July 31th, 2000
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ある日の非番の昼、健(たける)は多貴(たき)の用事に同行して、六条京極あたりにまで来ていた。
とは言っても、建物内に入っても面倒な人付き合いがあるだけだ。
そのため、多貴が誘うのを断って門の外で多貴が出てくるのを待っていた。
懐には、例の扇を隠し持っている。
衣の上からそっと触れて健は溜め息をついた。
あれからあの少女に会わない。
健にはなぜ自分が彼女に会いたいと思うのかもわからないし、それを望んでも所詮無理な話なのだ。
健は無官の衛士なのだから。
だから身動きがとれなくて、何かこうすっきりとしない。
けれど仕事にはかえって身が入る。
そしていつも不思議と胸が期待に高鳴っていた。
とてもよい香りのする扇には、蛍の飛ぶ姿が描かれていた。
瑠璃色の空に黄朽葉の蛍が、まるで夜の天人のようだった彼女の雰囲気をそのまま映し出しているように思えた。
人とも思えない美しさ……。
そういえば、彼女の素性を知らないのである。
少女は灯(あかり)と名乗ったが、あれは単なる通り名であろう。
一体どこの家の、誰の娘の、どこに仕えている者なのか、それだけでは見当が付かない。
貴族の趣向に慣れている者であったら、着ているものだけでその判別はできるというが。
健にはそのような高貴な芸当はできそうもない。
すべては謎に包まれて、もしかしたら自分は物怪に憑かれて騙されているのではないかとさえ思ってしまう。
空の青に憎らしいほどのんびりと浮いている雲を眺めながら、健は灯の姿を思い出す。
彼女が口元を覆ったあの単(ひとえ)の白が眩しいくらいに瞳の奥に焼き付いている。
…と。
そこに、七条の方から派手な顔立ちをした若者が足取りも軽く歩いてきた。
この滅茶苦茶に軽そうな(実際に軽い)若者の名は、江斗(えと)。
健の少し先輩にあたる同僚で、多貴と(一方的に)仲がよく、多貴とは違った意味で人気のある人物である。
その江斗が、門の側でぼーっと突っ立ってる健に気が付いた。
江斗はおもしろいものを見つけた、とでもいわんばかりに歩み寄ってきて、健の目の前で立ち止まる。
…しかし、思考の飛んでいってしまっている今の健が気付くはずもない。
今度はうろうろしてみる。
が、まだ気付かない。
こいつこの俺に気付かないって?
いい加減頭に来て、健の頭を一発はたいてやろうと思い立つ。
そうして拳を振り上げたその時、門から多貴が出てきた。
「……何やってるんだ? 江斗……」
「あ、多貴くーんv」
江斗は、「おまえバカじゃないのか」とでも言いたげな多貴の視線をさらりとかわして妙なしなを作って。
「こんな京の端で逢えるなんてー、僕と多貴くんって運命ー? みたいなー」
ぽんぽんと多貴の肩を叩く。
どう見ても時代間違ってるだろう…と多貴の視線はいっそう冷たくなる。
通りすがりの人にまで奇妙なものを見るような視線を貰ってしまっても無視して江斗は騒いでいる。
江斗は多貴に対してはたいがいがこうなのだ。
が、今日はこの大騒ぎにもまだ気付かない健の存在に、江斗はふと気付く。
「…あのさあ、多貴。こいつこの前からずっとこんな感じだけど、なんかあったのか?」
「僕にもわからないよ」
「もしかして普段マジメすぎた反動ですっかりボケちまったとか…」
勝手なことを言っている。
多貴はしなだれかかってくる江斗を別に払いもせず、困ったように健を見た。
「どっちにしたって、これじゃ帰れないね」
「置いて帰っちゃおうぜ」
「そうもいかないだろ」
江斗だったらさっさと置いてってしまうところだが、多貴はさすがにそうもいかないらしい。
多貴が健をつれてでなければ動かなそうな様子なのを見て取り、江斗は派手に溜め息をついてみせた。
「ったく…こーいうのは無理矢理目覚めさせんのが一番」
ぶつぶつ言いながら、江斗は健の目の前に立つ。
そしてその顔の前で、勢いよくパン!! と手を打った。
すると、健がはっと息をのむ。
「っあ、多貴さん、用事終わったんですか。…あれ、江斗さんどうしてここに……」
江斗の身体からがくっと力が抜けた。
本当に気付いていなかったらしい。
まだ不思議そうな健を見て、多貴はほんの少しだけ笑う。
「さ、帰ろうか」
そう言ってとっとと帰途につく多貴に、慌てて江斗が続く。
健もその後に付き従った。
(あの派手な江斗さんに気付かなかったなんて……。どうしたんだろう、私は…)
知らず知らずさっきの江斗の「ボケちまった」発言に仕返しでもしているようなことを思って、もうすっかり癖のようになってしまった溜め息をつく。
そうして思考は元の回路に戻って行ってしまう。
灯という少女…。
まさか本当に天女だったのでは?
そうでなければ七夕の星祭りの夜に出会うなんて、まさに運命的すぎるではないか。
前を歩く多貴と江斗が、六条二坊の女の話をしている。
というか、江斗が身振り手振りを交えながら勝手にしゃべっている。
そこで健は気が付いた。
遊び人の江斗、と呼ばれるくらいに恋人の多い江斗なら、灯のことを知っているかもしれない。
灯のこととまでは行かなくとも、その周辺のことくらいまでならわかるだろうか。
なにせ、梅壺だかどこかの女房と懇意にしているらしいという噂を聞いたことがある。
健は何気なくふたりの会話に割り込んで、ふと話を切りだした。
「…そう言えば、右の衛士たちが話していたんですが。桐壺の灯って誰のことなんです?」
心中を察せられないように慎重に言葉を選びながら。
江斗はうーん? と顎をなでた。
「桐壺の灯か。右衛士府の連中は一体何を言ってるんだかなぁ……」
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も…桐壺の灯っていうのは今上(きんじょう)の女四の宮のことだぜ」
後頭部を大きな丸太で殴られたような衝撃が健を不意打ちする。
江斗の言葉の、今上の女四の宮、というところが妙なほどうるさい残響と共に頭の中で繰り返された。
女四の宮…!?
「あの姫宮の母親ってのが先帝の姫宮で、祖母も姫宮で、そんでもって曾祖母も姫宮っていうものすごく格式の高い宮だ。しかもその3人ともが斎宮(いつきのみや)に在位して、退いてのちに帝に嫁いでるから、女四の宮にもそのうち斎宮の宣旨が下るんじゃないかって噂があるようだぜ。けど、桐壺御息所(みやすどころ)……つまり姫宮の母君は、帝の寵が薄いらしいからどうなるのかな」
さすがは女性に関する情報通。
…などと感心する余裕もない。
なんと健が、国守(くにのかみ)の甥ではあるが父は無官、自身も身分の全くない健が、即位して間もない今上帝の末の御娘の御姿を拝したばかりか、言葉を交わしてしまったのだ。
恐れ多い、どころの騒ぎではない。
立派な罪である。
健は青くなっていいのやら赤くなっていいのやらわからなかった。
桐壺御息所といえば、いくら宮廷事情に疎い健でも知っている。
宮の位としてはかなり高い二品(にほん)を戴いた女性だ。
そういえば御息所の母宮はその容貌がとても美しかったことで有名だから、灯のあの輝くような美しさも、なるほど、納得できる。
「……で、その太輔(たいふ)って女房がな…」
江斗の話は、既に梨壺の人気の美人女房の話に移っていた。
その頃には健の意識もどこか遠いお空に飛んでいってしまっている。
(宮様……本当にあの人は天女だったのか)
どんなに必死で手を伸ばしても、決して届かないという意味では。
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