〜紫のひともとゆえに…〜

August 15th, 2000

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 そしてまた、夜が来た。
 健(たける)は1人、見回りをするため後宮へと向かう。
 ……灯(あかり)は宮であるらしい。
 だからほのかな希望さえ抱いてはならないのだが、確証はない。
 本人に会って確かめてみたい。
 罪の意識とは裏腹に、健の足はまっすぐに桐壺に向かっていた。
 毎回毎回見回りに立つことも、彼の真面目さが知られているせいか、まわりの者からは何とも思われていないようだ。
 このときばかりは自分の性格が役に立ったと思う。





 月はすでに望月の頃になっていたから、薄暗くはあるものの、建物の構造が見えないでもなかった。
 そのためか、桐の木の下あたりに来たところで、健は妻戸がわずかに開いていることに気が付いた。
 おおかた、不用心な女房が戸を閉め忘れたのだろうと考え、そこに近付く……と。
 ふいに柔らかな甘い香りがあたりに漂っているのを感じた。
 健ははっとして立ち止まる。
「あ、健。よかった、今日は来てくれたのね」
 隙間からすべるようにして、あでやかな少女が現れる。
 健は、体を巡るすべての血液が逆に流れるような、奇妙な感覚を覚えた。
 灯だ。
 着慣れて糊の取れた様子も美しい、紅梅匂(こうばいのにおい)の五つ衣の裾を少し引っ張って妻戸の外に出すと、彼女は簀子(すのこ)の端までいざってきた。
「何日も待っていたの。ねぇ、健の生まれた場所のことをもっと話して頂戴」
 彼女は、袖からちらりと見える細くて白い指を絡ませて、健を見つめる。
 健は息を落ち着かせ、彼女を見た。
 彼女は首を傾げて、なぁに? と問う。
「あ……あのっ……。あの、あなたが女四の宮様……というのは、本当ですか?」
「えぇ」
 実は、これを聞くためにものすごい決心をしてきた健である。
 あっさりと肯定されて、肩から力が抜けてしまった。
 がしかし、だからこそじわじわとその事実が健にのしかかる。
 頭を抱えてしまう健に、相変わらず灯は無邪気に顔を近付ける。
「ねぇねぇねぇ、健の故郷ってどんなところなの? どうして健は京に来たの?」
 帝の御娘、という限りなく尊い方と話してしまった、というまずいなぁ、という気持ちの他に、やばいなぁ、なんて気持ちが生まれる。
 姫宮がこんな端近(はしぢか)に出てこられるなど、あるまじきことだ。
 いや、それよりもこの宮は、他の誰かともこのようにしゃべって……?
 考えると、何故か頭に来た。
「……あのですね、灯…いえ宮様。あなたはやんごとなき帝の御姫君様であらせられるのです。貴人たるもの、このように御殿の外に出られるなど言語道断です。ましてや、こんな身分の低い男とお話になられては……」
 急に膝をついて、だらだらと人づてにでも聞いたような言葉を並べ立てる健に、灯は一瞬きょとんとする。
 けれどすぐに笑い出して、
「健が乳母(めのと)みたいなこと言ってる。面白いのね、健って。でも、平気よ。宮は健が来たときしか表に出ないもの」
 さらりと答える。
 健の心のどこかで、安堵の溜め息が漏れた。
 が、それだって十分問題だ。
「宮様……っ、私だって男なのですよ? いつどんな間違いが起こるか…っ!」
「間違いって?」
 無邪気に問い返されて、逆に健が言葉に詰まる。
 いと、いはけなし。
 この宮は、まだ大人になりきれぬ少女なのだ。
「それより健、早く宮にお話しして?」
 子供の灯には、これ以上説教してもしようがないのかもしれない。
 仕方なく、健は灯のそばへ寄る。
 そして座れ座れとうるさく言う灯に、恐れ多いと思いながら階(きざはし)へと腰を下ろした。
 灯もきちんと座り直す。





「…私の故郷は武蔵国(むさしのくに)という東国です。紫草(むらさき)の染め物の他にも、お酒を造るのが盛んなので、あちらこちらにお酒を仕込んだ酒壺が置かれています。そこには、ひょうたんで作られたひしゃくが浮かべられていて、風が吹くたびにゆらりゆらりと揺れるのです。男たちは、それを眺めながらのんびりと仕事をします」
「ふうん……たくさんあるの? 面白そうね」
「そして、子供たちは広い浜辺で、遥か遠くから打ち寄せる波と遊びます。青い海はどこまでも大きくて……」
 健の瞼の奥に、今は遠く離れた故郷の景色が鮮明に映る。
 真っ青な空と海に囲まれ、近くに住む子供たちと遊んだ日々。
 砂浜に大きな穴を掘れば、まるで宝物の山のように貝がたくさん取れた。
 競って取ったその貝を焼いて食べたのは、遠くはない日だったはずだ。
 それが、今はこの京で、ただ1人働いている。
 一門から衛士を出したかったらしい叔父の国守(くにのかみ)の命だから、仕方ないとあきらめてしまえばまだ楽なのかもしれないのだけれども。
 でも、それでも、この宮に出会えたことを思えば……。
「うみ……?」
 しばらく健の話を静かに聞いていた灯が、海へ注ぐ墨田(すみだ)の川のことを健が話し出すと、不思議そうに首を傾げた。
「海って……大きいの?」
「えぇ、とても広いのです」
「二条のお屋敷のお池よりも?」
「二条……って、京のですか? はい、この京を何千、何万と並べたよりもさらに広いと聞いています」
 灯は、ぱぁっと頬を紅潮させる。
 そうか、仮にも帝の御娘、御所から表に出ることもままならぬのだから、海を知らなくとも無理はないのだ、と健は納得する。
 しかし、さすがに灯が唐突に言いだした言葉には面食らった。
「宮も、海っていうのが見たい!」
「……っえ!?」
「ねぇ健、宮をその海までお連れ申して頂戴!」
 まさかまさか、そんな大胆なことが出来るはずはない。
 健の血の上りきった頭から、逆に血の気がさぁっと音を立てて引いていく。
「あの…宮様は、宮様なのですよ!?」
「? そうよ」
「だからそうではなく……とても身分の高い方なのですよ、あなたは!」
「宮には、よくわからないもの」
「わからない……って。あなたがそんなことをなされたら、京中…いえ、国中大騒ぎになってしまうでしょう!」
「…だめなの?」
「だめです! だめったら、だめで……っ!!」
「そう……」
 しゅん、と灯は肩を落とす。
 さらりと髪が頬にかかり、そのまま黙りこくってしまう。
 はっとして、悪いことをしてしまったと健は思う。
 表に出られないのだから、外界に興味を持つのは当然である。
 それを頭ごなしに否定したら、彼女が傷ついてしまうであろうことは容易に想像できたはずなのに。
 そして、自分の言葉を選ばぬ軽率さに深く反省を覚えた。
 それは、健だって出来ることなら、この宮にあの雄大でいてのどかな自分の国を見せて差し上げたい。
 けれどそれは、おそらく、灯の宮としての輝かしい未来をこの手で奪ってしまうことに他ならないのだ。
 健は、そっと簀子に手をかけ、灯にすっと顔を近付けた。
「あ…の、宮様……? 私は……」
 灯は一度こくりと頷くと、にっこりと笑って顔を上げる。





「いいの。宮、あきらめる。健を困らせちゃいけないもの。だって、乳母が好きな人を困らせるのははしたないことだって言ってたわ」





 わかっていただけてよかった…大変なことになるところだった。
 そう安堵に胸を撫で下ろして……。
 簀子に置いた手が、ぴくりと動く。
 今、なんと言った?
 胸が、矢で射られたように跳ね上がるのがわかる。
 もしかすると、聞き間違いということだってある。
 健は必死で冷静さを失わぬように、問い返してみた。
「あの……今、なんと?」
「だから、宮、あきらめるの」
「いえそうでなく、そのあと……」
「なあに?」
 首を傾げてきょとんとする。
 健は大きく息を吸い込み、また大きく吐く。
「ですから、今、私のことを」
 そこまで言ったところで、灯はなあんだ、と笑った。
「宮は健のことが好きよ」
「…………っ!!」
「うん、乳母や母宮様より、主上(おかみ)よりも、健のこと大好きよ」
 焦りすぎて、頭の中がかえってしんと冷えた。
 灯には、それがどういうことだかわかっているのだろうか。
 事は次第に、謀反の色をなしてきた。
 おおごとである。
「あ……の、宮様。私は、衛士なんです」
「ふうん、そうなの?」
「だから、とても身分が低いのです」
「わからないわ」
「つまり私と宮様の間には、けして埋められることのない……溝があるのです」
 灯りはやっぱりわからない、というように首を振った。
 身分の高い者に、低い者の気持ちはわからないという。
 おそらく、そんな現象なのだ。
 自分の中にある、身分がないことから来る劣等感が、理解されようはずはない。
 けれど、灯は、なんの屈託もなく、笑った。
「よくわからない。でも、それってそんなに大切なことなの? 本当にそれは必要なものなの?」
 それは健にもよくわからない。
 でもたぶん、社会の機構としては大切だったはず。
 秩序ある国家を形成していくためには必要だったはずである。
 しかし、それが人と人の間に大きな箍(たが)をはめる……。
「健は、宮のこと好きじゃないの?」
 灯の問いに、答えられるはずもなかった。
「……わかりません」
 健自身、迷っていた。
 自分を縛り付ける糸が、こんなにも固いものだと初めて知った。
 本当は、灯の問いに対する、健のたったひとつの真実はとっくに導き出されていたのかもしれない。
 けれど、それを認めてしまうには、まだまだ何かが足りないのかもしれなかった。





 運命の歯車は、誰も知らぬ場所で、音もなく静かに回りだしていた。
 いや、ふたりが出会った瞬間から、もう回っていたのかもしれない。





Continued




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