July 7th, 2000
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その日は、運悪く雨でした。
紫草(むらさき)が生い茂っていると聞いていたこのあたりも、今は葦や萩ばかりがしとしとと降り続く雫を受け、重くしなだれています。
「ねえ……雨宿りは出来ないかしら?」
まだ出発したばかりなので旅慣れていない継母(はは)が父に言いますと、父はさっそく近くのお寺に使いを出してくれました。
正直私と姉も疲れ果てていましたから、やっと休めると思うと急に元気が出てまいりました。
ようやくついたそのお寺は竹芝といい、古いけれど素敵なお寺でした。
寺風にしてはありましたが、どことなく話に聞く御所に似ているようです。
濡れた衣装を取り替え、私がうっとりと美しい内装に見入っていますと、部屋に上品なひとりの尼君がやってこられました。
「いかがでしょう。殺風景な寺ではございますけれど、姫君さまのお気に召しましたでしょうか?」
「えぇ、とても。お寺と言うから私、もっと陰気なところかと思っていたんです。でもこんなに美しいお寺もあるのですね!」
私がはしゃいで言いますと、尼君は袖で口元を隠してほほほ、と笑いました。
肩に掛かるくらいの白髪が揺れる様はとても優雅で、墨染めの衣がよく似合っておいででした。
「旅の途中でこのような雨に見舞われるとは、大変でございましたね。この通り何もないところですから、さぞかし退屈なさっていることでしょう。よろしければ、この尼が昔語りでもいたしましょうか」
尼君がにこにこと仰られるのを聞いて、私は胸が高鳴りました。
昔語り!
それは立派な物語です。
私が京に早く上りたいと思ったのも、数多くある物語を読んでみたいと思っていたからです。
「お願いします、尼君! ぜひお聞かせ下さい!」
「そうですね。それではお話ししましょう。昔、この国に住んでいたひとりの若者が、宮中の火焚屋(ひたきや)の衛士(えじ)として召された時のことです……」
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季節は秋に入ったばかりであるせいか、夜になっても気温はほとんど下がらなかった。
その夜、火焚屋には8人の男が詰めていた。
屋、とはいっても焚き火の上に屋根をつけただけの番小屋であるから、男たちは柱に寄りかかったり地べたに直接座り込んだりして雑談をしているのである。
建物の向こうの方からは、雅楽の優美な調べが流れてきていた。
今夜は宴が開かれているため、警備はそちらが中心である。
だから下っ端役人の、それも新参に近い男たちはここで暇をもてあましていたのだ。
その中で、さらに暇そうな若者がひとりいた。
いや、本人に暇なつもりは全くない。
美しい御殿をじっと見つめ、しっかり警備をしているのだ。
だが端から見れば、暇そのもの。
彼は手を抜くことが下手なのである。
これが初めての仕官だからか、元来の真面目な性格がたたっているのか、かなり緊張もしているからなのか、それは誰も知らない。
「あ、そろそろ見回りに行く頃じゃないか?」
座っていた男が思い出したように言った。
他の男たちから、一斉にえー、と文句の声があがる。
「何でだよ、いいじゃん。行かなくったって絶対ばれないぜ?」
「そうだよ、どんちゃん騒ぎしてるんだから、どうせ賊も入ってきやしないだろ」
まったくいい加減なものである。
と、それを聞いていた例の若者が口を挟んだ。
「あの……私がまいりましょう」
男たちは一瞬驚いたが、彼の性格を思い出して納得した。
しかし、他に名乗り出る者もない。
すると打ち合わせでもしていたように、そばにいた年は若いが風格のある青年が同行を申し出た。
「僕が行こう」
「すみません」
「何で謝るんだい? …それじゃ、行って来るから。あとはよろしくね」
そう言い残すと、ふたりは足早に御殿へと向かって歩いて行ってしまった。
残された者は呆然とする。
「……健(たける)も多貴(たき)さんも真面目だよな……」
夜の内裏は不気味である。
宴があるからこそこうして篝火(かがりび)があちらこちらに点されているが、普段は明かりなんてほとんどない。
物の怪が現れても何の不思議もなさそうな場所だ。
昼の華やかさとは対照的である。
健は、多貴の後に従うように歩いていた。
多貴は経験もそこそこある上、地方では名の知れた家柄の子息である。
何でも兄が多くて出世の道からは外れたのだというが、人柄の良さも手伝って、誰からも好かれている人物だ。
もちろん健も例に漏れず、多貴にあこがれているクチである。
その上弟のように可愛がってくれるのだから、家族と離れて京に上ってきた健がなつくのも当然なのかもしれない。
「僕はちょっと南庭の方を見てくるよ。健はどうする?」
ふいに、多貴が振り返って聞いてきた。
健は、え、と一瞬考えてから答える。
「……私は北を見回ってきます。手分けした方が手間はかからないでしょう」
「そうだね。じゃあまたここで」
大好きな先輩に、人の出払っている後宮(人がいないためさらに暗い)の見回りなんてして欲しくない。
そう思っていると、当の多貴から余計な言葉が飛んできた。
「物の怪に気をつけてね、紫草(ムラサキ)」
「〜〜〜っ!! 多貴さんっ!!」
「あはは、冗談冗談。そっちは頼んだよ」
笑って去っていく多貴の背中を、健は心持ち恨めしげに見送る。
年が若いせいか、そう言ってからかわれるのだが、健にとってはあまり快いことではなかった。
男を花に例えることも貴族の間では流行しているらしかったが、片田舎の名産のようにいわれるちっぽけな花に例えられるのはどうかと思うのだ。
第一自分は、やたら優美にしたがる貴族ではないのであるし。
健はぶつぶつ文句を口の中で繰り返しながら、一番奥にある建物にさしかかった。
淑景舎(しげいしゃ)…人が桐壺と呼ぶ建物である。
「紫草紫草ってなぁ……。私はそんなに裏表があるように思われてるのかなぁ……」
溜め息まじりに呟いた、その時。
「…うふふふ……」
瞬間、頭に血がかぁっとのぼった。
今のひとりごとを聞かれてしまったのか!?
今でさえ十分しつこいのに、自分から他の人間にまで種をまいてしまうなんて!
……にしても、ずいぶんと可愛らしい声だったけれど。
慌てて声の主を捜す。
と、すぐ近くに人の気配のようなものを感じた。
七日月のようやくのぼった東の空から振る、一筋の光の中に、高欄に寄りかかって、その人はいた。
柔らかそうな紅(くれない)の薄様(うすよう)の衣を身に纏った、ひとりの少女。
まるでそこにだけ大輪の牡丹が花開いたようなあでやかさ。
本当はこういう人のことを花に例える方が正しいんだ、などと健は焦った思考のままで考える。
「…ごめんなさい、笑うつもりじゃなかったの。でもあんまりお口をとがらせていらっしゃるものだから」
少女はにっこり笑って口元を押さえる。
単(ひとえ)の白が眩しくて、目がくらんだ。
思考はますます混乱し、ぐるぐる渦を描き出している。
「ねぇ、あなた。紫草っていうの?」
少女の問いにはっとなって健は首を振る。
「い、いえ、違います」
「本当のお名前は違うの?」
「は、はぁ、健と」
「健ね。じゃどうして紫草なの?」
「わ、私の故郷では、紫草が辺り一面咲くのです。それで皆が面白がり…」
ふうん、と少女は健を覗き込む。
ふわり、と甘い香りがするものだから、全身の血が頭にあがってしまった。
耳元で心臓の鼓動が聞こえる。
耳鳴りまでしだした。
「その紫草って、どんな花なの? 綺麗な紫色をしているの?」
「い、いえ……。紫色はしていないのです。小さな小さな、白い花です」
「どうして?」
「紫草は、染め物の材料なのです。根を使って染めると、紫の色が出てきます」
少女は黒目がちの大きな瞳をさらにきらきら輝かせる。
健は倒れる寸前だ。
「面白いのね! いつか見てみたい!」
一体この少女は何者なのだろう。
この桐壺に仕える女房だろうか。
というよりは、背格好からしてまだ女童(めのわらわ)くらいであろう。
どうしよう、何か言わなければ、と健は考える。
自分を見つめてくるこの美しい少女は、なぜか明らかに自分が喋るのを待っているのだから。
健は意を決して、ごくんと唾を飲む。
「え…と、どうしてこんな時間にこんなところにひとりでいるのですか」
「あら」
少女は楽しそうに笑って上体を起こす。
「だって、今日は牽牛の星と織女の星が年に一度会う日なのでしょう? お話でしか聞いたことがないから、自分の目で見てみたいと思ったの」
本当に空にふたりの姿を探すように見つめる彼女を、健はぼんやりと見ていた。
今まで生きてきた中で、こんな美しい人に会ったことはない。
そこに一瞬微妙な間があいた。
どこか向こうの方で、玉砂利がこすれて鳴るのが聞こえた。
「……あ。誰か来たみたい。もう戻らなくっちゃ。じゃあね、健。また来て頂戴ね。……そうだ、これあげるわ」
少女は、持っていた扇を簀子(すのこ)の端の方に置くと、近付いてきた足音に慌てるように身を起こす。
振り向く彼女の衣の裾がしゅる、と音を立てたところで健ははっと我にかえった。
「あっ、あの……お名前を……!」
妻戸に手をかけたまま、少女は健を見た。
そしてもう一度にこりと笑う。
「……灯(あかり)」
少女は扉の向こうに消えていく。
手に取った扇をそっと握りしめ、健は閉じた妻戸を上気した顔で眺める。
サラサラ…と床を擦る音が心地よく響き、やがて消えてゆくまで、夢のような心地で突っ立っていた。
あの少女は本当に天の織女か、それとも月に住む嫦娥(こうが)の娘か……。
歩いてきたのは多貴だった。
いくら待っても戻ってこない健を心配して迎えに来たのだ。
「健? 何かあったのかい?」
問う多貴の声も、どこか遠くで鳴る風の音くらいにしか耳には届かなかった。
Continued