February 14th, 2004
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風が冷たい、いつもの帰り道。
靴の音と一緒に耳元を過ぎていく風の泣き声が聞こえる。
悲しい声じゃない。
なんだかとても、優しい声に聞こえる。
手袋をしていても指先は痛いくらいに冷たいけれど、そんなことは気にしない。
冬の中でも暖かな場所があることは、もう知っているから。
その日は、シーナの家に招かれた。
約束の時間まで待ちきれずに、朝食が終わるや否や駆け出して。
うしろからグレミオの「気をつけて下さいね」という声が追いかけてくる。
いつも会っているのに。
だけど、いつでも会いたくなる。
同じ人とずっと会っていると飽きるとか飽きないとか世間では言うようだけれど、飽きるだなんて考えたこともない。
会っていることが嬉しい。
そばにいることが嬉しい。
ただそれだけの理由かもしれないけれど、その理由は簡単には崩せない。
だから走っていく。
子供が走るのは、「会いたい」気持ちに素直だからなのかもしれない。
足音も高く、レイが走る。
そうして、その気持ちが自分だけのものではないと、知る。
「おはよっ」
駆け寄ってきたレイを嬉しそうに迎えるシーナの笑顔。
特に何かをしていた様子はない。
きっと、レイを待っていたのだ。
するとその影からひょいとこちらを伺う顔。
「おはよー。シーナもルックも、はやいねぇ」
「だっておれ、ちゃんとおでむかえするんだ」
「ぼくも……きちゃった」
レイは思い切り空気を吸い込んだ。
冷たい大気で、荒れた息が落ち着く。
本当に、飽きるだなんてとんでもないのだ。
がちゃりと家のドアが開いた。
「あらあら。ふたりとも早いのね」
話し声に気付いたのか顔を覗かせたアイリーンが笑う。
約束の時間より早く集まってしまうだろう3人をわかっていたような顔。
アイリーンはそのままドアを大きく開けた。
「寒いから、中にお入りなさいな。お部屋、暖かくしてあるわよ」
言われるままに家に入ると、ふわりと柔らかな空気に包まれる。
一足先に春を吸い込んだような、そんな気持ち。
着ていた厚いコートを脱ぐと、体が軽くなった。
「今日はなにしよう?」
手を洗って足早に部屋に向かいながら、レイが聞く。
少し考え込むように、シーナ。
「んー。あのさ、このまえクレヨンをもらったんだ。それできのうたくさん紙ももらったから」
「じゃあ、おえかき?」
「で、いい?」
「うん!」
アイリーンは、競うように走って行く3人の背中を暖かなまなざしで見送った。
ばた、ばたん。
部屋のドアが開いて閉まるその音。
それまでが明るい。
「ほらね。いっぱいでしょ」
部屋の奥まで一気に駆け込んだシーナが机の引出しを開けながら、得意げに言った。
ルックが覗きこんで頷く。
敷き詰めるように入ったその真っ白な紙は、そのままではただの紙でしかない。
シーナはその束をよいしょ、と持ち上げると、レイに渡した。
「うわ。ほんとうだ。たくさんだね。おもいもん……」
「それと、クレヨンも、いっぱいあるよ」
3人は1枚、1枚と画用紙を思い思いに並べる。
「シーナはなに、かく?」
「うーんとね。どうしようかなー。ルック、どうする?」
「ぼくは……おうちかな」
「それじゃあぼくはねぇ……」
迷いながら、たくさんのクレヨンの中から目当ての色を探す。
腕を組んで困った顔をしていたレイは、まず青いクレヨンを取った。
時々音を立てる窓ガラス。
よく晴れた空の青が、その向こうでまぶしい。
広げた画用紙には色とりどりの線が走り、小さな世界を作る。
「できた?」
「もうちょっと」
こっそりと囁くように言葉を交わす。
一度クレヨンを紙におろせば迷うこともない。
次から次へと色を変えて、鮮やかなラインを引く。
真剣なまなざしは、どこまでもまっすぐだ。
「お邪魔していいかしら?」
ふいに外から声がかかる。
アイリーンの声だ。
シーナが顔を上げて、
「いいよー」
と答えた。
わずかして、ドアが開く。
「ごめんなさいね。ジュースが出来たから持ってきたのよ」
レイとルックも首を仰のかせる。
アイリーンが持った木製のトレイの上には、ピンクのコップが行儀よく並んでいた。
「はい、じゃあここに置くわね」
「ありがとー」
「ありがとうございます」
ことん、音を鳴らしたコップの中で、ピンクが小さく揺れる。
なるほど、ピンクは中身の色で、コップ自体は透明なのだ。
よく見れば濃い色と薄い色が混ざっていて、赤いつぶつぶが見える。
レイはそっと首を傾げる。
「なぁに? つぶつぶがいっぱい」
「いちごよ。潰してジュースにしてみたんだけど、嫌いじゃない?」
「ううん。大好き!」
「そう、よかったわ」
にこりとアイリーンが笑う。
……嬉しそうな顔。
優しい顔は、「お母さん」の顔。
レイを生んでくれた「お母さん」はどんな人だったのだろう。
生きていれば、こんなふうに笑ってくれたのだろうか。
あまりに幼すぎたから、記憶なんてない。
だけどきっと、暖かかったに違いない。
自分をかわいがってくれる大人はたくさんいるけれど、「お母さん」は特別な存在なのだと思う。
ほんの少しだけ、いいなぁ、と思う。
ほんの少しだけだけれど。
たしかに、淋しいと思ったりした。
テオもグレミオもクレオもパーンもいたけれど、そう思うのは家族に対して悪いと思いながらも、やはり仲よさげな母子を見るとなんとなく寂しかった。
だけど、今は。
(ぼくには、ルックがいる。シーナがいる。淋しくなんか、ないよ)
作りたてのいちごジュースは、少し酸っぱかったけれど、包み込まれるような甘さがあった。
美味しくて嬉しくて、シーナと目を合わせて笑った。
ルックを見ると、ルックも大事そうにコップを傾けている。
アイリーンはルックの顔を覗き込んだ。
「どうかしら。ルックくんもおいしい?」
「………うん」
素直にルックが頷く。
きっと同じ気持ちを、感じている。
真っ先に飲み干したのは、レイ。
「おいしかった。ごちそうさまー」
綺麗に空になったコップを、アイリーンに手渡す。
「ありがとう。また作るわね」
「うん!」
と、レイはアイリーンの耳に目を留めた。
星の形の小さなピアス。
光を反射してきらりと光ったのが、金色の髪によく似合っていた。
「…レイくん?」
「耳の…きれいだね」
「あぁ、これ?」
さらりと髪をかき上げて見せてくれながら、アイリーンはくすりと笑った。
「これはね、シーナのお父さんにもらったのよ」
「そうなんだぁ」
「ええ。大好きな人からもらったの。だから、とても気に入ってるわ」
そうして、そっと小さな声で、続ける。
「レイくんにも、わかるでしょう?」
目を見開いて。
くすぐったそうに、レイは笑う。
「……うんっ!」