September 3rd, 2002
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その夜、室内は湿気と暑さで蒸し風呂のようだった。
ここ最近ようやく涼しくなってきて、過ごしやすくなったかと思ったのも束の間、どうやら夏がぶり返してしまったらしい。
廊下にはグレミオの気配。
暑くて立ってるのも大変だろうな、と思いながらもあまりの寝苦しさに人を気遣う余裕さえなくなってしまう。
ただ無駄に寝返りを繰り返すばかりで、ちっとも眠れそうな気がしない。
こういう時は羊を数えるといいっていうよな……。
昔眠れない時にグレミオがそう言っていた。
もしかしたら無駄な抵抗かもしれないが、何もしないよりかはマシだ。
そうして、薄いタオルケットの上で指を組んで、頭の中に羊を思い浮かべる。
───羊が1匹…。
羊が2匹……。
羊が3匹……。
ぴょーん、ぴょーんと垣根を跳んで越えていく羊たち。
白いの、黒いの、薄汚れているの。
それに「あっ、ちゃんと洗ってやんなきゃ」などとツッコミを入れそうになって慌てて次の羊を数える。
羊が24匹……。
羊が25匹……。
羊が26匹……。
つまずいて垣根にぶち当たるなどという羊もなく、順調に数が増えていく。
ぴょーん、ぴょーん、単調な動き。
そろそろ飽きてきたが、ここでやめては元も子もない。
もう少しで眠れそうな気がするのだ。
羊が45匹……。
羊が46匹……。
羊が47匹……。
とろん、と頭の奥が重くなる。
眠たいな、と思いながら、羊の数を数える。
羊が48匹……。
羊が49匹……。
羊が49匹……あれ?
49…。
ぱちりと目を開く。
「ねぇ、グレミオ、49の次ってなんだっけ?」
すると枕元にいたグレミオが優しげな笑顔が目に飛び込んでくる。
「4の次はなんですか?」
「5…。あ、そっか、50だ」
「そうですよ。ほら、目を閉じて」
「うん」
羊が50匹……。
羊が51匹……。
羊が52匹……。
今度はうまくいった。
白いの、黒いの、薄汚れているの。
たまにピンクなんて突拍子もないもの。
ぴょーん、ぴょーん、跳んでいく。
時折その数に突っかかりながら、94匹の羊を数えたところですうっと意識が遠くなっていった。
せっかくもうすぐで100だったのにな、とどこかで残念に思いながら。
次に気がついた時、窓の外はキラキラと眩しかった。
こしこしと目をこすりながらぼんやりと眺めると、雲ひとつないような青空。
「おはようございます、ぼっちゃん」
ドアを開けて入ってきたグレミオの明るい声。
「うん…おはよぉ」
寝とぼけた声で答えると、グレミオが笑う。
大きくのびをしたレイは、よいしょ、とベッドを降りた。
寝間着のボタンに手をかけるとグレミオが手伝ってくれる。
「今日はいい天気ですよ。せっかくですから、朝ご飯はお庭でいただきましょうね」
「うん。お父さんは?」
グレミオの用意してくれた服に手を通しながら聞く。
「お仕事はお休みですから、いらっしゃいますよ。あぁ、そういえば一緒に朝ご飯を召し上がるのは久し振りですもんね。ぼっちゃんはお寝坊さんですから」
「ちがうもん。お父さんが早いんだもん」
「はい、はい。そういうことにしておきましょうか」
からかうような口調にレイが拗ねたように顔を背けると、またグレミオは笑う。
笑いながらレイの上着のボタンを留めて、ぽんと小さな肩を叩いた。
「終わりましたよ。それじゃ、ぼっちゃん。お顔を洗って、お手伝いしてくださいね。お皿を外に運ばなきゃなりませんから」
「はぁい!」
ねぼすけ扱いされて拗ねていたはずのレイは、すぐに笑って元気のいい挨拶を返す。
それがレイのいいところだ。
そのままばたばたと廊下へ駆け出ていくレイを、グレミオは暖かい気持ちで見送った。
大きな木は、即席のパラソルだ。
枝葉が落とす陰に持ち運びのできるテーブルを運んで朝食にした。
それは小さな贅沢。
食事も終盤にさしかかり、レイはデザートのキウイに取りかかっていた。
それに目を留めたテオが表情を和らげる。
「ほう。レイはキウイも食べられるようになったんだな」
「うん! …でもね、ちょっとだけ苦手だよ。だってすっぱいから。だからね、種のとこはかまないの」
「そうか。だがちゃんと噛んで食べないと体に悪いぞ」
「だって種、すっぱいよ」
ぺろり、とレイが舌を出す。
食卓の雰囲気は、いつもこんなふうに明るい。
「けど、ぼく、いっぱい食べられるようになったよ。トマトもねぇ、ナスもねぇ、ちゃんと食べられるんだよ」
「この前まではいつも残していたのにな」
「だってもうぼく赤ちゃんじゃないもん。でもねぇ、グレミオはいっつもぼくを赤ちゃんみたいっていうんだ」
「悪いグレミオだな」
「そう!」
「何をおっしゃるんですか、ぼっちゃん! ピーマンを残されてるようじゃ、まだまだあまえんぼさんですよ」
「ほらあ、お父さぁん」
「ははははは……。そうだな、次はピーマンだな」
「えええ……」
テオの仕事は忙しい。
だから、こんなふうに朝一緒に食事を取ることはまれだった。
そのせいか普段よりよくしゃべるレイを、家人は笑って見ている。
隙を見て隣の皿に伸ばされようとしているパーンの手をクレオはピシャリとはたいた。
……と。
そのクレオの目に、向こうから駆けてくる小さな影が映る。
最近よく見る姿だ。
「あら、ぼっちゃん。お友達が来たみたいですよ」
「えっ?」
言われて振り返ると椅子が倒れそうになって、慌ててグレミオが支える。
そんなことお構いなしにレイは椅子から飛び降りた。
息せき切って駆けてくるのは短い金髪の少年。
頬を紅潮させて、笑顔を満面に浮かべている。
「レーイっ、おっはよー!!」
ばたばたばた、と音がしそうな程の勢いだ。
最近よく遊びに来るこのレイの友達を、家の者たちも気に入っていた。
それは彼の人なつっこい笑顔がそうさせるらしい。
彼が笑うとつい毒気を抜かれてしまう。
それでなくとも小さな子供には人を和ませる不思議な力がある。
「おはよう」
「おはようございます、シーナくん。今日は早いですね」
シーナ、と呼ばれた子供はようやく勢いを止めて、
「あ、おじさん、グレミオさん、パーンさん、おはようございます! クレオさん、今日もきれいですね〜」
「まぁた、この子は」
言われたクレオが苦笑する。
この年にして口が上手い。
まさかそれでよろめいたりはするはずないのだが。
「おはよ、シーナ。どうしたの? そんなにいそいで」
レイは少し見上げる位置にあるシーナの目を覗き込む。
シーナはそうだ、と手を叩いて、
「父さんがね、あたらしいおもちゃをもってきたんだ。いっしょにあそぼうよ」
「へえ。シーナのお父さん、いっぱいおもちゃもってきてくれるんだね」
「うん、しりあいに、からくりをつくる人がいるんだ。その人があたらしくつくったおもちゃをくれるんだよ」
「からくりかぁ」
レイの声が嬉しげに跳ねる。
そうしてぱっと振り返ると、テオの顔を見た。
遊びに行ってもいい? の顔。
テオは笑って頷いた。
「ああ、行っておいで。シーナくんのお父さんやお母さんに迷惑をかけちゃいけないぞ」
「はい!」
「それからぼっちゃん、あんまり遅くならないうちに帰っていらしてくださいね!」
「はーい!!」
行こ、と声をかけ走り出すシーナに、レイも後について駆けだした。
「あ、あんまり慌てると転びますよ〜〜〜〜!!!」
後ろから、グレミオの声が追いかけてくる。
レイとシーナは顔を見合わせて、笑った。
「「はあい!!」」