僕と神様

October 13th, 2003

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− 1 −

 さわさわさわ……。
 風の声が渡る。
 無造作に積み上げられたような石の、その合間を縫って。
 それはまるで灰色の迷路。
 迷いながら進めば、その先に何かが見つかりそうな、不思議な感覚を起こさせる。
 大きな石は長い時間を風雨にさらされ、崩れかけながらそれでも直角を保つ。
 きちんと組まれていたはずだが、今では壁にも道にも隙間が目立ち、そこからひょろりと高い草が生える。
 かつてあっただろうにぎわいは、遠い幻だ。
 人の気配のない町には人が暮らしていた、その痕跡だけが残る。
 暖炉の形をした石組みがぽつんと離れて置かれているのが、遥か昔の人の吐息を感じさせてより一層物悲しい。
 滅びた町は残骸だ。
 けれど、その声は残っている。
 聞こえる。


 風化しそうな石碑の表面を、丁寧に払う。
 そこには乾いた砂に埋もれて、刻み込まれた字があった。
 見たこともない文字。
 すり減って読みにくいその文字を、ひと文字ずつノートに書き写していく。
 町の高台にあったせいで雨の影響が大きいらしく、水の流れた筋が深い。
 それが文字を読むのを阻んでいた。
 間違えないようにそれを写していくのは結構な重労働だ。
「やぁ。熱心ですね」
 後ろから突然声をかけられて、振り向く。
 大きなリュックを背負った中年の男が、にこにことしながら立っていた。
 恰幅がよく、旅慣れた感じがするが、その笑顔にはまったく毒気がない。
「……あ、こんにちは」
「こんにちは。勉強ですか?」
「えぇ、はい。考古学の研究を…」
「考古学? じゃあ、学者さんなんですか! 随分お若いですねぇ」
「学者って言えるほどのものでもないのですけど」
 慌てたように首を振ると、男は声を上げて笑った。
「でも研究なさってるんでしょ? 学者さんじゃあないですか」
 そうして言いながらリュックをおろす。
「せっかくですから、ご一緒しませんか」


 ふたりは高台の端で共に昼食を広げた。
 男はやはり考古学のために各地を回っているのだという。
 違うのは趣味が高じてこうなってしまった点だ、と笑っていた。
 こうして旅先で交わす情報は、思った以上に効果を上げることがあるのだ。
「…ふむふむ。そうですか。東の遺跡ですね。たしかに、あの地点からずいぶんと出土品に変化が出ているようには思っていましたが。………それにしても、本当にお若いですねえ。お幾つなんですか」
「14、です」
「ほー。ではうちの息子と同い年ですよ。うちのなんて滅多に家に寄りつかずに友達と遊んでばかりでして。あぁ…まぁ、父親がこれですからね、私が大きな口を叩けるもんでもないんですが。…ん? もしかして、あなたクレアウェイさんでは…?」
「え? 僕の名前は、たしかにエリオット・クレアウェイですけど……なぜ僕を?」
「やっぱり! 噂を聞いてたんですよ。年若い考古学者が旅をしてるって。こりゃ幸運だ!」
 男は大きく腕を広げてみせる。
 その手が、後ろにあった丸い石に当たった。
 弾みで石がぐらりと揺らぐ。
 それに気付いてとっさに手を伸ばした。
 ぱしん、と触れた石の冷たさ。
「おっと…。ありがとうございます。いやあ、新進気鋭の学者さんにお会いして、つい興奮してしまいましたよ」
 それには愛想笑いを返す。
 新進気鋭だなんて言われて恥ずかしかったせいだ。
 まさかそんなに有名になっているだなんて思わなかったから。
 しかし、それよりなにより、触れた石が……小さく脈打ったように感じた、それが印象に残った。





 男から近くに町がある、と聞いてその町に着いたのは日も落ちてしばらくしてのことだった。
 地図で見ている限りではそこに町はないはずだが、着いてみて納得する。
 そこは町といっても民家が数軒と宿屋が一軒あるだけの小さな小さな町だ。
 一応町と名は付いているが、どんどん人が出て行ってしまい、名だけが残ったのだそうだ。
 宿の一室を借りて背負った荷物を下ろすと、ふっと力が抜けた。
 窓の外の夕闇は、深い。
 静かな町の静けさが、より一層その色を濃く感じさせているようだ。
(…ここも、はずれか……)
 日の落ちていく景色よりも深い吐息がこぼれた。
 おそらく急に力が抜けたのも、そのせいなのだろう。
 荷物の口からはみ出しかけているノートを引っ張り出すと、椅子には座らず床に直接座り込んだ。
 ベッドに寄りかかって、使い込んだノートのページを繰る。
 どのページにもびっしりと文字や図が書き込まれている、その最後のページで指が止まった。
 小さな石碑の絵、そこから細い線が伸びて、形や寸法が細かく記してある。
 さらにその下には、奇妙な記号の羅列。
 石碑に書かれていたものをそのまま写したもの。
 おそらく文字なのだろうが、見たこともない。
(モルフ族の古代文字にも似てるけど。いや、印象が同じなのはラダルカ遺跡の象形文字…かな。でも、どっちでもない……)
 もちろん、自分が知らない文字である可能性は高い。
 いくら世界各地の文字を研究したことがあるとはいえ、この年齢では実績自体はあまりないのだ。
 けれど、これだけはわかる。
(とりあえず、ここは、僕が探してる場所じゃない)
 本当はそれがわかれば十分なのだ。
 ただ、探すためのヒントがここにないとは限らない。
 それに目的がどうあれ、興味があってこの学問を研究しているのにはかわりがないのだから。
 今度は肩の力を抜くために、小さく息をついた。
 そうして荷物から、分厚い研究書を取り出す。
 これが既存の文字であるかどうか、まずはそれを確認しなければならない。
 誰も研究したことのない未知の文字ならば、それは研究にまた新たな光をもたらす。
 やがて窓の外が完全に闇に閉ざされても、本のページをめくる音が静かな部屋に響いていた。


 こつん。
 最初は、それだけの微かな音。
 研究書に没頭していたエリオットは、はっと顔を上げた。
 どこから音がしたのだろうと耳を澄ませるが、部屋の中からはかさりとも聞こえない。
 気のせいだろうと思って、手元に視線を落とした。
 …こつ、こつ。
 今度は、2回。
 思い切り振り向くが、やはり音はしない。
 もう一度俯くように本を眺める。
 けれど今度は、文字を目で追いながらも、また音がするかもしれないと耳をそばだてる。
 自分の呼吸の小さな音。
 寄りかかるベッドがわずかに軋む音。
 静かだと聞こえる、しぃんという音ではない音。
 誰かが廊下でも歩いているのかと気配を探るが、それもない。
 ……こん、こん、かつ。
 がばっと立ち上がって、窓を見た。
 最後にした固い音、あれはガラスの音だ。
 いつの間にか日は暮れきって、格子の桟にはまったガラスの向こうは何もないただの闇。
 そういえば、この窓の向こうには小さな万屋があるだけだった。
 もう店をたたんでいるのだろう、灯りはひとつもない。
 その窓から…叩く音?
 手がつかまるものを求めて彷徨う。
 指先をかすったベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。
 心臓が大きく脈を打っているのがわかる。
 正体不明の音に怯えているのだ、と自覚する。
 そうして。
 ふいに、暗闇の中から、ひょいと手が伸びた。
「……っ」
 息をのむ。
 ガラス越しに見える握り拳は、幽鬼のもののようで。
 微動だにすることもできなくて、それを眺めていた。
 その手は、やがて窓を叩く。
 かつ、かつ。
 かつ、かつ。
 かつ。
 …………。
 止まった。
 するとそれは手を開いたかと思うと、窓枠に指をかけて、
 窓を開けた。
 驚いて声を上げる間もあらばこそ。
 もう片方の手が現れて、桟を掴む。
 あっ、と思った時には、懸垂の要領でそれは顔を出していた。



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