるから客が集まって、だから大きな宿が建てられる、って寸法か」
「そういうことなんじゃない? 戦争の不況の中でもね」
「うーん、こういうのって娯楽のひとつでもあるし。そういうはけ口もあるってことなのかな」
「なんだかそう言い切るのも不毛な気がするけど」
「うん」
ふたり肩を並べて、天を仰ぐ。
空が、広い。
そうなのだ、ここの大浴場はごつごつとした岩で作られた岩風呂、しかも高台にある露天風呂なのだった。
高台なので空を遮るものがほとんどない。
森の木々の頭が見える程度で、建物も視界に入らない位置にある。
そして下のほうには川があるらしい、さわさわと心地良い音がする。
「でもさ。こういうのって、顔が冷えるよね」
温まった手で頬を包み込んで、レイが一言。
ルックは乳白色の湯を手のひらにすくった。
「その方がいいっていうけど。成分も手伝って体の温度が上がるから、それで調整がきくんだろ」
「あぁ、そっか。だから露天風呂って長く入っていられるんだね」
ふと。
ルックがそのレイの言葉に動きを止めた。
なに? とルックの顔を覗き込む。
何事か考え込むようにしていたルックはやがて眉をひそめた。
「……僕がのぼせやすい、って言ったとき、あいつ『全然大丈夫』とか答えたろ? ……それって、ちゃんと計算に入れてたってこと?」
「………あぁ…そうかもね。あいつ、その前にフリックと話してたし。そこでネタを仕入れてた可能性は十分…」
「…………。判断に困るよ」
難しい顔でルックが言う。
「判断に困る?」
きょとんと聞き返すと、ルックはさらに難しい顔をした。
「…困るだろ。露天ならのぼせやすい僕でも平気だ、ってことをあいつが理解してたんならさ。それが、僕を気遣ってのことなのか…それとも、ただ僕をここに引っ張り出したかっただけなのか」
「んー…それは……」
困ったようにレイは乾いた笑いを浮かべた。
もしかして、と思ったけれど、それを口にするのは危険だ。
(…もしかして…いや、もしかしなくたって、その両方なんじゃないかなぁ…?)
少しして、脱衣所のドアが開いた気配がした。
ぴく、とふたりは肩を揺らす。
「そういえばさ…なんで僕たち素直にここまで来ちゃってるの?」
「さぁね……」
「逃げる、って手もあったような気がするんだよね。フリックがどう言おうが気にしなきゃよかったんだし、それにいくらあいつだって女の子と一緒にお風呂、はさすがに……ないでしょ?」
「どうなんだろうね。あいつのことだからやったかもよ?」
「それはなんか…いろいろとマズイよなぁ、やっぱり…。でもなぁ……」
普段は迷いもなくきっぱりと軍に向かって指示をするくせに、変なところでレイは優柔不断だ。
ルックはいつもよりも長く息を吐いた。
「…無駄だよ、レイ。結局ここまで来たからには、どうあがいたってね」
諦めきったような言葉。
レイがちらりとその横顔を見る。
「……どうしたの、ルック。珍しく諦めが早いじゃん。……もしかしてあいつに落ちる気になったの」
「バカ言うな」
「ははは…だろうね」
言いながら、「なんて会話してるんだろう」とレイの独白。
今の会話を頭の中で反芻して、思い切り湯の中に潜りたい気分になった。
後で悔やむから後悔。
よく言ったものである。
レイの脳内が混乱の渦にあるとは露知らず、がらりとガラス戸を開けて入ってきたのんきな笑顔。
「うっわー。広いね〜。寒いけど、気持ちい〜っ」
早速大騒ぎだ。
ルックは肩をすくめる。
「そこのバカ。真冬にそんなカッコでうろついてたら即風邪ひくよ」
「えっ、なになにv 心配してくれんの〜v」
「そうだね、静かになるから風邪でもひいててくれた方がマシか」
きっぱりと。
えええ、などと嬉しそうにシーナ。
はっきりそう言われて普通なら落ち込むところかもしれないが、そんな程度で沈むシーナならこんなに振り回されたりしないのだ。
第一、言い切ったルックの口調を聞いていれば、本気で「ふざけんな」と思っているわけではないことは明白だ。
ずっと一緒にいればそんなことくらいわかるというもので。
だからそのまま話を続ければいいのだが、人のクセというものはなかなか直らないからクセというのである。
あたりを見回していたシーナがふと高くなっている岩壁に気付いた。
どう見ても人工物……ということは。
「……もしかしてこの向こう、女湯?」
ぴしっ。
悪いことに、湯船のそばには木桶がふたつ。
しかもちゃんと伸ばせば手の届くところに置かれている。
────こーーーんっっ