〜Deir Paidir〜

第3章 残影(ゆめ)

January 1st, 2001

★ ★ ★




 それはいくつの昼を越えたところにあっただろう。
 いつもと同じ道を、いつもと同じように走っていた。


 行かずにはいられない。
 なぜだかわからない、何とも例えようのない嫌な予感がしていたから余計だった。
 鮮やかな色合いの緑の葉は、今は暗い色に沈んでいる。
 息を切らせて森を駆ける。
 ただ、他の誰でもない、彼女のことだけを思って。
 森の中にはそれ以外の音は存在しない。
 泉に辿り着いたティルの乱れた呼吸の音だけが森の沈黙を破っていた。
 そのほとりは、清らかな視界。
 月は宵闇に紛れ、幽(かそ)けき光をそっとその身に湛(たた)えていた。
 静まりかえった青い夜はまるで水底の景色のよう。


「なんでだよ……っ」
 誰に向けられたわけでもない言葉を呟いて、ティルはその場にへたり込んだ。
 その水面に映る姿……。
「どうして、オレなんだよ……っ!」
 金色の髪、青い瞳。
 だけど彼女ではない、自分。
 急に不安がティルを襲う。
 これは、もう二度と彼女に逢ってはならないということなのではないだろうか。
 彼女はやはり、触れてはならない人だった……?
 じわ、と心臓を握り潰されそうになる。
「……姿を、見せてくれよ……っ。約束しただろ? 君を護るって……」
 ぱしゃんっ。
 ティルの手が水を叩く。
 冷たい水がその指先から熱を奪う。
 ぞくりとして、手を引いた。
 滴(したた)り落ちた雫が土の上に丸い染みを作る。
 鈍い痺れが両手の指先まで一気に走った。
 多分それは水に奪われた熱でじゃない、寒気が駆け上がってくる。


 ……わかっていなかったといえば、それは嘘になるかもしれない。
 きっと自分は、それから必死に目をそらしていただけだと……。
 いつかそう気付いていて、それに気が付かないようにずっと目を閉じていた。
 水面に映った影なのだと……それが幻だと!
 知っていた。
 わかっていた。
 気付いていた。
 それでも、この胸に走る痛みは……っ。
 苦しみは!


 ずっとずっと、その鏡を見つめていた。
 だからどうなるものでもないとわかっていたのに。
 わかっている。
 諦めの言葉が、それでも浮かんでこない。
 魂が、消えてしまったよう……何も感じない。
(君を救いたいのに、逢いたいのに……もう……?)
 そんな言葉が幾度となく頭を駆け巡る。
 時間だけがただ刻々と過ぎて。


 ───と。
 とてもかすかな響き。
 誰かが、自分を呼んだ気がする。
 耳には聞こえない。
 そんな気がしただけだ。
 けれど、それは確かに自分の名前だったように思えた。
 だからそっと目を上げた。
 前にもこんなことがあった───そんなことを思いながら。


 見上げた先には、満ちきった月……。
 月は、丸く切り取られた黄金(きん)色の闇。
 空はそれに染められて、淡い月の色合い。
 優しく降り注ぐ月光……。
 暖かな、香り……。
 どこか甘く……。
 痛みを和らげる香り。
 知っているようで知らない、記憶の隅をかすって。
 包まれる。
 どこまでも。
 広がって。
 そして自然に、


 視線を、落とす……。


 その鏡の、自分の後ろに映る淡い影。
 月のあかりにぼんやりと輝いて。
 とくん……と、小さく心臓が鳴る。
 心の中がざわめいて、身体が熱くなる。
 耳鳴りが、する……。


 確かめるのが怖かったけれど……。
 震えを押さえつけて、振り返る……。
 そこ、には……。
 ティルは目を疑った。
 だって、水面に映った彼女……。


 まったく、変わらない姿が、あったのだから───。


 緩やかにウェーブを描く黄金(きん)の色の髪、それを束ねる薄い桃色のリボン、瞳の深い深い碧(あお)。
 いや、水の中に見たよりも、いっそう鮮やかに……。
 透明な、イメージで。


「……水の、中から……出て、来られたんだね……?」
 掠れて震える声。
「えぇ……」
 初めて耳に届いた声は、まるで鈴を振ったよう。
 心を震わせるゆるやかな響き。
 それを聞いただけで、どうして涙が溢れそうになるのだろう。
「私……ずっと待っていたの。私をこの泉から解放してくれる人を……」
 ふわり、と彼女は笑んだ。
「あなたが、強く祈ってくれたから……だから、私は外に出ることができたのよ。……ありがとう」
「あ、オレは、そんな……」
 なんの違和感もない。
 空気が、すうっと和んだ。
 暖かい……優しい微笑み。
 それが、ティルの中に築かれていた壁をゆっくり、それでも確実に外側から溶かしていく。
 高く澄んだその綺麗な声は、心を救う柔らかな光。
 彼女の前では、言葉なんていらないように思えた。
 どんな言葉で飾っても、嘘にしかならないだろうから。
 決して奇跡のようなこの真実は表せないだろうから。


「でも、どうして……水面にいたんだい?」
 ほんの少しの静寂のあとで、ティルが言った。
 彼女は辛そうに笑って、
「閉じこめられていたの。この泉は水牢なのよ」
「水牢?」
「そう。あれはどれくらい前のことになるのかしら……」
 わずかに首を傾げた肩に、その美しい髪がさらりとかかる。
「遥か遥か昔のことなのだけれど、この泉は水牢として人工的に作られたの。神に逆らった罪人(つみびと)たちが収容され、そこでは年を取ることもなく永遠に苦しみ続けるのよ……」
 ティルはその話を目を見張って聞いていた。
 彼女の話によると、彼女たちはその水牢を守りながら暮らしていたのだという。
 ところがある時、他のまちからの襲撃があった。
 いつものようにその敵を倒し、それでも歯向かう者は泉にまで引き寄せて封じていた。
 しかし、その時の敵は普段とは違ったのだ。
 彼らは、決して泉に封じることはできなかった。
 それどころか、応戦していた彼女たちの方が次々と封印されていったというのだ。
「……残ったまちの人たちで、何とかまちは再建できたわ。でも、私たち自身もこの水牢に封じられた人を解放する方法は知らなかったの。だから私も出られなくて」
 でもね。
 彼女は続ける。
「月の出ている夜には少しだけだけれど泉の呪いが弱まるみたいなの。だから私、月が浮かぶたびに湖面に姿を浮かべて呼んでいたわ。けれど誰も気付いてくれなくて……もう諦めようと思った……。そこに、あなたが来てくれたのよ」
 彼女は、空気の味を確かめるように大きく深呼吸をした。
 水の中の牢、というのは、どんなに苦しい場所なのだろう。
 罪人たちが永遠に苦しみ続けるという、その泉。
 彼女の明るく輝いた表情がそれを物語っているようで、……少し辛かった。


 と、彼女がにこりと笑ってティルを振り向いた。
「ねえ。あなたの名前……聞いてもいいかしら」
「え? あ、ああ、もちろん! オレの名前は、ティル。ティル・ルーグ」
 それを聞くと彼女は一瞬びっくりしたように目を開いた。
 けれどすぐに笑顔になって、
「私はディアドラ・ブリジット。よろしくね」
 ほんのりと彼女の……、ディアドラの頬が朱に染まる。
 心が、痛いくらいに熱い。
 胸の底から突き上げてくるようなこの感情はなんなのだろう。
 その正体は掴めないけれど、それがこんな泣きたくなるような衝動を生み出していることだけはわかった。
 自然に……本当になんの作為もなく、ティルは微笑んだ。


 不思議だな、とティルは思う。
 どうして自分は今まで、他人を遠ざけていたんだろう?
 だって、初めて出会ったはずのディアドラとこんなに自然に笑いあえるのに。
 それがどうして、自分をよく知る人と笑いあえないはずがあるだろう。
 そんなことに、今更気が付いた。
 もしかして。
 今の今まで、自分は逃げていたんじゃないだろうか。
 裏切られるのが怖くて。
 誹謗(ひぼう)されるのが怖くて。
 それじゃあ欲しいものだって何も手に入らない、傷つかないままで真実なんか見られやしない……そんなこと、わかっていたはずなのに。
 自分の犯した罪の影に怯えて。
 ……それから、不思議なことがまだあった。
(何故だろう? ディアドラの笑顔が……懐かしい?)
 どこかで見たような、気がする。
 知人を思い返してもディアドラに似た人物などいないのに。
 そして何より不思議なのは、ディアドラも同じことをティルに感じていたこと……それをティルは知る由もないのだけれど。


 ティルとディアドラ……2人の符号がどこかで一致した。


「けど、嬉しいよ。これからは君と……ディアドラといつでも逢えるんだから」
「そうね。私もよ」
 言ってから、ディアドラはふと顔を曇らせる。
「……いいえ、違うわ。まだ完全に呪いが解けたわけじゃないみたい。多分今までと同じよ……。月の出ていない晩には出てこられないし、この泉から離れることはできないと思うの……」
「そうか……そうだな、長い間かけられてた呪いなんだから、一度でなんて解けないよな」
「ごめんなさい……注文ばかりね。夜にしか出てこられないなんて……私、幽霊みたい」
 しゅん、と沈み込むディアドラの肩に、ティルはそっと手を置く。
 もうそんな顔は、させたくないから。
「そんなことはないよ。オレも協力する。2人で頑張ろうぜ。きっと2人で力を合わせれば、呪いなんて絶対に解けるから。だから、諦めないで。オレを信じろよ」
 瞳を覗き込んでくるティルの眼差しの真摯(しんし)さに、ディアドラは微笑んで答えた。
「……ええ!」
 その笑顔に……ティルは、翼を広げた天使を見たような気がした。



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