January 11th, 2001
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さほど広くもないまちである。
ティルの人柄が変わった、という噂はあっという間に広まった。
なにせ金髪碧眼(きんぱつへきがん)のティル、といえばまちで知らないものはいないからだ。
しかも誰が見たわけでもあるまいに、毎夜彼が森へ出かけているらしい、なんて尾ヒレもついている。
もっとも、事実無根だとも言えないのだが……。
その裏には、やはり、という人々の思いもあった。
しかし当のティルはといえば、まったく気にもとめない様子である。
以前のように髪や瞳を隠すこともない。
綺麗な金色の髪を風になびかせながら軽快に道を行くティルの姿は、確かに目を引くものではあった。
そして本人が堂々としているせいだろうか。
はじめは奇怪なものでも見るような目で興味津々にティルを見つめていた人々も、そのうちに慣れてしまって視線一つ寄越さないようになった。
その上、たまに声をかけてくる人まで現れだしたのである。
「よお、ティル! おはよう、今日は早いな」
「あ、おはようございます。コナハーさんは買い出しですか」
「まあな、東方の果物が今日入るってんでな」
だが、やはり長年の習性は抜こうと思って簡単に抜けるものでもなく、まだ他人に笑顔を浮かべられるほどにはティル自身が慣れていない。
それでも大した進歩だった。
表通りを右に曲がろうとしたとき、ティルは小走りに駆けてくる人影をみつけた。
エーディンだ。
「ティル!」
上気した頬はまったく普段のエーディンらしくない。
驚いたようにティルが立ち止まると、
「お出かけ? これから神殿に出かけるんだけど。一緒に行かない?」
以前より突っかかる感じがなくなったと思いながら、ティルは首を傾げる。
「んー……。ごめん、エーディン。フィンとアリルと約束してるんだ」
「そうなの? それじゃ仕方ないわね。じゃ、またね」
すました笑顔を浮かべ、エーディンはさっと踵を返した。
付き合いはしないものの返事をするようになっただけましだと思ったのだろう。
ティルはその背を見送りながら、なんだかくすぐったいような気がしていた。
自分では、そんなに大きな変化を果たしたつもりはない。
ただわずかに反応を返すようになっただけでこんなに世界が変わってしまうものだなんて思いもしていなかったから、なんだか変な気がするのである。
こんなに簡単なことだったのか、と妙に感心もした。
気に病んでいた自分がばかばかしいくらいだ。
待ち合わせは、いつもの古井戸だ。
どこからかパンを焼くいい匂いがする。
その香ばしい風を身に受けて、ティルは奥まった広場に抜けた。
「遅いぞ、ティル」
まず声をかけたのは、さすが時間にも厳しい優等生、フィンだ。
「だから、お前が早いんじゃねえのかっつー」
呆れた顔でぼやいたのがアリル。
ティルは2人がいるのをみつけて、頬だけで笑んだ。
「悪い。朝食の片付けで手間取ってたんだ」
「お前って相変わらずおさんどんが板についてんなー」
「悪かったな主婦じみてて」
「んにゃ。いいんじゃねえ? お前の旦那さん楽だろォな」
「誰がだ、誰が」
言葉の端に笑いを含ませて喋るティルに、アリルはさすがな無表情だが、フィンはあからさまに驚いているようだった。
「ほんとだったんだなー」
そうぼそりと呟くのをティルが聞きつけて、
「何が?」
聞き返す。
「いやさ、お前が変わったってみんなが言うから。俺はそうかな、と思ってたけど、よく見てればわかるって。なるほどね……」
「ていうか、フィン、本気で気付いてなかったんかよ」
「ああ」
まんざら冗談でもなさそうなフィンに、アリルは大仰に溜め息をついてみせた。
「実はフィンも天然ボケ入ってんじゃねえ?」
「そういうことじゃないってば。だから、俺は、ティルは昔からちゃんとそういうとこあると思ってたからさ。何を今更そんなこと言うんだろって思ったんだよ」
「ふむ。なるほどな。さもありなん」
本人そっちのけで話が進んでしまった。
唖然としながらティルは、
「なんだよ、それ。どういうことだ?」
「いやだから。そういうことだよ」
納得して2人はその一言で答えるのだが、ティルにはなんのことやらさっぱりわからない。
ティルは不審そうに2人を交互に見た。
けれどそれも、アリルがそうそう、なんて言って懐から出した果実のせいでうやむやになってしまった。
「じゃーん。どうだ」
「どうだ、ってなにそれ」
大人の拳一つ分はありそうなくらいの果実だ。
全体が赤い色で、短く茎のついた方はまだわずかに緑がかった黄色をしている。
「東方の果物だよ。今朝早くにまち渡りの行商人が来てさ。せっかく行き会ったもんだから店に卸(おろ)される前に手に入れてみようかなんて思ってな」
「ちゃんと買ったんだろうな」
「当たり前だろーが。オレはいたずらなら好きだが法に触れることはしねぇぞ」
言いながらアリルが手渡してくれた果実は、手に取るとずしりと重くて、微かに芳香がした。
「皮も食えるそーだ」
アリルは自分でもその果実を服で軽く拭うと、そのままかぶりついた。
フィンとティルもそれに倣(なら)う。
すると。
「……あ。ものすごく美味しい」
「本当だ。そんなに甘くなくて」
「だろ? 実はオレ前にも食ったことあってさ、それ以来ハマってんの」
一口噛んだとたんに果汁が溢れてくる。
甘酸っぱくて、しつこくない。
中の実は落ち着いた黄色で、皮の歯ごたえが柔らかな身ととても相性がいい。
「……へえ。こんな果物があるんだな」
「そーなんだよ。この町は果物少ねえからな。たまに入るもんは貴重品だぜ」
アリルは得意げだ。
ティルはふと考えて、
「これ、今日店に入るんだよな」
小さな声で言った。
そういえば、さっき知り合いの店の主人がそんなことを言っていたではないか。
それを聞いたアリルがはっとした顔で、ティルの顔を覗き込む。
「なんだよ、ティル。それってもしかして……あれ? お前が惚れちゃった彼女に持ってってやろうっての?」
「……っ。べ、別にそんなんじゃねぇよっ!」
咳き込んで、ティルがそう言い放つ。
するとフィンまでもが得たり、という顔で。
「ははーん。そういうことか。恋する彼女のためじゃね」
「だっ、だから、そういうことじゃなくってっ」
「あーあー、いい、いい。別に隠さなくったっていいんだよ。おめでたいことなんだから」
「フィンっっ!」
「恋は偉大だっつーけどな。昔の人はいいことを言ったもんだ」
「アリルもっっ!」
必死で反論したせいか、ティルはぜえぜえと息を荒らしている。
2人の友はそれを見て大笑いをしている。
(ったく、アリルまで笑うなよっ、珍しいことするなあっ!)
言いたかったが、呼吸が乱れてうまくいかなかった。
「ここまでお前を変えちゃう彼女に早く会ってみてえもんだな」
「だね。ティルとこんな風に話せて嬉しいから」
「ってわけだ、いつか紹介しろって約束、破るんじゃねえぞ」
必死で息を整えながら、仕方なくティルはこくこくと頷いた。
夜はいつも、甘い香りで2人を包む。
穏やかで暖かで、砂の中の世界だということを忘れさせてくれる。
泉のほとりで今夜も彼女は待っていた。
そしてティルの足音に振り返り、とても綺麗な笑顔でティルの名を呼ぶのだ。
心を解かす笑顔で。
「ディアドラ。だいぶ元気そうだね」
「ええ。ほんの少し気分が悪いけれど……でも、あんなに細いお月様を見たのは久し振りよ。だからとても嬉しいわ」
そう、ディアドラが泉の外へ出られるようになってからしばらくが経った。
そのためかだいぶ月が細い夜でも表に出てこられるようになっていた。
それでも呪いは解けたわけではなかったし、まだまだ時間がかかるだろうことはティルも覚悟していた。
けれど、望みはきっとある。
『月』は奇跡を起こすのだ。
あの吟遊詩人の言葉が今は真実に思えるから。
だから、次に月が満ちてこの泉の上に降りたとき、彼女の呪いが解けるように神様にお願いしてみよう。
このまちの神は生命の神……それならば彼女の呪いを解くくらいわけもないだろう。
そうしたら、きっと、願いは叶うはず。
この世に生きるすべての人がそれを拒んでも。
「……ティル? どうしたの?」
「え? なんでもないよ。……あぁ、そうだ。これを今日は持ってきたんだよ」
「なあに?」
ティルは持ってきた鞄の中から、そっと何かをとりだした。
「……まあ」
ふわ、と芳香があたりに立ちこめる。
ディアドラが笑った。
「それ……。懐かしいわ。昔よく父に買ってもらったの」
「本当?」
「ええ、大好きだったのよ」
それは、昼間アリルが持ってきたあの果実だった。
ティルはディアドラの笑顔が嬉しくて、器用に割った果実をディアドラに手渡した。
「わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう」
「ううん。いいんだ。ディアドラが笑ってくれたら、それで」
ディアドラは頬をそっと染め、熟れた果実を口に含んだ。
「おいしい。ふふふ、ティルは私の好きなものまでわかっちゃうのね」
今度はティルがかぁっと赤くなる。
わずかにディアドラが傾けた首に、さらりとかかる金色の髪が、とても眩しかった。
頬が熱くて仕方がなくなって、ティルはそうだ、と話題を変える。
「実は、オレの友達が……君に会ってみたいって。そう言うんだけど」
「ティルのお友達?」
「ああ。……けど、ダメだよな。うん、ダメだ。君を好奇心で見ようだなんて」
迷い迷いしながら言葉を紡ぐティルにディアドラがくすくすと忍び笑いを漏らす。
「どうして? 私はかまわないわ」
「でも! まだディアドラの呪いは解けてないんだから、下手に噂を立てられたら大変だろ」
「大丈夫よ。ティルのお友達なんでしょう? あなたのお友達なんだから、平気よ。私も会ってみたいわ。長いお付き合いなのよね?」
「……一応」
「それなら問題はないわ。だって、そんなに前からティルのいいところに気付いていた人たちなんですもの」
「オレの?」
その問いに、ディアドラはただ微笑(わら)った。
本当は、ティルもディアドラのすべてを知っているわけではない。
けれど、その天使のような微笑みに、何も言わなくても信じられるものを感じていた。
そして、それが真実であろうことを……。
というより、別に何も知らなくてもいいと……そう思えたから。
ただ、君がいてくれるだけで……。
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