〜Deir Paidir〜

第3章 残影(ゆめ)

February 8th, 2001

★ ★ ★




 いつもより、草を踏み分ける音がうるさい。
 慎重な気配はいつも以上だが、絶対的な数の多さがあった。
「……もっと静かに歩けよ」
「歩いてるだろーが。お前ちょっと口うるさくなったんじゃないか」
 ぼそぼそと話す声も、夜の静寂(しじま)は必要以上にそれを響かせる。
 それを悟っているのか、黙りこくった気配は辺りをうかがうように。
 灯りもなく暗い森を歩くのは、慣れない2人には骨が折れるらしい。
 ひとりが先行して歩くのを追う2人は、めったに入らない森に足を取られないようにしているせいか、少し遅れがちだ。
 そして先に行くひとりがたまに振り返りながら一歩一歩進んでいく。


「……言っとくけど」
 しばらく進んで、家々の明かりが見えなくなった頃に、前を歩いていたひとりが呟くように言った。
「他の奴らには、例え誰だろーが喋るなよ」
 後ろの二人は心外そうな顔をする。
「喋るわけないだろ。親友との約束だからな」
「右に同じく」
「……親友? なのか?」
「知らなかったのか? ずっと親友だったんだぜ」
 初耳だったよ、と軽口を叩いて。
 本当は戸惑っていたのだけれど。
 前を行くひとりは……ティルは、正直混乱しそうだった。
 色んなことがいっぺんに起こりすぎていたから。
 ディアドラに会ってからだ。
 今まで自分を囲んでいたすべてのことが一変して好転した。
 いや、それに気付かなかっただけなのだろうか。
 だとしても、ディアドラが気付かせてくれたのだ……。
 暖かい気持ち。
 いつか、ティルの中ですべての戸惑いが消えたとき、ティルはこの『友』を信じられるのかもしれない。
 それとももう信じていたのか?
 こうして、ひとりでしか辿ることを許さなかった、自分だけの道に伴っているということは。
「彼女のことは……口外するなよ」
「だーから、そんな心配しなくても大丈夫だって」
「さっきのは、この場所のことだよ。今のは……彼女のこと。本当に、まだ……」
 いまさら迷っていた。
 ディアドラの髪、瞳……今まで彼らがティル以外に目にしたことのない、金髪の子供だ。
 下手をすれば、ディアドラがどんな目に遭うか……。
「ティル。俺たちは『お前が惚れてる子』に会いに行くんだよ。友達の大切な子を悪い立場に追いやるわけがないだろ」
 本当に簡単なことのようにフィンが言った。隣ではアリルがうんうんと頷いている。
 泉までは、もういくらの距離もない。






 神聖な空気が漂う。
 それは砂漠の中の大きなオアシスが生み出す生命(いのち)の気配。
 わずかな灯りを余すところなく受けとめ、反射させて輝く鮮やかな水面。
 銀色に輝くのは、風が作った小さな波。
 景色に音がないのは、あまりに澄んだ空気に音は閉じ込められてしまったから。
 広がる空間は閉鎖された、開かれた、そのどちらにも当てはまる。
 両面の姿。
 けれどそれは裏と表だから。
 まったく別のものではない。
 その表裏一体は、本当の景色と、水面に映る景色。
 その両方が真実の色。
 偽りはない。
 この景色の中には、そう。
 嘘なんてひとつも。
 星々はやけに幾何学な形で並んで、いやに作為的に見えるけれども。
 それはただの錯覚。
 本当は距離も並び方もバラバラの。
 ……いいや、本当は誰も知らない意味を秘めていることに気付かれていないだけ。
 星々の本当の並びに気付いていないだけ。
 人の作り上げた逸話よりももっと深いもの。
 永遠のおとぎ話。
 ただ星だけが知っている。
 怖いくらいに静かで、清らかな景色……。


「……マジで?」
 ようやっとアリルが呟いた。
 フィンにはまだ言葉はない。
 この景色を前にして、言葉があろうはずはないから。
 呆然とする二人をその場に置き去りにして、ティルは茂みから駆け出た。
 もちろん、見つけたからだ。
 その夜の静謐(せいひつ)な光景よりももっと綺麗な……鮮やかな黄金(きん)色を。
「ディアドラ!」
 泉のほとり。
 俯(うつむ)くようにいたその人は、ふわりと髪をなびかせて振り向いた。
 水面に映った影が、同じように振り向いて、揺らぐ。
「ティル!」
 振り向いた瞬間の、笑顔。
 ティルの心は、例えようもない感情に満たされる。
「……なにぃ?」
 ぽつんとアリルが言う。
 再びフィンにセリフはない。
 その言葉で、ティルは友人2人を伴っていたことを思い出した。
 ディアドラの姿を見つけた瞬間、側に誰かがいることなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
「あぁ、お友達を連れてきてくれたのね?」
「うん。言葉に甘えちゃったよ」
 わずかに笑んで、ティルが言う。
 ディアドラはそれに微笑みを返した。
 2人でほんわかと雰囲気を作ってしまっているところに、フィンを引っ張ったアリルがざかざかと草を踏み分けて茂みから出てきた。
「っつーか、マジか!? こんな美少女が、ティル、お前の彼女なのかよーっ!」
 アリルの言葉にティルは目を瞠(みは)った。
「……っ、か、彼女って……いや、別に、そういうことじゃっ……」
 動揺してすっかりどもるティルである。
 そんなティルにアリルは目を細めて、
「ふーん。彼氏はこう言ってますけど。彼女はどうです?」
 そんなふうに言う。
 言われたディアドラは、びっくりしたようにティルを見て、頬を真っ赤に染めた。
「え……っ。あの……私……」
 頬を押さえて俯いてしまったディアドラを、フィンは溜め息の混じった息を吐いて見つめていた。
 アリルの方も、ディアドラをじっと見ている。
 2人の視線を一身に受け、余計にディアドラは頬を紅潮させた。
「っつーか、お前ら! 何勝手にじろじろ見てるんだよっ!」
「だって、お前……。彼女、ものすごい綺麗じゃんかよ。こんな綺麗な子初めて見たぜ、オレ」
「俺もだ……」
 女の子にもてるがゆえにいつも女の子たちに囲まれていて、見慣れている(……)はずのフィンさえもがそう言ったときには、さすがにティルもぎくりとした。
(やっぱこいつらを連れてきたのはマズかったかもしれない……)
 女の子の扱いになれているフィンに、常時彼女募集中のアリル。
 2人とディアドラの間に立ちながら、ティルは深く息をついた。
 が、
「そんなことより、ティル。紹介しろよ!」
 アリルにつっこまれて、我にかえる。
「あ……えと、彼女が、ディアドラ……。それで、こっちがアリルで、隣にいるのがフィンだ」
「初めまして」
「よろしく」
「いつもティルがお世話になってます」
 ティルの紹介に、ディアドラがぺこりと頭を下げた。
 つられて2人もお辞儀をする。


 そしてティルは複雑な気分だ。
 まったく、最近は今までに感じたことのない感情をやたらと覚える。
 新鮮で楽しいけれども、同じくらいに気が休まらない。           
 いや、それでは言葉が悪い。
 ……心が澱(よど)まないですむ。
 だって、いつもなら同じ疑問を、同じ責め言葉を、自分に投げかけていた。
 そこで心は迷宮の中に迷い、循環もせずにただ汚れていくのを、仕方ないと思っていた。
 澱んでどろどろと腐っていく思いは、自分をすべて否定していく。
 ずっとそうだったから。
 そういうものなのだと納得していた。
 でも、今は……。


「へえ。このまちにもそんな歴史があったんだ」
「ええ。負けてしまった歴史だもの。歴史書がもみ消しても不思議はないわ」
「面白いな。もっと聞いてもいいかな」
「私がわかることなら」
 4人で泉の側に座り込み、ずっと喋っていた。
 そこで安心する自分の心に、ティルは気付いている。
 そうして、それに永遠を願う自分にも。
 永遠なんて時間(とき)がないことは知っている。
 それでも望んでしまうのだ。
 共に在(あ)ることを。
 同じ時間軸に在(あ)ることを。
 この優しい、穏やかな時間が、永久(とこしえ)に……。
 それが叶わぬ願いだと知っていながら、それを願う。
 その甘い罠に、捕らわれてしまった。
 罠にはまった、その罪は何をティルに科すのだろうか。






「やっぱ、綺麗だよな」
 しばらく話していたあとで、アリルが何気なく言った。
「何が?」
 ティルが問うと、アリルはティルとディアドラを見比べる。
「金色の髪って」
 一瞬ティルが険しい顔になる。
 が、アリルは決して乱れないマイペースぶりで、
「前々から綺麗だとは思ってたんだけどな。2人見てると思うよ。なんかみんなしてやたらといちゃいけないように言うけどさ。何がそんなにいけねぇんだよ。オレにはちっともわかんねえ」
「俺もそう思う」
 フィンがいつもの真面目な表情をした。
「ただちょっと人と見た目が違うだけだよ。それだって、俺は別にどうだっていいことだと思うし。だから、それを負い目にすることはない。お前はものすごくいい奴じゃないか。ただ髪が金色だっていうだけで、そんなことは気にすることはないんだよ」
「アリル……フィン」
 何を言われたのかわからない、というようにティルがふと視線をそらせた。
 けれどその先でディアドラが笑っていた。
「ティルの瞳の色ってとても素敵よ。ふふふ、だから言ったでしょう? 大丈夫だって。……私が言える事じゃないかもしれないけれど」
 困る。
 いきなりそんなことを言われても。
 精一杯虚勢を張っていたものが、崩れてしまうじゃないか。
 まちのすべての人間から向けられる拒否の言葉から身を守る、最後の扉。
 頼ってしまう。
 弱くなってしまう。
 それが、怖かった。
 けれど本当は……。
「……ごめん、オレ……。なんて言ったらいいかわからない」
 ティルが呟(つぶや)く。
 静かな景色。
 アリルがぽん、とティルの肩を叩いた。
 フィンが笑って頷いた。
 そしてディアドラは、深い深い瞳の色でティルの目を覗き込んで、微笑んだ。






 楽しい時間は早く過ぎるものなのだと、一番初めに気が付いた人は誰だったのだろう。
 まったくその通りなのだとティルは実感した。
 それも、まだ夜が明けないうちに帰らないと、家族が不審に思う。
 本当はそれだけではないのだけれど。
 ディアドラが泉に帰る瞬間、それは見せてはいけない気がしていたからだ。
 ディアドラの呪いのことは2人も納得したようだったが、やはり心のどこかで恐怖を感じていたから。
 ……秘密をすべて暴いたら、消えてしまうような気がして。
 今、ディアドラが消えてしまったら、たぶんティル自身も消えてしまうだろう。
 ディアドラの表情や仕草のひとつひとつ……そんな何気ないものがすべてかけがえのない宝物のように思える。
 ディアドラの存在は、少しずつ……でも確実にティルを解(ほぐ)していた。
 夜が明けないうちに、とアリルとフィルを先に森に向かわせ、ティルは見送りに立ったディアドラの側に歩み寄った。
「ディアドラ……」
「? なあに、ティル」
 一度唇を強く噛んで、ティルはもう一度口を開く。
 自分という人間を少しだけ明かすために。
「ディアドラは罪もないのに、この水牢に閉じ込められてたんだよな。……でも。本当は、オレの方こそがこの水牢に相応(ふさわ)しかったんだ」
「え……?」
「ディアドラにはなんの罪もない。だけど、オレは。『許されざる大罪』を犯した罪人(つみびと)なんだ。だから、オレは……髪や瞳の色だけじゃないんだ。それだけじゃないんだ……」
 ティルが少し自嘲気味に笑った。
 けれど、ディアドラは気付いていた。
 それが、ティルの心が開かれはじめている証拠だということに。
 ただティルは、誰かに許しを請(こ)いたいだけなのだ。
 そうして、悲鳴をあげ続けるその心を癒されたいだけなのだ。
 それは決して、弱音じゃなくて。
 誰もがそうして生きているのを、不器用なティルは出来なかっただけ……。
 泣きそうになるくらい胸を締め付けられて、それでもディアドラは微笑んだ。
「……大丈夫よ。あなたがそうやって苦しんでいることが、もうそれで償いなんですもの。どうあがいたって罪は消えるものではないわ。だとしたら、あとはもうそれが二度と起きないようにすること。それだけよ」
 同じ色の瞳が、夜の光の中で交錯する。
「大切なのは……ティルがずっとティルのままでいることだわ」
「ディアドラ……」
 どうしてディアドラはこんなに綺麗なんだろう。
 ティルが引きずってきた足枷(あしかせ)を、そっと、優しく外してくれる。
 そして、「ここにいてもいいよ」と、ティルの存在に意味をくれる。
 きっと、彼女は自分自身の『存在意義(レゾン・デートル)』を問うことの悲しさを知っているに違いない。
 ティルと同じように。


 ……そう。
 ディアドラは海。
 広く、深く、穏やかで透きとおった海。
 生命(いのち)を育む、母のあたたかさ……。
(あれ……『海』? 『海』ってなんだ? 初めて聞く言葉なのに。オレは……どうしてそんな言葉を『覚えて』いるんだ……?)
 魂が囁く。
 遥か昔の思い出。
 暗い、でも温かい水の中。
 生まれる前の感覚。
 あれが海?
 そしてその前の……。






 ずーっと昔に、誰もがいた世界。
 水の楽園。
 永遠の、理想郷…………



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