〜Deir Paidir〜

第2章 幻惑(であい)

December 11th, 2000

★ ★ ★




 心ここにあらず、とはこんな状態のことなのかもしれない。
「……ル。ティル、ティルったら!」
「……え」
「お鍋お鍋! 吹いてるわよ!!」
「え……あ、あああっ」
 すっかり吹きこぼれて白い泡を溢れさせている鍋に、ティルは慌てて差し水をした。
「あっつ……」
 それに触ってしまったのか、耳たぶを掴んでいる。
 そんな息子の様子にティルテュは溜め息をついた。
「ティルらしくないわね。普段はこんなことしないのに」
 かごを編むための籐(とう)をぬるま湯に浸しながら、ティルテュはそう言ってみた。
 ティルは苦笑いで振り返る。
「ごめん、ついぼーっとしてて」
 いつもなら病弱な自分のかわりにてきぱきと家事をこなすはずのティルなのだが、ここのところどうも様子がおかしいようだった。
 時折こんな風にぼんやりとしてはめったにしでかさないようなミスをするのだ。
 息子のことなら何でもわかってあげられなければならない母親でありながら、ティルテュにはティルの異変がわからない。
 それが淋しくもあったけれど。
(男の子って、こうやって母親から離れていくのかしら)
 そう思うと、ティルの成長が嬉しくもある。
 親の気持ちはいつでも複雑だ。
「かわりましょうか、ティル」
「あ、いいよ。大丈夫。もう少しで出来るから」
 男の子は年頃になると自然に母親から離れていくようになるのだという。
 男の子を持つ比較的仲のいい女性がそうぼやいていたのをティルテュは唐突に思い出した。
(そうよね、ティルだってもう17だもの。自分だけの世界を作り出す頃なんだわ)
 かえって遅いくらいだ。
 多分、ティルには自分がいたから……父親がいないかわりに、母を護らなければならなかった。
 それがとても申し訳なく思える。
(……私が、父親をこの子に与えてあげられなかったから)
 その時は、後悔しないと思った。
 別れが来ることは分かり切っていたはずなのにその人を選んだ、それは自分の責任だ。
 もちろんその人を選んだことに対しては後悔はない。
 けれど息子に対しては……。
 改めて鍋に向き直っているティルの背中を見ながら、ティルテュはもう一度溜め息をついた。


 その時表に通じる扉が、控えめに鳴った。
「すみません。ティルくんいますか」
 2人は同時に振り返る。
 フィンの声だ。
「どうぞ、入って」
 答えたのはティルテュだ。
 ティルはそれを聞いても、特に表情は変えなかった。
 そのかわり、以前のようにあからさまに嫌そうな顔もしない。
 がちゃりと扉が開いて、声の主が入ってくる。
「こんにちは。……ああ、ティル。これ、ディアン様から頼まれたんだ。ティルに渡してくれって」
 ティルの顔を見るなりフィンが差し出したのは、一冊の本だ。
 濃い紫色の粗布(あらぬの)できちんと製本されている。
「ディアン様から?」
「そう。ここんとこティルが神殿に顔出さないからって、ディアン様心配してたぞ」
「そんなに行ってなかったかな」
 本気でそう思っているらしい。
 だから余計に始末に負えないというか……。
「せっかくだから、ティル。あがってもらいなさいな。ねえフィンくん、ご飯食べていかない?」
 ティルテュが突然思いついたように言った。
「え? そんな、いいですよ、悪いですから」
「私たちふたりきりじゃ淋しいのよ。たまにはいいでしょう」
「……そうですか? それじゃ、お言葉に甘えちゃっていいですか?」
 フィンが母とそんな会話を交わしている間も、ティルは受け取った本に目を落として何事か考え込んでいる。
 だから、事の成り行きにはまったく気がつかなかったらしい。
「そういうわけだから、ティル。ちょっと俺寄ってくからね」
「え?」
 なんだかきみと会うのも久し振りだしね、などと言いながらさっさとティルの部屋のある2階へ階段を上り始めている。
 慌てて、
「ちょっ、オレ、まだ夕飯の支度の最中で……」
「いいのよ、ティル。あとは私がやるわ。これ以上ぼーっとされてケガでもしたら逆に大変だもの」
 いつもとは違う強引なフィンにつれられるティルに、ティルテュは笑いながらそう言った。
「ほら、ティル、早く」
「……なんか最近お前、アリルに似てきてないか……」
 ティルがそうぼやく。
 フィンはただ、優等生のする笑顔で笑った。






「そんなこんなでさ、もう会場は大騒ぎだよ」
「ふうん」
「エーディンは終始機嫌が悪いし。それにまたアリルがちょっかいを出すだろ?」
「ああ」
 2人はティルの部屋で、しばらく世間話レベルの話をした。
 とはいえ、窓の広い桟(さん)に腰をかけたフィンがほとんど一方的に喋っている感はあったが。
 それでも部屋に入れてくれるようになったのは進歩だった。
 窓の外は日も暮れかけ、家路を急ぐ人がちらほらと通りを歩いている。
 重ったるい薄闇がそっとその帳(とばり)を降ろそうとしていた。
 そうやってどのくらい喋っていたのだろう。
 さすがにフィンの方でも話題につまりかけている頃、やっとティルが相槌ではない声を上げた。
「……でさ。ディアン様、なんて?」
 やはり気になっていたようだ。
 枕元に投げ出されるようにして置かれている本にフィンが目をやる。
 それに倣(なら)ってティルがそれを見る。
 重厚な感じのする本だ。
 実際に持った感じもとても重かった。
「たまには神殿にも顔を出してくださいね、って。あと、イーヴたちも寂しがっていたようだからとも言ってた。それで、この本は」
 桟から降りて、フィンはそれを取った。
 優等生というイメージが最早しっくりとくるフィンには、本を持っている姿がとても似合っている。
 その本をぱらぱらとめくりながら、フィンは楽しげに目を輝かせる。
「このまちの歴史に関する本、だそうだよ。前に読んでみたいって言ってたんだって? ずっと修繕作業してたからこんなに遅くなったらしいよ」
「ああ、それか。確か3か月くらい前の話だけどな」
「本の補修って結構手間かかるみたいだもんな」
 フィンも読んだことのない本らしい。
 それに目を通しながら今度は俺が借りてみようかな、なんて呟いている。
「けどティルって最近勉強熱心だね。学芸舎ではさぼってばかりじゃないか」
「……ああいう押しつけがましいのは嫌いなんだよ。もともと、本を読むことは嫌いじゃないんだ」
 どこかすねたようなティルの口調に、思わずフィンは忍び笑いを漏らす。
 ティルはそれを聞きつけて、眉をひそめてそっぽを向いた。


 どうも誉められることは得意ではない。
 そんなニュアンスが含まれているだけで自然に拒否反応が出てしまう。
 照れているとか、そんなものではない。
 ただ、本当に苦手なのだ。
 まさか自分が誉められるような人間だとは思っていないから。
 だから、それを聞くとその裏にあるものを探りとろうとして神経が過敏になる。
 それがいやだった。


「でも、珍しいよな。ティルは神殿の常連だったんだろ。どうしてこの頃は行かなくなったんだい」
「…………」
 つい黙ってしまったのは、自分自身神殿へ出かけていないことに気付いていなかったからだ。
 それでさっきのフィンが来たときの言葉に驚いてしまったのだ。
「オレ、どのくらい行ってない?」
「1か月」
「……っ、1か月!?」
「厳密に言えば約3週間、かな」
 3週間……それでは、もう夏期休暇も半分を切った、ということか。
 神様が涼しさを保ってるとはいえ、夏の気温は勉強どころではなくなる。
 だから学芸舎は夏の2か月半は休暇になるのだが。
 夏期休暇中で助かった、とティルは思った。
 これがもし学芸舎の授業期間中だったら、今のティルならば授業があることすら忘れていただろう。
「その様子から察するに、本当に時間が経ったことに気付いてなかったんだね」
「……そういうことみたいだ」
 困ったようにティルは前髪を掻き上げる。
 金色の髪が指の隙間からこぼれ落ちて。
 はっとした。


 瞬間。
 頭の隅をかすめる映像。
 同調する景色。
 同じ色を持つ姿。
 あれから、自分の髪を見るたびに思い出していた。
 鏡に映る自分の瞳を見るたびに思い出していた。
 いや、思い出すまでもなかった。
 だって、どんな時でもその姿は心の奥にずっと残っていた。
 そう、あの時から……ああ、そうか。
「オレは陽光祭以来神殿に行ってないんだ」
 その独白を聞いたフィンが苦笑いして頷く。
「そうだよ。お前が何となくぼんやりしだしたのも陽光祭の時からだ」
 今度はフィンの言葉にはっとする番だった。
 思わず顔を見ると、フィンはいつもと変わらない。
「まあお前は何も言わないから、俺も何とも言い難いけど」
 だけど。
 フィンはそう繋げた。
「祈ってみたら?」
「祈るって、一体何に」
「月にだよ。あの吟遊詩人が言ってたじゃないか。月は願いを叶えてくれるってさ。迷信だろうけど、もしかしたら何か利益があるかもしれないし。騙されたと思ってやってみたらどうだろう」
 月に……。
「それで、落ちついたら……俺たちに相談してくれよ。できる限り力になるから」
 そう言って笑ったフィンの顔は、どことなく淋しげだった。






 夜ベッドに入ってもフィンの言葉が頭から抜けていかなかった。
 ───月に、祈る。
 そんなことで自分の願いが叶うなんて、そんな甘いことは考えていない。
 けれど不思議と、そうするしかないような気がしてきた。
 月は願いを聞いてくれるだなんて、そんなことは聞いたこともない。
 流れ星が願いを叶えるのだとは随分と昔に聞いた気がするが、そんなものがいちいち人の願いを叶えるはずはないと昔から思っていたから、信じたりなんてしなかったし、実際この前の話を聞くまで何年も忘れていた。


 けれど。
 今になって、それを信じてもいいかもしれないと思う自分がいた。
 『彼女』の姿は、この瞬間も瞼の裏にあるから。
 別にそんなことは不思議でもなんでもない。
 だって、あれから……フィンの言葉によれば3週間の間、毎日泉に通い続けたのだから。
 そうせずにはいられなかったから。
 そうして『彼女』を見ていてわかったこともある。
 ひとつ、月が空に見えないときは『彼女』の姿は見えない。
 ひとつ、月があっても昼間のうちにその姿が浮かび上がることはない。
 ひとつ、空が雲に覆われているときには『彼女』は現れない。
 そしてもうひとつ……『彼女』は、決して自分(ティル)を見ることはない。
 自分を見てくれないだろうことは、最初から漠然とわかっていた。
 それなのにどうしてこんなに切ないのだろう。


 ……切ない?
 切ないって、なんなんだろう。
 一体どんな思いなのだろう。
 わからない。
 わからないのに、その感情が自分を支配していることに気付いてしまう。
 そして、もっと別の感情もある。
 けれどそれが自分の心のどこにあるのかさえわからなくて。
 つまりそれは混乱、なのだ。
 自分でもどうしたらいいのかわからない。
 だから、今夜も自分は出かけていくのだ。
 その答えを得るために?
 それとも、それから目を逸らすためだろうか。


 何もかもがわからなくて、
 何もかもが意味をなくして、
 何もかもが輝きをなくして。



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