December 24th, 2002
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それは決まって、夜にやってくる。
闇にまぎれたひそかな吐息の奥で、ぼんやりとその形を浮かび上がらせる。
実体があるのかないのか、わからない不思議な存在感。
捕まえようとするとするりと網をかわして逃げていくもの。
それは決まって、「夢」の形で見えてくる。
唐突に、目の前に青空が広がった。
何の前触れもなく。
ただそれが「空」だと認識できたのは、ぽかりと綿のような雲が浮かんでいたから。
青にとけてしまいそうな薄い白は、昨日見た雲の形によく似ていた。
ぼんやりとそれを見て、なにか漠然とした靄のようなものが心にかかっていることに気付く。
一体それが何なのか、考え込もうとしたときにはもう霧散していた。
その残骸のようなものが胸の中に少しばかりの違和感を作る。
けれどそれもすぐに掻き消されてしまった。
ばたばた、と激しい足音が、聞こえたと思ったらあっという間に近付いてきたからだ。
「ぼっ……ぼっちゃああああん!!!!!」
同時に、叫ぶような声。
すぐに覗き込んできたのは、逆光の中でもさらりと滑る金色の髪。
よく知っているはずの顔なのに、なにか引っかかるものがある。
その正体を考える前に、心配そうな声が降ってきた。
「大丈夫ですか、ぼっちゃん! お怪我は!」
言われながら引き起こされる。
背中がちょっとだけジンとしたが、別にどこがどうなったというわけでもなさそうだ。
その理由はよくわからないが、とりあえず大したことはない。
だから覗き込んでくる顔にこくりと頷いてみせた。
「だいじょうぶ…。どこもいたくない」
すると、明らかにそれとわかる安堵の溜め息が返ってくる。
「そうですか……。ぼっちゃん、これからは高いところに登るときは気を付けなくちゃダメですよ。今回は低い塀だからよかったですけど、これがもっと高かったら、怪我をするどころじゃないんですからね。遊んじゃダメとは言いません。気をつけてくださいね」
「……うん」
「なんにせよ、どこもお怪我がないようで……あぁ、よかった……」
そうか、塀から落ちたのか。
レイはぐるりと視線をめぐらす。
すると後ろには崩れかけた低いレンガ塀…なるほど、あの上で遊んでいて、あそこから落ちたのか。
ようやく自分のおかれた状況に納得する。
……が、わからないのはそれだけだったろうか。
首を傾げて考えてみるが、どうも思い出せない。
「ぼっちゃん、そろそろおうちに帰りましょう。さっき、おいしいケーキを焼いたんですよ。おやつにしませんか?」
「ケーキ? うん、帰る!!」
ぱっと顔をあげると、今考えていたことが、頭から飛んでいってしまった。
いつでもグレミオの作る料理は最高だと思う。
外に食べに行ったりクレオが作ってくれたりすることもあるが、やっぱりレイはグレミオの料理が好きだ。
おやつのフルーツケーキを食べ終えたレイは、満足げにまた外へ飛び出していった。
今度の目的地は家から少し離れたところにある空き地。
住宅街の中にあるせいか子供にはなかなか発見されにくいらしく、そこはいつでも人の姿がなかった。
他にもいくつか空き地はあるのだが、そこだけが無人なのだ。
その空き地の片隅に、1本の大きな木がある。
ほとんど枯れかけているのか夏でもあまり葉をつけないその木は、冬の風の中で寒そうにその枝を揺らしている。
最近この場所が気に入っていた。
その木の枝に登ると、彼方にある山がうっすらと見える、その景色が綺麗だったから。
それに他の空き地はもう他のグループに占拠されていることだろうし。
なにせ、レイの家はいわゆる「上流」に当たる。
上流家庭の子供たちは公の教育のほかに、数々の習い事をするのが常だった。
レイもそれに漏れず、武芸や楽器などをいくつか習っている。
それは同時に、他の子供たちとは時間軸がずれることも意味する。
そのせいで、レイにはあまり同年代の友達がいない。
もちろん皆無というわけではないが、グループに入るほどでもない。
「よいしょ」
その木の下の方にあるうろに足をかけて、少し上の枝に登る。
ほんの少しでも、見える景色が違う。
もうひとつ上の枝に手を掛けて、レイはその枝によじ登った。
またあの綺麗な山が見えた。
今日は晴れているから、いつもよりはっきりと。
「………お父さん……いつ帰ってくるのかなぁ」
ぽつり、とつぶやく。
レイの父は偉いらしい。
役職を聞いても仕事の内容を聞いてもいまいちレイにはピンとこないが、偉いのだと聞いた。
それはどうやら誇らしいことであるらしいが、あまり家に帰ってこないことを考えれば、それはつまらないことでしかない。
幼い頃母を亡くした上に父にも滅多に会えないのは、口には出さないが寂しい。
その分グレミオやクレオや、パーンがいてくれはするけれど。
だからこんな風に遊んでいても、決して楽しいわけではない。
ふぅ、とレイは息をついた。
そこに。
「危ないよ」
下から、声がかかった。
はっとして根本を見下ろすと、いつからそこにいたのだろう、小さな子供が立っている。
慌てた様子でもなく、咎める様子でもなく、ただじっと見上げてくる一対の目。
驚いて、足が滑った。
…気がついたときには、また空の青。
2回目、と心の中で意味もなくカウントする。
「……だからいっただろ? 危ないって」
また静かな声がした。
とっさにレイが体を起こすと、さっきの子供がそばに立っていた。
幾つくらいだろう、レイよりずいぶんと小柄だ。
綺麗に整った顔には表情がなく冷たい印象を受けるが、双眸の深い緑が不思議な暖かさを持っていた。
性差の少ない幼い子供とはいえ、性別を感じさせない美しさがある。
どこかで見たことがある、と思った。
そう、グレミオが読んでくれたあの本だ。
昔々、天に人が住んでいたという、あの物語。
「えっと……」
レイが迷いながら切り出そうとすると、その子供はすっと視線を上げた。
その先にはあの木。
「今日の朝はさむかったから……昨日の雨がまだこおってるんだ」
言葉少なに、それだけを言う。
子供は一度目線を落としてレイを見ると、さっさと歩き出した。
「あ! ちょっと待って!」
レイが声を張り上げると、ようやく立ち止まって振り向く。
「……なに?」
「きみは…だれ?」
自分でもなぜその子供を引き留めたのかわからない。
だからそのくらいしか聞くことがなかった。
「ルック」
子供は、消えそうな声でそう答える。
そのままもう振り返らずに歩いていくその肩で、風に吹かれた栗色の髪が柔らかくなびいていた。
「だから気をつけて、と言ったでしょう! 本当にぼっちゃんは元気がよくて…あっ、それはいいんですよ、でも、こんな毎日傷を作られては……」
家に帰ったレイは、早速グレミオの涙ぐむような説教攻撃を浴びる。
いつもは申し訳なく聞くその声も、今日はなんとなく上の空だ。
「多少の傷は男の子の勲章だよ。腕白、結構じゃないか。ねぇ」
笑いながらクレオが薬箱の蓋をパタンと閉じる。
それにこくりとレイが頷く。
ふとグレミオがその様子に気がついた。
「? ぼっちゃん? どうかなさいました?」
顔を覗き込むようにすると、レイは困ったように首を傾げた。
「ねぇ、グレミオ。『ルック』ってしってる?」
「『ルック』? ですか?」
「うん。そう言ってた」
「……うーん、聞いたことがないですね…。どなたかのお名前ですか?」
「そう。ぼくより…ちっちゃいとおもうんだけど。あのね、かみのけがちゃいろくてね、目がきれいなみどりいろなの」
「子供ですか…。クレオさん、ご存知ですか?」
振られたクレオも首を傾げる。
「記憶にないね。ぼっちゃんのお友達ですか」
「さっきあっただけなんだけど……」
何かが気になるらしい。
クレオは笑って、何度も首を傾げるレイの頭を撫でた。
「ひとりでいたのなら、旅行でいたわけでもないでしょう。この町の子なら、また会えますよ」
「…そうだね!」
レイはやっと笑った。