〜東京の空の下 (前編)〜

March 13th, 2001

★ ★ ★







 ぱたり。
 耳元で、何か音がする。
 寝ぼけた頭でぼんやりと考えて、やっと思い至る。
(ああ…これ…水の音かな。雨……)
 そう、そういえば、昨日の夜に見た天気予報、あれで確か今日の予報は昼過ぎから雨、そんなふうに言っていたっけ。
 でも今はたぶん朝なはず。
 また天気予報がはずれたな、と寝ぼけた頭で思った。
 今日は日曜日。
 大学もバイトも何にもない日。
 普段からばたばたと忙しくて、実は何もない日だなんて滅多にない。
 だからこんな日は珍しくて、どうしていいかわからなくて、結局寝て過ごすことにした。
 なのに普段通り早い時間に目が覚めてしまう自分の習性。
 そんなもんなんだな、と納得する。
 が。
 そこまで考えてからようやく何かがおかしいことに気がついた。
 雨の音が、耳元で?
 ベッドに寝ているのに、耳元で雨の音なんてするものだろうか?
 そう思って、重い瞼を開けた。


 白い天井。
 使い古したカラーボックス。
 ずいぶん昔から貼ってあった壁の懐かしいポスター。
 自分の部屋だ。
(もしかして目が覚めると異世界で、ちっちゃい人間がオレのコト囲んでたりして!?)
 などと一瞬わくわくしていただけに、がっかりする。
 まあ、たぶんそんなことは起こりえないことなんだろう。
 そんなものは、テレビだとか本だとか、人間の空想が作り出す世界にしかあり得ない。
 変な期待をしてしまったものだと体を起こす。
 寝て過ごすつもりだったが、目が覚めてしまっては仕方ない。
 図書館にでも行って本でも借りてこようかな、と思って、自分の無趣味に再び気付かされてしまう。
 読書だの音楽鑑賞だの、通り一遍の言葉が本当の趣味だとは思わないし。
 そんなことを思ってるから無趣味なんだろうな。
 そんなおかしな納得をして、ベッドから足をおろした時。
「わっ」
 甲高い声。
 声?
 足元で?
 今日は朝から妙なところで妙なものを聞くもんだ、などと思う。
 しかしそれどころではない(こんな時寝ぼけているとは便利だと思うが)。
 ぼーっと視線を落としてみる。
 緑の服に、赤い帽子の……ちっちゃいやつ。
「……誰、おまえ」
 寝ぼけた人間の寝ぼけた言葉に、そのちっちゃいのは心底驚いたようだ。
「は? 誰だ…って。ずいぶん剛胆なのがいたもんだね。僕が見えるだけじゃなくて、見えても驚かないんだもんなぁ」
「ふつう、見えないもん?」
「じゃないの?」
 のんびりとした会話。
 傍目から見たら奇妙なことこの上ないだろう。
「…で、何してんの」
「いやー、道に迷っちゃったもんでさ。何か食べるものないかな、とか思ったんだけど、なかなか見つからなくて」
「食うモンならオレの部屋より台所じゃねぇの?」
「あー、なるほどね」
 そらっとぼけたやつだなあとお互い思いながら、何となく並んで歩き出した。
 歩幅は全く違うものの、ちっちゃいのは割と敏捷で、同じ速度でついてくる。
 とりあえず、敵意はないらしい。






 おざなりに顔を洗って、ラックからタオルを取り出す。
 その頃になると、さすがに目も覚めてくる。
 冷たい水で頭もすっきりしたところでちらりと目をやると、そこにはやっぱりちっちゃいのがガラガラとのんきにうがいなどをしている。
(…オレが寝ぼけて幻覚を見た…ってワケでもなさそうだなこりゃ)
 そんなふうに冷静なのは、まだ脳味噌が寝ているせいなのか、あまりの事態に脳の回路でもイカれてしまったのか。
 どっちにしても、尋常ではない。
「…んで? 道に迷っただなんて言ってたけどさ。何の目的でうろついてたんだ」
「んー? 遠足」
 はあ?
 思わず膝が萎えそうになった。
 こんな異常な事態で、「遠足」とくるとは。
「人の家に上がり込むことが遠足なワケかい」
「そういうわけでもないんだけど」
 言って、そばに置いてある帽子をかぶり直す。
「ほらさあ、上野動物園あるじゃん? あそこで遠足だったんだよね。で、現地解散だったから、浅草に行って雷門でも見てこようかと思って日比谷線に乗ったまではいいんだけどね。間違えて中目黒方面に乗っちゃってさ。しかもそのまんま乗り越して、気付いたらここ」
 今度こそ、完全に膝が萎えた。
 すっかりしゃがみ込んでしまったのを見て、そのちっちゃいのはどうしたの? などとのんきな質問。
 上野動物園はよしとしよう。
 しかし、なぜ雷門。
 渋い。
 渋すぎやしまいか。
「……ずいぶんローカルな東京見物だな」
「そお? だって東京って言えば雷門じゃないの?」
「他にもあるだろうが。東京タワーだとか。お台場だとか。雷門だなんて、長年東京に住んでるオレだって意識して行ったことねぇぞ」
「あれあれ、もったいない。あそこのおこし有名じゃない。それに花やしきだとかさ」
「…花やしき行くならまず某有名なテーマパークの方が先じゃないか? 千葉は浦安にある日本一有名な」
「ああ、それもいいねぇ。あれ、スターツアーズを出てすぐのところにあるフローズンヨーグルトがおいしいんでしょ。ストロベリーが特に」
「………」
 目の前にはちっちゃいの。
 それはとても非日常的なことだ。
 そのはずだ。
 なのに、この日常味にあふれた会話は何だろう。
「…ってえかおまえ、どこから来たわけ」
「地下」
「は?」
「だから、土の底の、国からね」
「あんな穴だらけの土の中にか?」
「お兄さん、案外頭固いねぇ。別次元ってこと考えられないかな。それにねぇ、妖精の国っていうのは海の果てか地の底にあるのがセオリーなの。ご存じ?」
「いや、初耳。それよか…おまえ、妖精なワケ?」
「キリギリスだとでも思った?」
 ははあ道理で、と思う一方、どうなってるんだ、と思う。
 それはまさしく神話だの物語だのの世界ではなかったろうか。
 頭を抱えてしまうが、だからといって何が変わるわけでもなさそうだ。
 仕方なくダイニングに戻り、朝食にすることにした。
 もちろんちっちゃいのもついてくる。


 朝食はふわりと仕上げたスクランブルエッグに、かりかりに焼いたベーコン。
 それにコーヒーとトーストを添えて簡単にすませることにした。
「で、おまえ何を食うわけ」
「んじゃあお言葉に甘えて。ミルクをくれる? あと、豆類はないかな」
「昨夜の残りのグリンピースがあるけど、それでいいか」
「あっ、大歓迎!」
 そんなやりとりで、奇妙な朝食は始まった。
 全く奇妙だ、と思う。
 ひとり暮らしだったからよかったものの、これで家族がいたら大騒ぎになるだろう。
 たぶん「僕が見える」云々と言っていたからには家族には見えないのかもしれないが、こうしてちっちゃいのの分まで朝食を用意している姿を見られたら、気が触れたと思われるに違いない。
 嬉しそうにグリンピースをほおばるちっちゃいのを見て、ちっちゃくてもちゃんと動くんだな、なんてどうでもいいことを思った。
「うんうん、このバターの量がちょうどいいね。お兄さん、料理うまいんだ」
「…家出てひとり暮らししてるからな。必要に準じて、だな」
「家出?」
「馬鹿言うな。学校通うんで便利なとこに住んでんだよ」
「ふうん。ご両親は都内なの?」
「ああ。といっても千葉に近いんだけどな。旧江戸川のそば」
「じゃあここからそんなに離れてないんだ?」
「まあ、な。でもあそこからだと、通学に1時間よけいにかかるからさ。朝の1時間は貴重だろ」
「そうだねぇ。しかもちょっと自立してみたい頃でもあるよね」
 納得したようにうなずく姿は、どこからどう見ても人間だ。
 しかしやはり大きさが違う。
 手首から中指の先まで、そのくらいしかないのではなかろうか。
 それにしたって、自分に見えるのだから他にも見える者がいるのだろう。
 この大きさのがふらふらしていたのでは目立つだろうに。
 よく東京がパニックに陥らなかったものだ。
「それよりさ、おまえこれからどうすんの? 帰り道とかわかるのかよ」
「……んー。わかるよ。それよりさ、それまでに東京見物したいんだけど!」
「はあ!? 学校の連中は心配しないわけ」
「大丈夫大丈夫。妖精の気まぐれはいつものことなんだから。それより、連れてってよ。やっぱこのサイズだとさ、地下鉄乗るのも大変なんだよねー」
 あっけにとられた。
 妖精のイメージ(少しばかりかじったことのある童話だののイメージに限られてしまうが)からすれば、移動は何かの羽に乗ったり植物の綿毛に乗ったりして行うのだろうと想像していた。
 それが地下鉄と来たか。
 そういえばさっき、日比谷線がどうのと言っていた。
 妖精と地下鉄…考えたこともない取り合わせだ。
 そこで、さらにどうでもいいことを思い出した。
(…ってえか、上野から浅草に行くんなら日比谷線じゃなくて銀座線に乗んなきゃ行けねぇじゃねぇか…)
 まあ、いいか。
 どうせ暇だったところだし。
 今日1日、こいつにつきあうことにしよう。
「で? どこが見たいんだ?」
「国会議事堂!!」
「あ!?」






 その日はまるで、はとバスのコースのよう。
 やはり天気予報ははずれて、よく晴れた1日だった。
 国会議事堂やら東京タワーやら、ご年輩の方々の多い道筋をたどって、結局最後は浅草に落ち着いた。
 当たり前だ、こんな穏やかな日曜日、そんなお定まりのコースを若者が選ぶはずもない。
 近頃は遊ぶところもたくさんあることだし。
 ちっちゃいのはそういっても頑強にそこを主張し、結局古い名所ツアーになったというわけだ。
 たぶん時間があったら横浜の中華街だの山下公園だのを見に行きたがったに違いない。
 夕暮れの迫る浅草の町、群がるハトの背中に乗ってちっちゃいのは遊んでいる。
 下町、という風情の残る商店街を見つめて、ほんの少し息を吐いた。
 そういえば、自宅の近辺もこんな雰囲気だ。
 隣近所がみな知り合いで、夕餉の時間には隣の家の夕食の香りが漂ってくるような。
 木造の家の暖かさ。
 自宅はもうずいぶんと前に建てかえて、偽物のレンガ張りの洋風建築になってしまっていた。
 けれど、その雰囲気は失わないもんなんだな、と思う。
 どんなに洋風にしたところで、日本が持つ懐かしい雰囲気はそのままだった。
 今、こんなにビルが建ち並ぶ。
 ここから見ている風景にも、あんなに大きなビルが。
 そうしてどんどん大きな建物が建っていって、むやみに人が集まって、どす黒く汚れたような町を作っている…東京はそんなところだと思っていた。
 たしかに、上を見上げているだけではそう見えるだろう。
 けれどちょっと裏路地に入り込めば、こんな町はいくらでもある。
 捨てたもんでもないんだな。
 ほんの少しだけ、この東京という街が好きになれそうな気がした。
(…かもしれねぇな。どんな昔話も「作り事」ですませちまうもんだと思ってたけど。あんなちっちゃいのがうろついてるくらいだもんな。まだ、死んじゃいねぇのかもしれない……)
 そんなふうに考えていた、その耳に。
 どこからか声がした。
 まただ。
 しかも今度はどこから聞こえているのか、よくわからない。
 鈴を降るような、女の声だった。
「ねえねえ、知ってる? いたずらトム、またいなくなっちゃったんですって」
 それに答えたのは、それより少し低い女の声。
「あらまあ。今度はどこへ行ったのかしらね。あの子は人間が大好きだから!」
「そうなのよ。きっとこっちに来られたのが嬉しくて、飛び出して行っちゃったんだわ」
 周りを見回しても、その声に気付いたような素振りを見せる者はいない。
 おそらく気付いても、何とも思わないのかもしれないが。
 だがあのちっちゃいのを見ても何も言わないのだから、たぶんちっちゃいのが見えていないのと同じように、この声も聞こえていないのだろう。
 そう確認したわけではないが、その声は妖精なんだろう、と何となく思った。
 そして、あのちっちゃいのが「トム」なんだろうと。
 だがそんなことはどうでもよかったりするのかもしれない。
 こんなふうに、暖かい下町と天を突くビルの群れが共存する東京。
 混じり合ってまるでマーブルのような模様を作り出す街なのだ、ここは。
 ならばいいじゃないか。
 たまに、妖精なんかが混じり込んだとしても。
「なぁ、そろそろ帰らねぇ?」
 そう声をかけると、ちっちゃいのは笑いながらぱたぱたと駆けてきた。
 ああそうか、と思う。
 朝耳元で聞こえた音。
 あれはちっちゃいのが耳元を駆けている音だったんだ。
 けれど、なぜ耳元を?
(……ま、どうでもいいか)





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<After Words>
妖精と少年(あれ、青年になるのかな…?)のお話。
以前書いた「水晶の森」の逆バージョンです。
あれは幼い少年が妖精の世界へ迷い込んじゃう話でしたけど。
そうそう、これはノート型PCを買った時、辞書を慣らすために手慣らしで書いたお話ですね。
だからつまり「何も考えず」に書いちゃったわけですねー…あはははは。
しかも続く。



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