December 26th, 2000
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4
夢遊病にでもかかったように、ティルは足を速める。
そこにほとんど意志はなくて。
無意識に、ただ、心が走るのに任せ、その鮮やかな水を目指す。
通い慣れた森は、何度も何度もたどったせいで道のように草が分かれていた。
やがてそれが人の知るところとなれば、ティルの行動は全て露見するだろう。
だがそんなことはどうだっていい。
いつもの場所にいつものように座り込んで、いつものように水面を覗き込んで。
それが当たり前の日常と化してしまうほど、それは細胞の隅々にまで記憶されている。
それを怖いと思う気持ちすら、麻痺してしまった。
けれどもうそんなことにも気付かない。
……何もかもが。
そう、何もかもが麻痺してしまった。
抜け出せない迷路だ。
鈍く淡い月の光。
ここは、月の光で仕切られた巨(おお)きな迷路なのかもしれない。
迷ったつもりはないのに、いつの間にか迷い込んで。
時は、まだ夜半を過ぎたばかり。
太陽を追った月は、それでも泉の上から姿を消そうとしている。
(今日も……時間切れってことか)
泉の前に来ると余計に鈍くなる思考回路で、ようやくそれだけを思った。
月が泉の上から消えてしまえば今目の前にいる『彼女』は消えてしまう。
面伏せた『彼女』が背に負う月は真ん中からかち割られたような半分の月。
その月は少しずつ、少しずつ、だが目に見えるくらいの速さでずれていく。
湖面の月がその時、わずかに揺らいだ気がして……。
ティルはそっと視線をあげた。
そこには正反対の形に輝く青白い月が夜に灯火をともしている。
(祈る……)
祈る?
月に?
どうやって?
祈りの言葉なんて、知らない。
何を祈っていいのか、本当はよくわからない。
けれど、自然と心が澄んでいって……あふれるように言葉が胸の奥で渦を巻く。
声にはできない、でも、心はそれを切望した。
わ・た・し・を・み・て・く・だ・さ・い……そ・の・ひ・と・み・を……。
深い深い藍の空に、思いは溶けて消えていく。
星は静かにさざめきながら、ただ下界を見下ろしている。
月は、何も答えない。
……答える、はずもないのに。
それを願った自分にさして疑問も感じない。
祈る瞳の奥に、音もなくその月は映り込んだ。
ふわりと。
かすかに、柔らかな香り。
包み込むようなわずかなぬくもり。
それにふと気を取られて、ティルはそっと、視線を落とした。
その波紋一つない湖面に。
…………!
湖面に?
その水面に?
深い青色の鏡に?
そこに映っているものは……!?
「…………っ!」
心臓の音が響き渡って、水面に波を作った気がした。
まるで締め付けられるような痛みを伴って、その臓器が跳ね上がる。
見ている?
自分を?
『彼女』が、オレを、見ている……!?
まさか、と目を疑う。
けれど、ああ、そうだ……間違いはない。
空よりも水よりも、今まで見たどんなものよりも澄んだ綺麗な瞳!
それが確かにティルを見ている……。
「オ……レが……、オレが、見えるの……!?」
掠れた声で、思わず問いかける。
どうやら『彼女』はティルに何かを伝えたいらしい。
必死にティルを見つめる瞳は、あまりにも真摯で……。
今までは伏せていたからよく見えなかった。
改めて真正面から見たその瞳の色は、柔らかく尊い、水の色。
……でも、悲しい色だ。
護りたい。
この子をどうしても、護りたい!
「君は……どうしてそんな所にいるの……? もしかして、出られないのか……?」
ともすれば震えだしそうになる身体を押さえつけて、ティルが問う。
水の中の『彼女』は、寂しそうに瞳だけで頷いた。
いや、ティルにはそう見えた。
ティルはその像(すがた)を壊さないようにそっと水の中に両手を浸して、告げる。
「きっと……オレがそこから出してあげる。君のことを、護るから……」
『彼女』は……その時初めてわずかな笑顔を見せた。
コンナ感情(キモチ)、知ラナイ……。
ドンナ言葉デ ドンナ名前デ 呼ンダライイノカサエ ワカラナイ。
コノ 締メ付ケラレルヨウナ 思イヲ……。
ドウスレバイイ?
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