〜紫のひともとゆえに…〜

August 29th, 2000

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 時の過ぎるのは、早い。
 気を抜くとあっという間に駆け抜けていってしまう。
 木々の色の変わりゆくこの季節もそろそろ終わっていこうとしているのに、この男の心はまだ立ち止まったままだった。
 自分の心に踏ん切りがつかなくて、あれ以来後宮へも足が向かない。
 会いたくないわけでは、決してない。





 今夜も、ぼんやりと火焚屋(ひたきや)の番小屋の中で、燃えさかる炎を見つめている健(たける)だ。
 近頃こうしていることが増えているせいか、彼の性格の形容に「ぼけーっとしている」という項目が加えられた。
 もちろん健本人は知る由もない。
 前の打てば響くような性格も面白かったけれど、何もないところでいきなりコケて顔面を強打してしまう抜けた健も見ていて面白いな……などと無責任に思ってしまうのは江斗(えと)である。
 今も、他の衛士(えじ)がほとんど見回りに出払っているというのに、補充用の薪の細い枝の皮をちまちまむいている健を、しゃがみ込んで眺めている。
 江斗には当然のことながら、健がこうなった原因は見えない。
 しかし、この健の変身の陰には女性が絡んでいるのではないかと睨んでいるあたり、さすが遊び人の江斗と言ってもいいのかもしれない。
 健には、なにか人を心配させる(決して悪い意味ではなく)なにかがあるのだろうか。
 多貴(たき)だけでなく、江斗もどうしてか健から目が離せないクチである。
 おそらく、郷里に健と同じくらいの歳の弟を残してきたから、その代わりに可愛がっているのかもしれないが。
 それに、ここまでまっすぐな男も珍しい。
 だからとことん行く末を見届けたい。
 そうも思うのだ。
 だが、見ているだけというのは江斗の性分に合わない。
 どうにかしてちょっかいを出したくなる、というわけで。
 とりあえず、江斗は健の真正面に歩み寄り、右の肩口を軽く足蹴にする。
 と、面白いくらいに派手な反応をして、健は後ろに転んでしまった。
「……っうわあああっ!!」
 やっぱりこいつは面白ぇ、とほくそ笑む江斗。
 健は頭でも打ったのか、顔をしかめて後頭部をさすりながら、涙目になって上目遣いに江斗を見た。
「酷いですよ江斗さん……。あぁいたた…不意打ちはないでしょう」
「不意打ちは、っておまえ。俺、おまえの真っ正面から行ったんだぜ。気付かないおまえが悪ィよ、そりゃ」
 それでもいきなり蹴るのはないですよ、と健はぶつぶつ抗議を続けようとするが、楽しそうにけたけたと笑う江斗に毒気を抜かれてしまってやめた。
 江斗も、まったく得な性格をしている。





 江斗は、どっかり健の横に座ると、足を伸ばした。
 職務中でも自分なりの歩調は決して変えないのが江斗だ。
 いつでも自分の速度で、飾り気もない。
「あーっ、今夜も星が綺麗だぜっ」
 それでいてこんなきざったらしい言葉を吐く。
 しかし、飾った言葉ではない。
 そんなところが女性たちに人気があるのかもしれない、と思う。
 だが自分はどうだろう。
 結局答えも出し切れぬまま、ただずるずると思いだけを引きずっている。
 男として情けないことだ。
 どんな形にせよ答えを出したい気持ちはある。
 けれどそこに足をたった一歩踏み出すだけの勇気がない。
 それは、思いを捨ててしまうことが一番手っ取り早く、取りうる最高の方法であるからだ。
 ためらう理由はそこにある。
「なぁ健。若いってことはさ。悩み続けるってことなんじゃねぇのか?」
 江斗が、空を見上げたまま突然呟く。
 健はどことなくしみじみとした江斗の口調に、心底意外だという顔をして江斗を見た。
「なんだよ」
 それに気付いた江斗が健を見返す。
「いえ……江斗さんでも悩むことあるんですか」
 肘から力ががくんと抜けた。
「健……俺のこと馬鹿にしてるわけ? 俺だって健全な若者なんだからさァ。そこんとこよろしく頼むぜ、まったく……」
 健全、というところを強調しているあたりで、不健全だと自白をする江斗。
 納得してどうするんですか、と一応つっこみは入れておく。
「……まぁ、話の腰はちょっと折れたような気もするけど、続けよう。だからさ…健、若者に悩みはつきものなんだぜ。いつだって俺ら相談に乗るからさ。特に俺なんて、女の子モノにする玄人なんだからな」
 どかん!!
 健は思わず柱に頭をぶつけた。
 展開の早さに、ついお約束をかましてしまった。
 健は2つになってしまった頭のたんこぶを、確かめるようにさすってみる。
「え…江斗さんっ、女の子……って、何を急に言い出すんですか!!」
「だっておまえそんな悩み抱えてそうだし」
「そ、そりゃあ…私だって……。けど…でも…そんなんじゃないです。私にも…今ひとつ自分の気持ちがはっきりしなくて。なんだか胸が、痛いような、くすぐったいような、それでも嬉しいようなで……。考えるだけで夜も眠れなくなって……」
「おまえなぁ……」
 溜め息をついて江斗は腕を組む。
 鈍いな、とは思っていたが、ここまで筋金が入っていようとは思いもしなかった。
 仕方なく、まっすぐ健を指さし、宣告してやる。
「おまえ、それが恋って奴だぜ」
 健の動きが、ぴたりと止まる。
 淡い月の光の中で出会った、美しいひとりの少女。
 乾いた御所の片隅に咲く、大輪の牡丹の花。
 今までに感じたことのない甘やかな気持ち。
 そうか、私も……初めて会ったあの時から、宮様のことが好きだったんだ……。
 本当は気付いていたはずの気持ち。
 わざと目をそらせていたけれど、確かに抱いていた気持ち……。
 そのまま静止状態を続けてしまう健を見て、江斗は仕方ねぇな、と言いつつも笑った。
「ったく。わかりやすい奴! 相手のコは苦労すんだろーな、こりゃ」
 場が、ほんわかと和やかな雰囲気になる。





 そこへ、見回りに行っていた多貴が戻ってきた。
「ただいま」
 思わず江斗が立ち上がり、両腕を開いて派手に迎え入れる。
「おかえりv 多貴v」
 当然多貴は、冷静にさらりとかわす。
「……健は相変わらずみたいだね」
「いや、そうでもねぇぜ。案外これでもう吹っ切れてるんじゃねぇのかなぁ」
 江斗の言葉に、多貴は不思議そうな顔をした。
 しかし江斗はニヤニヤ笑っているだけである。
 何となく不審げな視線を江斗に送りながら、多貴は先刻聞いた情報をふと漏らす。
「そういえば、いつか江斗話してたよね。寵の薄い御息所(みやすどころ)の一人娘の宮の話」
 とたん、呆けていたはずの健の耳が、ぴくっと反応する。
 桐壺御息所の娘……灯(あかり)のことだ。
「女房たちが愚痴のように言っていたのを聞いてしまったんだけど。母御息所に帝のお声がかからないだろ。それで娘も肩身が狭いだろうっていうんで、近いうちに手頃な貴族のもとに降嫁させようって話があるらしいんだ。帝にとっては厄介払いみたいなものなんだろうけどね」
「ほんとかよ? あの宮さんって、確か裳着(もぎ)済ませて間もないだろ? まだ小さいのにな」
 全身が、一瞬石のように固くなった。
 そうして次の瞬間には、ものすごい早さで血液が巡り出す。
 側にいたふたりがあっと思う間もなく、健は立ち上がり、多貴の来た方向へ走りだした。
「すみません、見回りに行ってきます!!!」
 それはもう、目にもとまらないのではないかと思うくらいの速さだ。
 残されたふたりは唖然として、すでに見えぬ健の後ろ姿をいつまでも見守る。





「……これだからわかりやすいっつうんだよ。その上、あーいう真面目な奴は、いったん思い込むとタチが悪ィ」
「江斗」
 軽口を言う江斗を軽くたしなめ、多貴は心配そうにその方向を見つめ続ける。
 まさかとは思いながら、健の行動はすべてを物語る。
 ふたりには、もう事情は飲み込めた。
「うまくいけば、いいんだけど……」
 やけに涼しい風が、ふたりの頬をかすめて飛び去っていった。





Continued




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