September 14th, 2000
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後宮の中は、今夜もしいんと静まりかえっている。
出会ってしまうより前、暗闇の中に物の怪でもいそうだと感じていた頃の陰気さが、またあたりを支配する。
健(たける)は迷わず桐壺(きりつぼ)に向かっていた。
今宵はちょうど新月で、頼りになる明かりなどいっさいない。
けれど幾度となく通った道だ、見えなくとも感覚が覚えている。
綺麗に整えられているはずの白い玉砂利を蹴り飛ばして、一気に梨壺の階(きざはし)まで駆けてきた。
どうしたらいいのかなんて、健にはわからない。
せめてなにか考えておけばよかったのだが、あいにく頭は灯(あかり)の降嫁の噂でいっぱいで、考える隙間など一寸もなかった。
こんなに急いでは人に気付かれるかもしれないのに、それすら思い浮かばなかったほどだ。
「宮様……宮様! 私です、健です!」
小声ではあるものの、驚くほどきっぱりと、大胆に健は妻戸(つまど)に向かって呼びかけた。
すぐにしゅうるしゅうると、衣と床のすれる音が聞こえてくる。
やがてそっと妻戸が押し開かれた。
小さな音を立てて開いた戸の、そのわずかな間を滑るように、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「健……!!」
灯は、健の姿を認めるや否や健に抱きついてきた。
健は、その身をしっかりと抱きとめる。
「健、健…! どうして会いに来てくれなかったの? 宮は淋しかった…!」
「すみません……」
小さな肩が、細かく震えている。
だから、こんなに長いこと会いに来なかった自分の優柔不断さを深く後悔する。
「宮様……誰もいらっしゃらないのですか?」
「えぇ。ちょうど今、母宮様が帝に呼ばれていて、乳母(めのと)は湯浴(ゆあ)みに行っているの。だから人がいなくて」
はっとした。
寵の薄いといわれる御息所(みやすどころ)が帝のもとへ?
これは、例の話をするためなのではなかろうか。
「……宮様。ご降嫁の噂があると伺いましたが」
健が、ぼそりと呟く。
ぴくりと灯は肩を揺らし、健から身を離す。
「た、健も、もう……その話を聞いたのね?」
眉根を寄せ、指を組んで、少し潤んだ瞳で健をじっと見る。
噂は、どうやら信憑性のあるものらしい。
健の心がキリ、と痛む。
この宮には笑顔が一番似合うのに!
降嫁の噂がすでに健のもとにまで及んでいるのだと悟り、その時初めて灯は涙の粒をこぼした。
「主上(おかみ)は、望まれずに生まれてきてしまった宮が邪魔なの。だから、宮を誰かに押しつけておしまいになりたいの。そうすれば、宮の面倒を見なくてもすむから。でも……」
灯はもう一度、健の首にすがりつく。
孤独に怯える子供のように。
いや、子供なのだ。
人のぬくもりを恋しがる、子供だ。
けれど、人間ならば、子供も大人も関係ない。
誰もが孤独を愁い、誰もがぬくもりを欲し、誰もが小さくなって怯えている。
子供と大人のちょうど中間で、揺られ続ける健と灯。
「でも、宮はそんなのいやなの! 知らない誰かと結婚するなんていや! 宮は……宮はずっと健といたいのに……!!」
健は、その絹糸のような美しく豊かな黒髪をしっかり手に絡め取る。
不思議な気分だった。
たしかに胸は強く鳴り、視界は白くぼやけて見えるほど焦っている。
しかし、今までの自分からはとても考えられないほど、結論はすっきりと出ていた。
細い肩を抱きしめる。
強く、強く、決して離さないという誓いのように。
「宮様。下々の暮らしが、耐えられますか」
「え?」
健の肩に顔をうずめたまま、灯は大きな瞳をきょとんと見開く。
「……このままでは私たちはふたりとも不幸になってしまう。お願いです、宮様。私と……逃げてください」
ふと灯が健から離れ、その目を見る。
まっすぐで、どこまでも澄んだ瞳。
そこに偽りはない。
「……健の、故郷へ? それ…宮を、お嫁さんにしてくれるということ?」
「はい。片田舎ですから、北の方、と呼べるほどの待遇はできないかもしれません。けれど、私はもうあなたと離れて暮らすことなんてできない!」
「いいの? 健……」
「あなたのためならばどのような罪も負いましょう。あなたを心より想っています」
「健……」
成功する可能性は、ほぼ皆無に近い。
だがそうせずにはいられない。
罰せられて死ぬようなことがあっても、だ。
一度決まった心は、どんな嵐にも崩せはしない。
「初めて会ったときから、あなたが好きだった。あなたの告白……返事が遅れてしまい、申し訳なく思っています。あの言葉がまだ有効なら、どうか、私と一緒に……!」
灯があの時あのように言ったのは、ただ漠然とそう思ったからだった。
決して深く考えていたわけではない。
けれど一度離れてみてようやくわかった。
身分など関係なく、自分はこの男を間違いなく深く深く想っていると。
「健、宮は……行くわ。連れて逃げて頂戴。宮にも健しかいないの。あなたが好き。あなたを誰より想っている…!」
「宮様……!!」
「誓うわ。宮…ううん、私、ずっとあなたと共に……」
「私も誓いましょう。生涯かけて、あなたをお守りすることを」
瞳と瞳がぶつかりあい、視線が交わる。
ほんの一瞬の過去と、果てしない未来と、そして永遠に続くこと祈る現在をつなげて、ふたりは短く、一度だけ、小さく唇を重ねた。
灯が、にこりと微笑む。
今まで見てきた中で、一番綺麗な笑顔だった。
「では、参りましょう!」
「…えぇ!」
衣装ごと、健は灯を抱き上げた。
それからの健の行動は迅速だった。
灯を抱えたまま、一気に後宮から走り出る。
内裏(だいり)から出ようかというところで、健はふたりの男に呼び止められた。
はっとして立ち止まる。
すると、そこにいたのは多貴(たき)と江斗(えと)だ。
ふたりはそっと健たちに近寄ると、灯に向かって軽く会釈をする。
健は口の中で、ふたりの名を呟いた。
何故ここに……。
「健、元気で。今夜の新月なら、闇に乗じてうまく逃げられるはずだ。あとのことは僕たちに任せておいてくれ。何日かは誤魔化してみせるよ」
多貴は笑ってそう言う。
「おい、健。どーせ追っ手がかかるだろうから、琵琶湖の南端にかかる勢多(せた)の橋を壊していけ。そうすりゃおまえの国に兵は行けねぇ」
江斗がにやりとそう耳打ちする。
そうか、ふたりはわざわざ健のために……。
健は心からふたりに頭を下げた。
「多貴さん、江斗さん……。本当に、ありがとうございました!!」
「あぁ、気をつけて!」
「そんなこたぁいいから、みつかる前にさっさと行けよ!」
「はいっ!!」
駆け抜ける健の視線の端で、ふたりの笑顔が、やがて闇の中に消えていった。
健と灯は、そうして一路東へ向かう。
美しい牡丹一輪を盗んだ花盗人(はなぬすびと)は、最後の大仕事を終え、紫草(むらさき)の生い茂る遥か遠い故郷へと帰っていった。
当然、内裏では御子のお姿が見えなくなったと帝や御息所が心配あそばされた。
しかしどうしたことか、事の詳細を知る者がいない。
なんとか1か月ほど経って、ひとりの衛士(えじ)が行方をくらましたことが露見した。
早速帝は追補の使いを下されたが、勢多の橋が壊れて、東国へは行くも行かれない。
橋の修理も相重なり、使いは三月もかかってようやっと武蔵(むさし)の国へと辿り着いた。
使いは件(くだん)の男の家を探し出すと、果たして宮はその邸(やしき)におわした。
ところが、宮がその使いを召しておっしゃるには、
「私には、こうなる巡り合わせがあったのでしょう。私がこの男の故郷を見たいので連れて行けと言いつけたのです。ここはとても住み心地のよい国です。こうなってしまった以上、この男が罰せられお仕置きでも受けようものなら、この先私にどうせよというのですか。私がここへ来たのも前世からの約束。帰るつもりはありませんと、早く戻って帝にこの旨をご奏上ください」と。
仕方なく使いは京に戻り、そのままを帝に申し上げた。
すると、帝は男を処罰したところで宮が取り戻せるわけではないと仰せられ、男に武蔵の国を預け取らせ、租税や労役も課さぬとお取り決めになられた。
無条件で武蔵国を姫宮にお預けあそばすためである。
この宣旨が下ったため、男は邸を内裏のように造り、姫宮をお住ませ申した。
その邸を、姫宮たちが亡くなってのち、寺に作り替えたのを竹柴寺(たけしばでら)と名付けたという。
その男と姫宮の子供たちは、今でも武蔵の姓を名乗っているということだ。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、このことがことさら簡単に、時代をさかのぼって記されている。
皇女を盗まれるという、朝廷にとっての恥を隠蔽(いんぺい)するための、簡略化された記述であるらしい。
ふたりの若者の恋は、歴史から完全に抹消された。
しかし、わずかな人間のわずかな口伝により、ふたりは永遠の愛を後の世に伝えることとなったのである。
紫のひともとゆゑに 武蔵野の
草はみながら あはれとぞ知る
(古今集雑上・読み人知らず)
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「……そのようないきさつがあり、その後宮中の火焚屋(ひたきや)には女が詰めることになったのだということです」
私は尼君のお話が終わっても、しばらくぼんやりとしていました。
私と同じ年頃の美しい姫宮……。
身分のない男を愛し、東国へ下ったとき、彼女はどのような思いだったのでしょう。
私は、ずっと京に憧れていました。
そしてようやっとその望みが叶い、こうして今京への旅路の途中にいます。
けれど姫宮は、私が早く離れたいと思った東国が、京よりも住みやすかったというのです。
もしかすると、私もいずれ東国に帰りたいと……何もないけれど、のどかで平和なあの東の果ての国へ、帰りたいと思う日が来るのでしょうか。
「あら、こちらにいましたのね。姫、孝標(たかすえ)様がそろそろ出立しようとおっしゃっておいでです。さぁ、準備をいたしましょう」
と、継母(はは)が私に出立を知らせに来てくれました。
私は丁寧に尼君にお礼を言うと、部屋をあとにしました。
尼君は、
「またいつか、お会いできるとよろしいですわね、姫君さま」
そう言って私たちを笑顔で送り出してくださいました。
…もしかすると。
尼君こそが、姫宮の子孫だったのかもしれません。
外はもうすっかり雨も止み、雲の隙間からわずかに美しい青空が見えています。
けれど私の心は少し複雑でした。
たしかに、意外なところで物語を聞けた喜びは大きく、小躍りしたいようにさえ思います。
それでも何故か、淋しい気がするのです。
それはきっと、長い間暮らした上総(かずさ)の国からどんどん遠ざかっているからだと思います。
私はあまり好きではなかったはずなのですが、今から思い返すと、上総の人々は優しく明るくてとてもいい人たちでした。
雲はのんびり流れ、小川の音はさらさらと心地よく、蜻蛉(あきつ)は仲良く群れていた、私の心の故郷(ふるさと)……。
いずれ時が満ちたとき、私もそこへ帰りたいと思います。
恋ゆえに都を捨てた、あの姫宮のように……。
「姫? どうかなさったの?」
「…いいえ、お継母(かあ)さま。今参ります!」
私はいずれ、日記を書こうと思います。
そしてそこに、衛士と姫宮の恋を綴(つづ)るのです。
口伝えではいつか途絶えてしまうでしょうが、日記としてでも書き留めておけば、後々の世の人にも伝わっていくことでしょう。
輝くばかりのふたりの若者の恋は、いつまでもいつまでも人の心に残るはず。
そしていつの日か、この物語に、私と同じように胸をときめかせる少女の目にとまって欲しいと思います。
そしてまた、日記の中に綴りたかった私の心をわかってくださる方がいたら……私は、とても幸運に思うのです。
───やがて彼女の書いた日記は、
『更級日記』として
後世の人に広く知られることとなる───
End
<After Words> |
さてさて。5回にわたって連載してきましたこのお話。めでたくこれで完結と相成りました。 つまり『更級日記』からネタ引っ張り出してきて『続日本紀』でウラ取って、それをもとに創作したお話であります。 ので、たぶん(絶対だろう)フィクションですので、そのへんはご了承願います。 ……実は多貴さんと江斗さん書くのが一番楽しかった、って言ったら、怒ります? しかし、やはり歴史物は難しいですね。時代考証ってものが。だからこの際なので、かなり無視してます。 健と灯に関しては、平安初期の時代設定でして。そうすると、服飾史的に、まだ十二単の時代じゃないんだなぁ。 けどどうしても十二単で書きたくて。 でもそのくらいに時代ずらすと、更級の時代に伝説になるだけの時間がない……! そう言った意味で、かなりの葛藤もあった作品です。 そのぶち切れた結果が江斗さんだったりするんですけどね。生粋のナンパ師っていうか。平安なのにね。 でも、けっこう背景的には考えてたりするんですよ、これでも。灯はフィクションですけど、灯の母は実在します。 3代皇女で皇妃でもと斎宮で、寵愛を受けられなかった美人の内親王。お暇なら探してみてください。 何より、「愛してる」という言葉が使えないのが痛かったなぁ…。 なぜだかわからない人は、古語辞典でもひいてみてください。 ちなみにこの壁紙の色は紫村濃(むらさきむらご)の襲。五節から春にかけての色なんで、季節違いますが(汗)。 あっ。長いわ。あとがきが。……5つ分だものね。連載もの第1弾、これにて終了ー!! |