July 11th, 2003
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日のあたる石畳の道を、ぱたぱたと足音をさせて走る。
道に面した建物の2階の窓の外にはどの家にもずらりと花のあふれる鉢が並んでいる。
そのため、この通りは花通りと呼ばれていた。
甘い香りが日射しに溶かされて漂う、足音はそれを渦巻かせる一陣の風。
滅多に走ることはなかったし、今だってそんなに急ぐ必要はない。
けれど早く会いたいと急く気持ちが、そのまま足に伝わっているようで。
…こんなに能動的な心が自分にあっただなんて、考えたこともなかった。
心が急いてしまうほど、なにかを強く思うことがあるだなんて。
軽い足音は続く。
しかし、それは大通りの直前でぴたりと止んだ。
立ちはだかる、影。
台所には、よく煮た野菜の甘い香りと調子の外れた楽しげな鼻歌。
いったい何の歌なのだろう。
聞いたことがないのはそれがオリジナルソングだからなのか、ずれた調子のせいなのか。
上がり調子になるのは上機嫌の証拠なのだろうが……。
それにしても、鼻歌の歌い手はどうあれ、聞いている方の調子は思い切り狂う。
リアクションの派手な者ならとっくに転んでいるところだ。
と、玄関の扉の向こうに人の気配がする。
あっと思う間もなく扉が叩かれた。
呆れたように頬杖をついて鼻歌を聞いていたクレオがそれに気が付く。
鍋に向かったままでまったく気付いていない背中をちらりと見て、席を立った。
「あら、珍しい」
扉を開けたクレオは開口一番そう呟く。
そこに立っていた二人組は挨拶よりも前にそう言われたことに苦笑する。
「珍しい、はないなぁ」
「だってそうでしょ。テオ様がいる時ならまだしも、今はあいにく街を離れていらっしゃるけど?」
「わかってるよ。今回僕たちも供をしてましたからね」
「…さては悪戯でもして追い返されたんじゃないだろうね」
「あはは、まさか。意外に考えなしで突っ走るアレンならともかく」
「ちょっと待った、なんだそれは!」
くってかかるアレンに、グレンシールは涼しげな顔。
クレオは肩を落として笑った。
「はいはい。…で? テオ様の供の途中ならなおさら理由があるんじゃないのかい? 逃げ出してきたってはずもないだろうし」
「あぁ、これをね」
相方をなだめながら、グレンシールが持っていた袋を掲げた。
「そう、それでわざわざねぇ」
「長丁場になるから、僕たちを交代させてくれる意味もあるのでしょうけどね」
談笑しながら3人は台所に入る。
グレンシールが持ってきたもののためでもあるし、何より客間に通して恭しく茶を運ぶほど他人行儀な関係でもない。
この家の主人であるテオは、国の自警の要職に就いているが、それだけでなく剣術の師としても有名だった。
アレンとグレンシールは幼い頃からテオについて武芸を習い、いつしかテオの両腕と密かに称されるほど将来有望な騎士となった。
そのため、テオは何度かふたりを家に招待し、ふたりもなんとなく入り浸るようになっていたのだ。
とはいっても最近は、テオに付き従って各地を回ることが多かったが。
「グレミオ?」
まったく振り向かずにまだ鍋に向かったままのグレミオに向かってクレオが声をかける。
…が、反応がない。
念のため、もう一度声をかけてみる。
やはり反応は全くない。
グレンシールは堪えきれずに吹き出した。
「相変わらずだなぁ、グレミオさん」
そのもっともな感想にクレオは肩を落として同意した。
「…もしかして、オレたちの存在、気付かれてないんだ…」
アレンも呟く。
まさかグレミオの性格上無視しているということは考えにくい。
というより、どうせいつものことだから。
そして、その理由も簡単に想像がついてしまうところが怖い、と思う。
3人は顔を見合わせ、その奇妙な間に苦笑した。
だがその沈黙は、すぐにかき消される。
それを破ったのは、階上から聞こえてきた音。
ばた、ばたん、というのは部屋の扉が開いてまた閉じた音だ。
そうしてばたばたと、階段を下りてくる音がする。
もちろんその音の主は誰だかすぐにわかったけれど。
「久し振り。元気にしてた?」
振り向きざま、グレンシールが声をかける。
駆け込んできたレイは、ふたりの姿にきょとんとして、すぐににこりと笑った。
「こんにちは、おにいちゃんたち。…だれか来たと思ったら、おにいちゃんたちだったんだ」
その声に、少し残念そうな響きがあることにアレンが気付く。
「レイ? オレたちじゃなくて、他の誰かだと思った?」
「え? あ……うん、ごめんね」
「友達でも来るんだったんだ」
「やくそくは…してないから、わかんないけど」
ほんの少しうつむいたレイ。
ようやく鼻歌が止んだ。
「あ、ぼっちゃん、降りてこられたんですか。今日はふたりとも、遅いですねぇ。………あれ? アレンくん? グレンシールくん? 来てたんでしたら声かけてくれれば…あぁ、今、お茶を用意しましょうね」
のんきなグレミオの言葉に、アレンは机に突っ伏した。
グレンシールが持ってきた袋の中身は、テオが今いる街の名産だという菓子の詰め合わせだった。
テオがレイに食べさせてやりたいとふたりを遣わしたらしい。
大きめの籠に、グレミオがそれを形よく盛りつける。
「…へぇ、引っ越してきた子たちなんだ」
「うん。いつもね、いっしょにあそぶんだよ」
アレンに聞かれて、レイは嬉しそうに笑う。
年は離れているが、アレンとレイは仲がいい(グレンシールは「精神年齢が近いんじゃないのか」などと言うが)。
けれどそれはレイに同年代の友達が少ないことの証のようで、実は気にしていたアレンだ。
だからレイの新しい友達、と聞いて少なからずほっとした。
アレンだけではない、それはグレンシールも同じだ。
レイには、人を引きつける不思議な魅力があった。
整った顔立ちも、素直で明るい性格も、その要因のひとつでしかない。
理由なんてわからないけれど、気が付くと目で追ってしまう。
最初はテオの息子ということで、多少緊張してレイの前にいたものだが、今ではすっかり打ち解けた。
テオの息子、だけでくくってしまうにはレイの存在は大きすぎるのだ。
なんとなく柔らかな気持ちで、ふたりは頬を紅潮させて喋るレイを見つめた。
「さ、お茶が入りましたよ。ぼっちゃんも、お菓子、いただきませんか?」
さっきとはうってかわってよく喋るグレミオがそっと籠を差し出す。
けれどレイは、ふるふると首を振った。
「? いただかないんですか?」
「あとで。ルックとシーナが来たらいっしょにたべる!」
「たくさんありますから大丈夫ですよ。でも、そうですねぇ。おふたりと一緒に召し上がればいいですね」
ほのぼのとした会話。
とても穏やかだ。
そこに、玄関の扉が鳴る音。
ぱっとレイが反応した。