March 13th, 2001
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それは、あまりに突然だった。
窓の外……声がする。
「……だ、大変だあぁあっ!!」
表が騒がしい。
誰かが叫んでいる。
一人だけじゃない、大勢の人間だ。
その声に、夢からぐいっと引き戻されたようにティルは目を覚ました。
目覚めたばかりの鈍い思考で、ぼんやりと目を開く。
色褪(あ)せた天井が視界に飛び込んでくる。
……今、どんな夢を見ていただろうか。
何か、おぼろげな世界を眺めていた気がする。
何も覚えてはいないけれど。
けれど、なんだろう。
とても悲しい夢だった気がする。
何かをなくしてしまったような……何かを見失ってしまったような。
そこで自分は、このまちとは違う風景をずっと見ていた。
あれは、どこ?
遥か昔にあったまちのような。
たぶん、それは昨夜遅くまであのディアンから借りた歴史書を読んでいたからだろう。
それは物語のように書いてあって、真実を伝えているとは世辞にも思えなかった。
歴史書と言うよりは、読み物として読まれているものだったのかもしれない。
しかしそれでも、ディアドラの言うとおり。
昔戦(いくさ)に負けたことはおろか、その戦いがあったことすら書かれてはいなかった。
公的な記録なんてこんなものなのだろう。
お偉方の意思によっていくらでも書き換えることが出来る。
歴史なんてあてにならない。
そんなことを思いながら、ティルは再び眠りに落ちていく。
が、表の騒音は激しくなるばかりだ。
眠りかけたところで叩き起こされてしまう。
「……ったく。なんだよ……こんな早くから……オレは寝不足なんだから……」
そんな身勝手なことを呟いて。
それも仕方のないことだ。
なにせ、ディアドラには夜しか会えない。
だから毎夜毎夜ディアドラのもとに行くせいで、昼夜が逆転しかけた生活をしているのだから。
こんな朝早くに起こされたのではたまらない。
だからティルは、さもうるさそうに布団をかぶり、しつこく眠ろうとする……だが。
すぐにはっとなって飛び起きた。
その時には、目は完全に覚めている。
あわててベッドに触れてみると、シーツが湿っている。
その原因がティル自身にあることはすぐにわかった。
全身が汗だくなのである。
───暑い……。
おかしい。
いや、砂漠の中だ、この気温は当然のはずである。
だが違う。
このまちは、カミサマの力により涼しさが保たれているのではなかったか?
それに、喉が、……渇ききっている?
この感じは……?
今までに感じたことのない空気だ。
それでも、知っている気がする。
思わずティルはベッドから飛び降りた。
そして閉めきっていた窓を乱暴に開け放つ。
ばんっ!!
「…………っ!」
咄嗟に顔を背けていた。
窓を開けたとたんに部屋に流れ込んできた、ねっとりとからみつく熱気!
「まさか、これは……」
眉をひそめて窓から身を乗り出す。
駆け回る人、背にぐったりとした人を負って走る人、道端に倒れる人。
まちは完全にその機能を失っているようだった。
いつもよりも多く、道端につもる砂。
それが意味するものとは。
混乱して騒ぐ人々を眼下に見下ろしながら、ティルは最悪の事態を危惧(きぐ)した。
だとしたら……こうしてはいられない。
服を着替える間も惜しんで、部屋を飛び出した。
「母さんッ!」
叫びながら階段を駆け降りると、夜着のままのティルテュが慌てた様子で荷物をまとめていた。
「母さん、これはっ……!」
ティルテュはそこでやっとティルに気が付いたようだ。
それでもずっとばたばたとあちこち走り回っては、鞄に荷物を詰め込んでいる。
「あ、あぁ、ティル。そうよね、急がなくっちゃ。大変よね、急がなくちゃね。タオルは入れたかしら。ええと、食料は持った方がいいのかしらね。それから、あとは何が必要かしら……」
「何混乱してるんだよ! 母さん、一体何が起こったんだ!? 説明してくれ!」
ティルが聞いても、ティルテュはおろおろするばかりである。
それでも何回か問いを重ねるうち、やっとのことで少し正気を取り戻したらしい。
はっきりとした、けれど本当に何をしたらいいのかわからない、というような焦った口調で突然喋りだした。
「あのね……なくなっちゃったのよ、水が! 一滴も、無いの!」
「…………!!」
「体力のない人たちはもう倒れちゃったみたい! でも、みんな水が無くて倒れちゃったわけでしょう? けど水なんてないし……。どこに逃げたらいいか、わからなくて……。とりあえず、みんなで神殿に避難しようって決めたんだけれど、一体、何を持っていけばいいの? このまちは、どうなっちゃうのかしら?」
ティルの思考からさあっと血が引いていく。
水?
「……母さん、それは、水が全部、っていうこと?」
「そう、森も消えちゃったし、ラー泉(ルツフ)も跡形もなく……あっ、ティル!? どこに行くの!?」
「神殿に行っててくれ! あとから行く!」
気が付いたときにはそう叫んで。
走り出していた。
神殿へと向かう人の波に逆らい、押しのけ、必死に走る。
どこへ?
決まっている!
通い慣れていた道は、砂に覆われてやけに走りにくかった。
靴を砂に取られながら、ティルはまっすぐ、脇目もふらずに走っていく。
最後の家の角を曲がり終えた、そこには。
……砂、だった。
一面の。
他には何もない。
まちの外は、砂漠だった。
まちを守る森は、無い。
一瞬呆けてしまう。
けれどすぐ正気に戻って、
「……くそっ」
かまわず砂を蹴る。
舗装された道につもった砂よりも、それはずっとティルの足にからみつく。
あの道は、こんなに遠かっただろうか。
何度も通って、知り尽くしたと思っていたのに。
こんなに隔たっていたのか。
そして。
毎夜訪れていたはずの場所で、色鮮やかな人影を見つけた。
この黄土色の砂の中でも、美しく映える……。
「……っ、ディアドラ!!」
砂に埋まるように倒れ込んで。
その柔らかな影は、ぴくりとも動かない。
「ディアドラ!!」
駆け寄り、抱き上げ、揺さぶる。
「ディアドラ、ディアドラ! しっかりしろっ!」
「う……、み、ず……」
ティルはほっと息をついた。
有り難いことに、息がある。
長いこと水の中にいた彼女の身体には、この乾燥しきった砂漠の熱い空気は酷(こく)すぎるだろう。
ティルでさえ、あまりの暑さに眩暈(めまい)がするのだ。
───ディアドラだけは……。
心の中で、誰かが叫ぶ。
───ディアドラだけは、何があっても守らなくては……!
何故か沸きあがってくるそんな思いに呼応するように、ティルはディアドラを抱き上げる。
この少女を救うことが出来るのは、ティル以外にいないのだから。
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