〜Deir Paidir〜

第2章 幻惑(であい)

December 26th, 2000

★ ★ ★




 夢遊病にでもかかったように、ティルは足を速める。
 そこにほとんど意志はなくて。
 無意識に、ただ、心が走るのに任せ、その鮮やかな水を目指す。
 通い慣れた森は、何度も何度もたどったせいで道のように草が分かれていた。
 やがてそれが人の知るところとなれば、ティルの行動は全て露見するだろう。
 だがそんなことはどうだっていい。


 いつもの場所にいつものように座り込んで、いつものように水面を覗き込んで。
 それが当たり前の日常と化してしまうほど、それは細胞の隅々にまで記憶されている。
 それを怖いと思う気持ちすら、麻痺してしまった。
 けれどもうそんなことにも気付かない。
 ……何もかもが。
 そう、何もかもが麻痺してしまった。
 抜け出せない迷路だ。
 鈍く淡い月の光。
 ここは、月の光で仕切られた巨(おお)きな迷路なのかもしれない。
 迷ったつもりはないのに、いつの間にか迷い込んで。


 時は、まだ夜半を過ぎたばかり。
 太陽を追った月は、それでも泉の上から姿を消そうとしている。
(今日も……時間切れってことか)
 泉の前に来ると余計に鈍くなる思考回路で、ようやくそれだけを思った。
 月が泉の上から消えてしまえば今目の前にいる『彼女』は消えてしまう。
 面伏せた『彼女』が背に負う月は真ん中からかち割られたような半分の月。
 その月は少しずつ、少しずつ、だが目に見えるくらいの速さでずれていく。


 湖面の月がその時、わずかに揺らいだ気がして……。
 ティルはそっと視線をあげた。
 そこには正反対の形に輝く青白い月が夜に灯火をともしている。
(祈る……)
 祈る?
 月に?
 どうやって?
 祈りの言葉なんて、知らない。
 何を祈っていいのか、本当はよくわからない。
 けれど、自然と心が澄んでいって……あふれるように言葉が胸の奥で渦を巻く。
 声にはできない、でも、心はそれを切望した。


 わ・た・し・を・み・て・く・だ・さ・い……そ・の・ひ・と・み・を……。


 深い深い藍の空に、思いは溶けて消えていく。
 星は静かにさざめきながら、ただ下界を見下ろしている。
 月は、何も答えない。
 ……答える、はずもないのに。
 それを願った自分にさして疑問も感じない。
 祈る瞳の奥に、音もなくその月は映り込んだ。
 ふわりと。
 かすかに、柔らかな香り。
 包み込むようなわずかなぬくもり。
 それにふと気を取られて、ティルはそっと、視線を落とした。


 その波紋一つない湖面に。
 …………!
 湖面に?
 その水面に?
 深い青色の鏡に?
 そこに映っているものは……!?


「…………っ!」
 心臓の音が響き渡って、水面に波を作った気がした。
 まるで締め付けられるような痛みを伴って、その臓器が跳ね上がる。
 見ている?
 自分を?
 『彼女』が、オレを、見ている……!?
 まさか、と目を疑う。
 けれど、ああ、そうだ……間違いはない。
 空よりも水よりも、今まで見たどんなものよりも澄んだ綺麗な瞳!
 それが確かにティルを見ている……。
「オ……レが……、オレが、見えるの……!?」
 掠れた声で、思わず問いかける。
 どうやら『彼女』はティルに何かを伝えたいらしい。
 必死にティルを見つめる瞳は、あまりにも真摯で……。
 今までは伏せていたからよく見えなかった。
 改めて真正面から見たその瞳の色は、柔らかく尊い、水の色。
 ……でも、悲しい色だ。


 護りたい。
 この子をどうしても、護りたい!
「君は……どうしてそんな所にいるの……? もしかして、出られないのか……?」
 ともすれば震えだしそうになる身体を押さえつけて、ティルが問う。
 水の中の『彼女』は、寂しそうに瞳だけで頷いた。
 いや、ティルにはそう見えた。
 ティルはその像(すがた)を壊さないようにそっと水の中に両手を浸して、告げる。
「きっと……オレがそこから出してあげる。君のことを、護るから……」
 『彼女』は……その時初めてわずかな笑顔を見せた。






 コンナ感情(キモチ)、知ラナイ……。
 ドンナ言葉デ ドンナ名前デ 呼ンダライイノカサエ ワカラナイ。
 コノ 締メ付ケラレルヨウナ 思イヲ……。
 ドウスレバイイ?



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