December 9th, 2003
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空が高い。
つい先日までのあの真っ青な色から、日ごとに薄くなっていくように感じる。
青い絵の具を水で薄めたような空に、綿を広げたような雲。
柔らかなコントラストのマーブル模様。
実際は空の高さは変わらないと思う。
ここが空だ、という板が張られているわけでもないし。
けれど、その色はなぜか高さを感じさせる。
そして同時に、ひんやりとした空気を胸に吸い込んだ感覚を思い出す。
冷たさに胸の中が真っ白になる感じ。
寒いのは得意ではないが、ぴんと冷えた空気で胸を満たすのは好きだった。
でも。
でも、と思う。
(やっぱり、あったかい方が嬉しいなぁ……)
ぼんやりと窓の桟に肘をついて外を眺めながら、わずかに目を細める。
ガラスをはめた広い窓、その端の方が微かに白い。
それで外の寒さを知る。
きっと枯れ葉のにおいをした、刺すような風が吹いているのだろう。
だがそれは、「外」だから。
今自分がいる「中」は、隔てているのがガラス1枚とはいえ、違う世界だ。
だってここは、こんなに暖かい。
香ばしい香りのする室内は会話もないけれど、間違いなく満たされていると感じる。
そう感じられることが、嬉しかった。
シーナはしばらく見ていた窓の外から、視線を部屋の中に移した。
木目調の家具で統一された、落ち着いた雰囲気。
どちらかといえば「落ち着き」だなんてものとは無縁だと思われてきただろうし、自分でもその自覚はあった。
丸く収まって落ち着いてしまっているよりは、弾けてどこへなりとも飛び回っていた方が楽しい。
あちこちふらふら遊学の名の下に遊び回っていた時はそう思っていた。
今だって楽しいことは大好きだし、あっちだこっちだとふらつくのも嫌いではない。
根無し草のように見て回る世界は、その視点でしか見えないものもあった。
なにより、「ああ、あの家のご子息」という視線がないのがよかった。
別にそれを気にするような性格ではないけれど、自分を見る目が全てそのフィルターを通しているのはやはり不自由な気がしたし。
結局、縛られるのが嫌いなのだ。
そういいながらも、今の状況は十分「縛られている」。
本来ならばとうの昔に逃げ出しているところだ。
比較的順応性が高いとはいえ、いきなりこんな世界に投げ込まれて息が詰まらないはずはない。
それなのにここにいるわけは……ただひとつ。
この閉ざされた、静かな空間にいるのが、自分だけではないから。
それは別に、自分以外にも犠牲者が居ることで安心しているというわけではない。
そこにいたのが、大切なひとだったからだ。
一緒にいたいと思った、それがこんな形にしろ、今叶っている。
どんなに大変な状況に追い込まれても、それだけで何とかなると思えてしまう。
長く息を吐く……それは諦めの「溜め息」というのだと思っていた。
こんな穏やかな気持ちの時にも、吐息は長く余韻を持つのだと、初めて知った。
同じように「落ち着き」、といっても意味はひとつではない。
冷静に心を波立たせないのも「落ち着く」というのだろうし、なにかがぴたりと合致するのも「落ち着く」という。
だからたぶん、こんなふうに胸の奥からこみ上げてくるものがあっても、この空気に自分がいる穏やかな調和は「落ち着き」というのだろう。
もう一度、息を吐いた。
とても静かだ。
静かだけれど、音がないわけではない。
時々キッチンから聞こえてくる金属の音、水の音。
かたかたと鳴る窓ガラス。
その中で、床に座り込んで一心不乱に考え込む背中。
なんだかふいに嬉しさが頂点を超えた。
前触れもなく急にテンションがぐっとあがることは珍しくない。
ちょうど今、その波が訪れたらしい。
こみ上げてくる無意味な嬉しさに、思わずシーナは座り込む背中に覆い被さった。
「…レーイっvv」
テンションの高さそのままに、いくつもハートマークを付けて。
「わっ。なんだよ、急に」
持っていた小さな欠片を落としそうになったレイがわずかに不機嫌な声を上げる。
けれどシーナは、とたんにふわりと香った甘い香りにますますテンションを上昇させた。
「ん? べっつにー。レイにくっつきたくなったから。それだけー」
「はあ? なんだそれ」
「あー、和むわー」
「…ったく。重いよ、馬鹿シーナ」
ぎゅっと抱きしめると、腕の中で笑う気配。
これはテンションをあげるなと言われてもかなり難しいかもしれない。
ますますなついてくるシーナに仕方なさそうに小さく息を吐き、レイは持っていた欠片を床に置いた穴だらけの絵にはめ込んだ。
肩越しに覗き込むと、それはどうやら古びた街の風景画のようだが。
「レイ? それって……パズル?」
「うん、ジグソーパズル。ファンの子が送ってくれたのを見つけてさ。やったことある?」
「ない。聞いたことはあるけど。ふーん、これがそうか」
「簡単そうに見えても、これが結構難しかったりするんだ。ほら、こことここ…色が似てるだろ? でもこっちはほんの少しカーブがかかってて、茶色が濃い」
言って、レイはまたひとつピースをはめた。
たしかに、ひとつひとつ形や絵を当てはめていく根気のいる作業は、レイに似合っている。
シーナはそのレイの横顔をじっとみつめた。
次のピースをじっと吟味して、ひとつを取る。
それをはめる、何度も繰り返される動作。
穏やかに笑っている顔とも、戦いの中で見せた厳しい顔とも違う。
眉をひそめて考え込む、真面目だけれどどこか幼い顔。
こんな間近で見る事なんて滅多にないから、今更ながらにドキドキしてしまう。
これじゃ13、4の子供の反応だよな、と自分で思いながらも、なぜだか嬉しい。
改めて己の単純さを実感するシーナだ。
(あー……休みって、いいよな…ほんと、いいよな……)
しみじみとその感動をかみしめる。
忙しくスケジュールのたっぷり詰まった日々を過ごしていた3人に、それは突然降ってわいた休暇の報せ。
ナナミが笑いながら、「明日から3日間、お休みだから!」と告げたのだ。
レイとルックは(もう何度も騙されているから)怪訝そうな顔をしていたけれど、シーナとしては素直に嬉しかった。
だって、休みといえど『トップアイドル』である自分たちは表に出るわけにもいかない。
ということは、部屋の中にいざるを得ない。
3人だけでいられる時間ができる、ということだ。
もちろんふたりがそれぞれ持っている私室に籠もってしまえば仕方がないが……。
しかし、こうして共有スペースにいてくれる。
決して自分といることは嫌ではないと言ってくれているようで。
「……何をじゃれてんのさ」
呆れた声。
見上げると、エプロン姿のルックが皿を持って立っている。
「んー? 仲良しだからっ」
「別に仲良くなんかないけどね。ただこいつがなついてくるだけ。ねぇ、どうにかしてくれない?」
「どうにか、って言われてもね……。僕も手を焼いてるわけだし」
肩をすくめて、テーブルに皿を置く。
ふわりと、香ばしさが強くなった。
レイが顔を上げて、ことりと首を傾げる。
「なに? 何を焼いたの?」
「あぁ……」
ルックは、ふたりにだけわかるわずかな笑顔を浮かべた。
「今日は、ちょうど手に入ったから…フェンネルシードのスコーンを焼いたんだ。初めてだから、美味しいかどうかわからないけどね」
シーナの嬉しいこと、その2。
休みで何もすることがなくなると、ルックはよくキッチンに立つようになった。
以前レックナートとふたりでいる時には家事を散々やらされてどうの、と愚痴をこぼしたルック。
面倒だとか嫌いだとかぶつぶつ言っていたが……。
こんなふうに3人でいるようになって、進んで家事をこなすということは、そんなに嫌いでもないのかもしれない。
それが、自分たちのためなのではないかと考えれば、よけいに嬉しい。
ただ癖になっているからというわけではなく、そうであってくれればいいと本当に思う。
ルックの料理は、いつも優しい味がした。
たぶんそれは、他の人には見せないルックの真の姿だ。
冷たく突き放すような態度を取ったりもするけれど、心の奥底でこんなに優しい素顔。
ルックは、レックナートを除けば、シーナとレイ以外に料理を出したことがない。
贅沢だと思うと同時にもったいないと思い、そして独占できることに満足する。
誰も知らないルックを、自分たちだけが知っている密かな独占欲。
本人がそれを知ったらどう思うかはわからないから、胸の中だけにとどめることにした。
それが胸の奥で、ほかほかと暖かい。
「食べる?」
「うん! …シーナ、それじゃ立てないんだけど」
「鍛錬だよ、鍛錬」
「ふーん。飛ばすよ? あぁ、そっか、ルックのスコーン、いらないんだ」
「えええええ。食べる、食べますっ」
「なら、素直に立てよ」
溜め息混じりに文句を言うレイ。
けれど、その横顔は笑っている。
「……じゃあ、飲み物を入れるよ。何がいい?」
「今日は何がおすすめ? 色々入ったんでしょ?」
「そうだね。ピーチティにでもしようか」
「お。新しいね。それにしよう」
「オレも〜」