December 26th, 2000
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久し振りに表に出た。
いや表に出たのが久し振りだというよりも、昼間に表に出たのが久し振りだ。
買い物も最近はティルテュに任せきりで、昼の間はほとんどベッドの中にいるような生活だったせいだ。
逢いたい、話したい、護りたい───。
そんな思いに捕らわれて、何をする気も起きなかった。
それは陽光祭以来ずっとそうだったのだけれど。
ただ、あの半月の夜からというもの、微妙な違和感がつきまとっていた。
いつもと同じ場所にいても、いつもとは何かが違う。
時間が経っていくのが遅いような早いような、そんな説明のつかない不可解な気持ち。
瞼の裏に映るあの笑顔が消せないのは何故だろう。
いつもとは違うのは、それだけじゃない。
太陽がいつもより明るかったり、道端の花の色が鮮やかだったり、風の色が綺麗だったり、町並みが爽やかだったり、人が優しく見えたりもした。
何気ないはずのものが、全く違ったものに見える。
すべてが新鮮で、すべてが鮮やかで、すべてが心に響いてくる。
今までそんなことはなかったから、一体どうしてそんな風に見えるものが違ってくるのか、それがわからない。
そんな現象が信じがたくて、とりあえずお気に入りの指定席に向かってみることにした。
裏通りをさらに奥まで行ったところにある、例の古井戸だ。
そこに行くまでの道行きでも、見慣れた未知の景色に行き当たり、ティルは正直呆然としていた。
そして、その座り慣れた石レンガに腰を落ち着けようとした時。
「って、おい、ティル」
突然声をかけられて、鈍い反応でティルが振り返る。
そこにはいつの間にやらアリルがいる。
「……アリル? お前いつの間にそこにいたんだ?」
「ってなあ。オレはもうずいぶんと前からここにいんだけど。いうなりゃ先客ってやつだよ。さてはお前、オレの存在に気付いてなかったろ。まったく薄情な友達持つと苦労するぜ」
あ、ごめん……などとティルが驚いたように謝るものだから、アリルの方が驚いてしまう。
どうやら本当にアリルの存在に気がついていなかったらしい。
アリルは滅多に吐かない溜め息をついた。
「やれやれ……。なあ、ティル。お前最近変わったよな。何があったんだよ」
するとティルはふと真剣な眼差しになって、
「やっぱりオレ、何かおかしいかな」
「おかしいも何も……友達が隣にいることに気付かないもんかね、普通は。第一お前が表に出る時に頭そのまんまで来ること自体で変わったと思うぞ」
言われてみればその通りだ。
しかもティルは、そう言われて自分がいつもの頭布を巻いていないことに初めて気がついた。
アリルがいたのに気付かなかったのも、寝ていたわけでもなく(歩いていたくらいだから)ただぼんやりとしていただけだ。
ということは、よほど放心していたということなのだろう。
「なんの心境の変化だ?」
ティルは物思いに耽っているらしいことが多いから、他人がいることに気がつかない、というのは前々からたまにあった。
だからアリルにとってはティルが忌み嫌っている自分の髪を隠さずに人前に出ている、そっちの方が気になったのである。
「いや……心境の変化って、別に……。…………」
ふと何かを考えて、ティルがアリルを見た。
普段はぶっきらぼうで愛想が悪い彼の表情に、わずかに心配するような色が伺えた。
そのせいだろうか。
普段なら黙り込むところなのに、ティルの口から言葉がついて出た。
「……あのさ。すごく……護りたい子がいるんだ。だけど、その子のことはよく知らないし……あの子もオレのことは知らない。……なあ、オレは、どうしたらいいんだろう」
「え?」
───しーん。
沈黙が走る。
あのアリルが目を見開いてティルを凝視している。
つい固まってしまうアリルだが、ティルは真剣そのものの目をしていた。
だから、アリルは深呼吸をする。
「うーん……護りたい、ねえ……。つまりさ、ティル。それって、好きな子ができたってことだろ?」
「好き……? 誰が? 誰を?」
本気で聞き返すティルにマジかよ、などと心の中でつっこみを入れながら、何とかアリルは口に出すのを我慢して、続ける。
「……お前が、その子をだよ。惚れてんだろ? その子のことばっか考えるようになっちゃったりとか、その子のために何かしてやりてぇとか。護りたい、だなんてその極みだぜ」
ティルは黙るが構わず、
「お互いのこと知らねぇ? そんな細かいこと気にしてんじゃねえって。知らねえっつうなら、これから知ればいいことじゃねえか。だからな、まずはぶつかってみろよ。それが恋の第一歩だからな」
「恋……」
「そう。言っとくけど、別に突進しろとかそんなこと言ってんじゃねえぜ。要するに、当たって砕けろで告白しろってことだ。そんでOKならメデタシだし、駄目ならきっぱり諦める。あー……まあ、玉砕ばっかで成功例のないオレのセリフじゃ信用できねぇかもしんねえけどよ」
人は誰かに恋をして、そしてその残りの人生を共に歩むのだという。
そんなことは異端の自分にはまったく関係がないのだと思ってきたのに。
だが、告白?
どうやって?
水の中の彼女にどうすれば……?
でも……。
ティルが考え考えしながら頷く。
すると、アリルが普段通りの興味津々の楽しそうな顔(やはり表情には付き合いの長いティルやフィンくらいにしかわからないような変化しか表れないのだが)をした。
「で? 人付き合いの嫌いなお前が惚れちゃった子ってどんな子? 歳は? 背は? 可愛い子? オレの知ってる子?」
その問いに、わずかにティルは顔を曇らせる。
「……まだ、言えない……って言ったら、怒るか?」
泉の中の少女の顔を思い浮かべて、小さくティルが言った。
アリルは一つ息をつくと、
「いいや、そんなこたしねえよ。お前は自分の中で結果が出るまで他人にモノ言わねぇヤツだし。気にすんな」
「ごめん」
「だから気にすんなって。そのかわり、決着がついたら紹介しろよな」
アリルがポンポン、とティルの肩を叩いた。
……言える、わけがない。
彼女は泉の中。
水面に映る幻影。
触れたら壊れてしまうだろう虚像。
もしかしたら、ティル自身が作り出した画像(ヴィジョン)なのかもしれない。
そんなことを、言えるはずはない。
たとえ、ただ二人の友であろうとも。
……想いなんて、通じなくてもいい……それでも。
───話を聞いてあげたい。あの悲しい瞳に、笑顔を返してあげたい……!
この想いを、「恋」というのだろうか。
ならば。
祈れば届くのだろうか。
心の底から祈れば届くのだろうか。
あの水底の世界まで想いは届くのだろうか。
命すら賭(と)して祈れば、
君を救えるのだろうか───。
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