〜東京の空の下 (後編)〜

March 31th, 2001

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 ちっちゃいのは、夕食にもグリンピースを食べていた。
 昼食もサンドイッチのパンのはじっこと中に挟まっていたレタスだけ食べていたから、妖精とはそんなものなのかもしれない。
 一応自分用に作った焼き魚を勧めてみたが、どうも好みには合わないらしい。
 そんな和やかな夕食。
 ちっちゃいのがちっちゃくなければ、妖精だということを忘れてしまいそうだ。
「…しかしなぁ。つまり、人間の世界へ遠足、ってコトだったんだろ?」
「何をおもむろに。そうだよ」
「何だって東京なんだ?」
「そんな、訳なんか聞かれても」
 ちっちゃいのはきょとんとする。
「だからさ。いろいろあるわけじゃん。だって妖精って、自然の生き物なんだろ?」
「そういわれてるねぇ」
「だとしたら、どんどん自然が失われていくこの街に警告をするために現れたとか」
「…何、それ。どこのSF小説?」
「いや……まあ小説なんだけどよ。よくあるじゃねぇか」
 ちょっと困ったようにそう言うと、ちっちゃいのは楽しそうに笑った。
 文字で表すのなら、きゃたきゃた、とそんな感じで。
「まあねえ。確かにどんどん植物が減ってるね。それだってこの街に限ったことじゃないけどさ。でもお兄さん、一つだけ忘れてない? 僕たち妖精も自然の生き物だけど、人間だって自然の一部なんじゃないの」
「……そっか」
「そうだよ。ただまあやっぱり、一方的な立場をとるんじゃなくてさ。双方向の意思のやりとりがあってもいいんじゃないかと思うんだけど」
 ちっちゃいのは昔はね、と言葉をつなげる。
「昔はね、みんな僕たちが見えてたんだよ。いろんなところにいろんな話が残ってるね。そんなのとかも、本当の思い出。いつの間に僕たちが見えなくなっちゃったのかなぁ?」
 そう言ったときにだけ、ほんの少し寂しそうな顔を見せた。
 ああ、やっぱそうなのかな…その顔を見て、ぼんやりと思った。
 妖精に関する話は各地に残る。
 しかもそれが妙な共通点を見せていたりするから、何らかの形で話が伝わったのか、皆が同じようなことを考えていたのか、あるいは、
 ───本当に妖精がいたのか。
 そのどれかだと思っていた。
 けれどそのちっちゃいのは、すぐに笑う。
「でも、今回の遠足は純粋に遠足だよ。動物を見て、その絵を描いて先生に出すの」
 その笑顔は、本当にふつうの子供と同じで。
 自宅にいる年の離れた弟のことを不意に思い出した。
 そういえばずいぶんと帰っていない。
 そうだ、近いのだし、来週にでも帰ってみよう。
 小さな弟には、もしかしたらこのちっちゃいのが見えるかもしれない。
 きっと喜ぶだろうな。
 そう思った気持ちが、なぜかとても暖かかった。


 そうして、ちっちゃいのは枕の隣にハンカチをかけて寝転がる。
 どうやら泊まり込むつもりらしい。
 仕方ない、と息をはいて容認することにした。
 今日1日一緒にいて、情でも移ったのだろうか。
 それと、「風呂に入る」と言い出して洗面器を引っ張ってきたのに毒気を抜かれたせいもあっただろう。
「おやすみ」
 と同じ挨拶をして、ぱちりと電気が消された。
 真っ暗になり、音が途絶える。
 けれどちっちゃいのはしばらくもぞもぞとやっている。
 眠れないのだろうか。
「…眠れないのか」
「んー? 枕が違うから。僕って結構ナイーブなんだよね」
 なんだそれ、と笑ってから、そういえば、と切り出してみる。
「学校は大丈夫かもしれねぇけど。親とかは心配しないのか?」
「ああ、するかもしれないね。でも僕って結構鉄砲玉だから。こんなふうにいなくなることなんてしょっちゅうなんだ」
 ふうん、と相槌を打つ。
 すると夕方聞いた声、あれはやはりちっちゃいののことを言っていたのだろうか。
 とすれば、やはり気にかける者がいるのではないだろうか(単なる噂話なのだろうが)。
 そう思って、
「なあ」
「ん?」
「おまえ、トムって言うんじゃないのか」
「………どこでそれを?」
「浅草でそんな話を聞いたからさ。もうすっかり噂になってるぜ」
「……そう」
 心なしか、沈んだ声。
 どうしたのかと確かめようとしたが、そこに小さな声。
「もう僕眠いや。おやすみ、お兄さん」
 それなら、明日この話の続きをしてもいいか。
 だから、「おやすみ」とだけ返して、その夜は眠ることにした。
 音のない、静かな夜だった。


 翌朝目が覚めたとき。
 ちっちゃいのの姿はなかった。
 夢でも見たのかと思って時計を見ると、間違いなく「月曜日」の表示。
 そうして枕の隣には、寝乱れたようなハンカチがぽつりと落ちていた。
 他には何もなかった。


 2限の講義をぼんやりと聞き流して、昼休みに中庭のベンチを陣取った。
 ちょうど2限の授業が心理学の講座で、「子供たちが見ている幻想」という題目で妖怪やら妖精やらの話をしていた、そこだけ少し聞く気になったけれど。
 しかしそれもまた、「大人たちが子供に言うことを聞かせるために作り出したもの」だというありふれた落ちを聞いて幻滅した。
 たぶん、そんな現象なのだ。
 目に見えないものは信じない、という。
 そうして見たことのある者だけが、そうした目撃談を物語として後の世に語り継いでいくのだろう。
 だが見たことのない者にとって、それは単なるお伽話だ。
 いくら「見た」と言っても信じてはもらえないだろう。
 そんなふうに黙っているうちに、結局「それは幻だった」と自分自身に暗示がかかる。
 やがて、そうやって忘れていってしまうのだろう。
 では、この世界には、そんなふうに忘れ去られた生き物がどれだけ存在するというのだ?
 頭上を見上げる、その高い木々の葉の隙間から、昨日と同じよく晴れた空の色。
 なぜかぽかりと胸の中に穴があいた気がする。
 そう、それだから、「幻だった」と割り切る方が楽なのだ。
「よお、どうした、こんなとこで」
 視界を、影がよぎる。
 顔を上げると、背の高い男が立っている。
 その隣には長い髪を首の後ろで結んだ少女がひとり。
「あ……いや。別に。ただぼんやりしてただけ」
 その返事に、男はへえ、と首を傾げる。
「そうか? 普段は見た目裏切って熱心にノートとってるヤツがぼけーっとしてるってんで女史が心配してたんだぜ」
 見た目裏切った、ってのはよけいだ、と男を軽く睨み付ける。
「あはは、まあそんな怖い顔すんなって」
「よけいなこと言うからだろーが。オレの髪の色が薄いのは地毛」
「わかってるわかってるって。冗談だろーが」
 そのふたりのやりとりを少女が笑っている。
 少女が肩を震わせているのに気付いたふたりは、漫才のようなケンカをしかけていたことに気がついて照れた笑いを浮かべた。
「それより、ほんとに何かあったんじゃない?」
 笑いながら少女が言う。
 だから、ほんの少しまじめな顔に戻る…戻らざるを得なかった。
 少女は確かヨーロッパ文学専攻だったはず。
 ヨーロッパには数多くの妖精の物語が残っているのだと聞いたことがある。
 ならば、彼女は何かわかるだろうか。
「なあ……妖精って、信じるタイプ?」
「え?」
「なんだよおまえ、急になんの冗談?」
「冗談じゃなくてさ。別に信じないなら信じないでもいい」
 その真剣な様子に、ふたりはほんの少し圧倒されたようだった。
 男は困ったように黙り込むが、少女はふと何かを考えるようで、
「…そうね、鵜呑みにするわけじゃないけど。残ってる話の何割かは真実だったとしてもおかしくない、と私は思っているわね」
「じゃあ…妖精の国が土の中にあるってのは本当か? それから、妖精がいきなりいなくなるなんてことはやっぱりあるのかな」
 少女はさらに何かを考えている。
「……詳しく話を聞かせてもらえる?」
 少し黙ったあとで、少女はそう言った。


 朝起きたらそばにいたこと、その前に足音が聞こえたこと、土の中から来たという話を聞いたこと、それから夜寝るときに至るまで一通りのことを話した。
 時折男が笑いをこぼしたが、それも否定する響きはない。
 ただこの話を純粋におもしろがっているようだった。
 そうして話を聞き終わったあと、少女は深く息をついた。
「……やっぱオレは妖精を見たのかな。それとも、一日中寝ぼけてたのかな」
 そう聞くと、
「とりあえず尋ねておくけど。妖精の本だとか、研究書だとかを読んだことはある?」
「専門的なもんは、ないかな。子供の頃に読んだ、ピーター・パンくらいで。あとは、シェイクスピアの真夏の夜の夢は読んだけど…それが?」
「ということは、妖精に関する専門的な知識はなかったってことよね。……なら、それは妖精だったかもしれないわ」
 少女が言った言葉に反応したのは、実際には見たことのない男のほう。
「え! それってマジ!」
「各地に残された伝承がすべて正しい、と仮定しての話だけれどね。それに私だって専門で妖精学を勉強してるわけじゃないから」
 そう前置きして、少女はその根拠を挙げた。
 妖精の国は実際に地下深くだとか、海の向こうにあるのだと言われていること。
 その食事は森にあるものが主で、特に豆類が好きだと言われていること。
 服装は緑の上着に赤い帽子であるということ(逆の場合もあるらしいが)。
 そんなことを、ひとつひとつ挙げて。
「ただ、妖精は鉄が嫌いだっていうんだけど。地下鉄に乗れるのなら、その説が間違っているのか…あるいはそんな種族なのかもしれないわね」
 では、あのちっちゃいのはやはり妖精だったのか。
 そんなふうに思って、やはり、と思う自分をおかしくも思う。
 じゃあ、どこかであの存在を疑っていたのだろうか?
「枕元で足音がしたって言ってたけど…もしかしてそれ、フェアリー・オイントメントを塗られたのかも」
「フェア……何それ」
「フェアリー・オイントメント。日本語で言うなら、妖精の塗り薬、かな。この薬を瞼に塗ると、妖精を見ることのできる透視力…セコンド・サイトっていうんだけど、その透視力を与えられるっていうのね」
「…だからオレ、あのちっちゃいのが見えるようになったのかな」
「そうなのかもしれないわね……」
 僕が見える…僕たちの姿が見えなくなった……。
 頭の中に、そんなちっちゃいのの言葉が浮かぶ。
(何言ってたんだ、あいつ。自分で自分を見えるようにしときながらさ。ったく、矛盾したヤツ……)
 やれやれ、と思う。
 妖精は気まぐれだから、なんてそういえば言っていたっけ。
 そんなもの、自ら証明しなくても。
「…ああ、その子トムって名前だったのよね」
「らしいけど」
「だとしたらあの話、関係あるのかしら。トム・ティット・トットの話…。あのね、糸を紡いであげたかわりに自分の妻になれって言い出す妖精がいるのよ。でも、娘が彼の名前を言い当てるとトム・ティット・トットは消えてしまうの。…たぶん、名前には呪力があるんだわ。妖精の話の中で、名前を言い当てられて消えてしまう妖精の話がたくさんあるし」
 じゃあ、ちっちゃいのはあのとき名前を当てさえしなければ、今朝もまたのんびりとグリンピースを食べていたのだろうか。
 そうしたら、もう少しいろんな話をできたろうか。
 弟にちっちゃいのを見せてやることができただろうか。
「……もったいないコトしたなー……」
 ぼそり、つぶやく。
 少女は複雑な顔で笑い、うなずく。
 そんなしんみりした雰囲気に男は頭をかいて、ベンチの空いた場所に座り込んだ。
「…まぁ、いつかどっかで会えるんじゃねえの?」
「そうかな」
「じゃないかね。だっておまえ、フェア何とか…っていう薬塗ったから妖精が見えるんだろ? だったらひょっこり現れても大丈夫だって。それにさ、そいつ東京が好きなんだろ? 今度はフローズンヨーグルト食いにくるって。なあ、女史?」
「……そうね」
 3人は一様にして空を眺める。
 薄い筋のような雲が、すうっと流れていた。
 そのとき3限の始まりのチャイムが鳴っていたが、そこから動く気にはなれなかった。


 そんなこともあるかもしれない。
 ここは東京だから。
 いろんな人が集まって、いろんな思いを抱いて、いろんなことが起きる。
 すべてが混じって、そうして混沌の中に秩序を見いだす街だから。
 きっと、そんなこともあるんだろう。
 そうしてこの薄い東京の空の下、人はなくしてしまった何かを思い出すのかもしれない。





End




<After Words>
相変わらず理詰めですな。
「東京」って、結構それだけでネタになったりして。
いろんな人がいろんな解釈で、いろんなお話を書いていますね。
だから何っていうんじゃないですけど。
その中には、何かの1本の線が通ってる…そんな気がします。
とりあえず、遊佐未森さんの「東京の空の下」を聴きながら。



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