January 25th, 2001
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3
今日はフィンとアリルを誘おう、と思って待ち合わせたティルである。
このごろ毎日のように2人に会っているような気もするが。
しかし、以前だったら鬱陶(うっとう)しかっただけの彼らに、こんなに毎日会ってもちっともいやだとは思わない。
それがとても不思議だった。
そしていつもなら遅れていくティルが、このごろはずいぶんと早めに家を出ることが多い。
今日も、待ち合わせにはずいぶん早い時間に出てしまった。
まちはもうすっかり落ち着きを取り戻し、またゆったりと時間を刻む。
あの祭りの時の喧噪が消えたまちは寂しさすら感じさせた。
手押し車を押す子供たちの楽しそうな声に目をやりながら大通りを歩いていく。
すると。
ポロロ……ン。
聞いたことのある音が響いてきた。
驚いて、ティルはそれが聞こえてきた細い道を覗き込む。
そこには、赤いサテンの布……。
「あ、あんた……」
思わずティルは声をあげた。
そう、そのサテンの布の上にいたのはあの吟遊詩人の青年だったのだ。
だって、彼はキャラバンについて各地を回っている吟遊詩人だったはずだ。
だから祭りが終わってキャラバンたちがいずこともなく散っていったときに一緒に消えたものだと思っていた。
それが何故?
「ああ。また会いましたね」
青年はティルに気が付くと、そういってにこりと笑った。
ティルは、その細い道に入った。
そこは道というよりも家々の隙間のようで、どうにも商売をしているようではない。
「キャラバンたちももう次のまち目指して出発したってのに。まだいるんだな」
「ええ。このまちが気に入ったので。もう少しいることにしたんですよ」
ティルはわずかに目を細める。
「……気に入ったのか? このまちが。何にもない、こんなつまらないまちが?」
けれど青年は、それを聞いても笑っていた。
そしてティルにこう言ったのだ。
「きみは、このまちが嫌いなんですか?」
その問いに、ティルははっとして少し考え込む。
それは、このところティルが思っていたことだったから。
「……そうだな。捨ててもいいと思ってる……いや、思ってた……」
迷い迷いして答えた言葉に、ティル自身が驚いた。
いつか必ずこのまちを出ようと、そう思っていた。
そしてそう思うことが自分を正当化する理由のひとつになっていた。
つまりその意思自身が、ティルのすべてだったはずなのに。
青年は首を傾げながら、
「大切なものが、見つかったんですね」
「オレは」
戸惑いをいっぱいに含んだ声で、ティルは言葉を繋(つな)ぐ。
いや、青年に語りかけているというよりも、何か自分に言い聞かせるような。
「……もしかしたら。オレがこのまちから出ていけなかったのは……出ていけなかったんじゃなくて、出ていきたくなかったから。そうだったからなのかもしれない……」
ティルの言葉はそれでもまだ迷っていて。
青年が、手招きをする。
どうやら隣に座れということらしい。
ティルはほんの少しだけ逡巡(しゅんじゅん)して、そうして招かれるままに青年の隣に座り込んだ。
青年は黙って、傍(かたわ)らに置いてあったティーポットから湯気の立つ液体をコップに流し込む。
ふうっと香る甘やかな香りは、柔らかいフルーツの香り。
「どうぞ。私のふるさとのお茶です」
「あ……ありがとう」
受け取ったコップの中には、深い深い赤の色をした透明の液体が注がれている。
口に含んだ瞬間の、とても甘い香り。
味わったときのかすかな酸味。
何の茶なのだろう。
どこかで嗅いだことのある香りだ。
そう……このまちでは小さな花しか咲かないが、時折キャラバンたちが運んでくる大きな、色鮮やかな花々。
あの中に、これによく似た香りがあった。
「いかがです?」
「……美味しい」
でしょう、と青年は自慢げに笑った。
「これ、何のお茶だと思いますか」
「……花びらの、香りがする。何だろう、覚えてないんだけど」
「これでしょう」
そういって青年が差し出した、その手のひらの上。
淡い褐色をした薄い石が幾重にも重なり合って、まるで一輪の花のよう。
「これって……砂漠のバラ(サンド・ローズ)?」
「ええ。これはかつてあったオアシスの水が干上がるとき、その水の成分が凝縮され、残って結晶になったものです。砂漠の花はすぐに枯れてしまいますが……このバラだけは決して枯れることはありません。永遠に美しいまま咲いているんです」
青年の瞳が、ふいに真摯(しんし)な色を帯びる。
それが、いつか自分に語りかけた時に垣間見せた色だったことに気付いてティルは怪訝(けげん)に思った。
けれど彼は、またそれをはぐらかせる。
「……その砂漠のバラ(サンド・ローズ)の名の元となっているバラという名の花……その花びらで作ったお茶なんですよ」
だが今度こそ、ティルはその声のどこか真剣な響きを聞き逃さない。
ふと瞳をそらせた青年の瞳を追うように、ティルは青年の目を覗き込んだ。
「あんたも、何か言いたいことがあるんじゃないか?」
青年は驚いた顔をした。
でもすぐに笑みに戻ってしまうから、彼の真意は掴めない。
それでも、
「昔……『砂漠のバラ』と呼ばれた少女がいたんです」
「え?」
突然青年が語りだした話に、ティルは一瞬置いていかれかけた。
しかし青年がそこでいったん言葉を切ったので、何とかティルは青年の話についていく。
青年は、とても遠い場所を見ていた。
ティルにはとても届かないような。
「彼女は、誰にも優しく、強く、聡明で……私はいつも彼女がうらやましかった。誰からも愛される彼女は、まるで燦々(さんさん)と輝く太陽のようで。私は、その陰に隠れる影でした」
「それが、『砂漠のバラ』って子……?」
「そうです。この乾いた大地の上で、変わらず美しい少女でした」
その語り口調にティルはふと不思議に思った。
まるでそれでは、彼が愛されなかったとでもいうように。
「それで、その少女はどうしたんだ?」
「…………」
青年は目を伏せる。
「私がまだ幼い頃に、別れてしまいました。彼女がたったひとりの肉親だったのに」
ティルがはっとしたように青年を見ると、青年は苦く笑っていた。
「ええ。『砂漠のバラ』とは私の姉のことなんですよ。少し年は離れていましたが」
「姉さんだったのか。でも、陰に隠れていたって」
「姉がとても素晴らしい人でしたから。私は、いつでも姉の引き立て役だった。私が忌み嫌われて、余計に姉は光り輝いていました」
それでもね、青年はそう続ける。
「私は、姉のことが大好きでした。もちろん、今でも」
そういうものなんだろうか、とティルは思う。
少なくともその姉のせいで、青年は辛い思いをしていたはずなのに。
自分を犠牲にしても、大切に思うものがあると?
そう思ったティルの心が、青年にはわかったらしい。
「……今のきみになら、わかるんじゃないですか? 例え自分がどうなろうと、何かを思う気持ちが」
ティルは黙り込む。
そうなんだろうか?
自分の気持ちは、自分にだからこそわからないことも多くて。
だから、誰もが皆迷い込んで。
「人の気持ちなんてそんなものなのでしょうね。感情に理屈なんて要(い)らないんですよ。何を思おうとしなくても、大事なものに出会えば無条件で心は奪われてしまうんです。簡単なことでしょう。……そんな中でひとつだけ、変えようもない事実があります。その感情を抱いた、自分自身の心です」
目をそらすことの出来ない真実。
「素直な心で、自分を見つめてごらんなさい。きみが出したいと思っている答えは、意外と簡単なものですよ」
「オレの出したいと思ってる答え……?」
青年はティルの瞳をまっすぐに見つめて笑った。
「そう。いずれ必ず出さなければならない答えです」
そうして青年は、楽器の弦をかき鳴らした。
優しい音が響いていく。
その青年の隣で、ティルは花びらの紅茶に口を付ける。
その楽器の音しか聞こえない。
「……なんであんたの姉さんだけが愛されて……あんただけが忌み嫌われたんだ?」
青年は笑んだままの口調で答える。
「きみだけじゃないからです」
え? とティルは青年を見た。
弦を爪弾きながらティルを見ている、その瞳……!
よく見ると、薄い灰色の瞳、銀に近い髪の色。
「あんた……」
「何も金色だけが禁忌の色ではないのです。もっとくすんだ色があるんですよ」
愕然とした。
突然変異だから……だから青年は愛されず、その姉は愛されたのだと?
自分より10は年上に見える青年には、その色に負い目を感じている様子はない。
自分だけではない、という事実を突きつけられて、ティルはどうしたらいいかわからなかった。
それを逃げ道にしてきたことを暴かれた気がしたから。
ただ逃げ回っていただけの臆病者だと……。
ディアドラに会って、自分はいつの間にか髪を隠すのをやめていた。
それは正しい選択だったのだと、青年は語っているようだった。
もちろん、ディアドラの存在は誰にも知られてはいない。
けれど大切な人、ということからすれば青年と自分は同じだ。
たぶん、青年は姉の存在があったからこそ、その髪と瞳の色を抱えて生きてこれたのだろう。
ティルは息をついた。
なんだかとても楽になったような気がしたからだ。
そうして紅茶を飲み干す。
「なあ、あんた……あんたが前に言ってた、探していたものって……その姉さんだったのか?」
青年は、高く高く弦(いと)を鳴らす。
「いいえ。違います」
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