Story.1

〜鬼〜

第1章

June 17th, 2000

★ ★ ★







 夕方すぎから風が強くなった。
 上空の雲は飛ばされるように流れていく。
 そばの民家では自転車がなぎ倒され、バス停の標識には白い紙が張り付いてはためいていた。
「…………」
 呟いた声は、頭上の木が激しく葉を揺らしたためにかき消される。
「え? なに?」
 聞き返したのは幼い少女の声。
 ちらりとその方を向いて、今度はわずかにボリュームを上げて。
「嵐になるな、と言ったんだ」
「え? あ、そうねぇ。折角咲きはじめた桜が散っちゃうわ」
「そうじゃない」
「?」
 風よけにしていた木陰から、ふわりと何かが飛んだ。
 柔らかく揺れる紫の髪。
 鮮やかに澄んだ赤紫の瞳。
 ……透きとおった4枚の羽で、風に流されぬようにはばたいて。
 人のようなカタチ。
 けれど、手首から指先までくらいの背丈。
 人間では、もちろん、ない。
 それは昔語りでよく聞いた妖精の姿だったろうか。
 彼女を見て、少年はふと目をそらせた。
 渦巻く空気が空へ還っていく。
「北西の方角だ。そこにいる」
「いるって……奴ら?」
「他に何がいるっていうんだ」
 返された少年の声に、妖精の少女はあどけない目を細めた。
「……そうね。そのためにわざわざ来たんだもの」
「そういうことだ。早めに済まそう」
「うん、ここだけじゃないんだもんね」
 共に、その瞳に隠すものは。





 ──鬼が来るよ。
 近代化の波に染まらないのどかな村に、突如子供たちの間で囁かれ始めた噂。
 それがあまりに突拍子もなくて、大人たちは他愛もないと一笑に付した。
 しかし親がどんなに注意しても教師が呼びかけても、その噂は消えなかった。
 そしていくら調べてもその噂の発信源は突き止められなかった。
 いつの間にかあらわれ、いつの間にか流布していく。
 大人たちはいつしか、噂とはそういうものだと諦めていた。
 放っておいたところで害はない。
 そう結論づけられたからだった。
 けれど、今日もその噂は広まっていく。
 じわじわ、じわじわ、と波が岩を浸食していくように。
 ──鬼が来るんだよ。
 ──食べられちゃうよ。
 ──早く逃げないと、食べられちゃうよ。
 子供だけの内緒話。


 なずなの咲く野原。
 緑のじゅうたんに彩りを加える白い色。
 もう少なくなってしまった、手つかずの景色。
 吸い込む息は、草の香り。
 子供たちは草を踏み分けその真ん中を行く。
「なぁ、どうしてなずなが“ぺんぺん草”っていうか知ってるか」
「え? 知らない」
「ほら、ここんとこに袋がついてるだろ。これを取れないように少しずつ下に引っ張るんだよ、こうやって」
「こう?」
「そうそう。で、こんなふうにへろへろになったら、回すんだ」
 ぱちぱち、と耳元に持ってきたなずなが鳴る。
「なっ? “ぺんぺん”って鳴るから“ぺんぺん草”なんだぜ」
「へー、そうなんだ」
 昔は誰もが知っていたはずのこと。
 野で遊ぶ子供たちは減ってしまったから、伝えるものも少なくなった。
 遊び道具なんてなくても、遊ぶものを自ら見つけていた子供たち。
 その頃は、誰もがものを創(つく)る力を持っていた。
 だが、今は───。
 失ってしまったものは、意外に大きいのかもしれない。
「それよりさ、聞いた?」
「なにを?」
「鬼の話」
「あぁ」
 事も無げに子供は笑う。
「もうすぐ鬼が来るって、あれだろ」
「うん。もうそこまで来てるって」
「誠がいってたのか?」
「康太くんも」
「ふうん。どこに来るんだろ」
「それがね」
 そっと耳打ちして。


 ぱたぱたぱた、と羽音を響かせ、少女は小高い丘の頂上に戻ってきた。
「ただいまぁ」
 疲れたように、休憩用のベンチにばったりと倒れ込む。
 そばで地図を広げていた少年がちらと少女を見た。
「遅かったな、フェル。何か収穫はあったか」
「んー……収穫って言えるかしらね」
 フェルと呼ばれた少女は苦笑して、小さな体を伸ばす。
「気になったことはあるの」
「何だ?」
「噂話なんだけど。それがね、“鬼が来て食べられちゃう”っていうのなのよ」
 少年は、走らせていたペンをふと止めた。
「鬼、か」
 ずいぶんと懐かしい単語を聞いたような気がする。
 昔はよくいたずら好きな子供たちや、言うことを聞かない子供たちを諫めるためによく使われていた。
 あたかも子供部屋の妖精(子供部屋のボギー)の類のように。
 しかしそれも、目に見えて発達した科学の陰に今は身をひそめている。
「でもね、出所ははっきりしないの。子供だけが信じてるから、民間伝承とも違うんでしょうけど。今のところ、子供特有の遊びや悪ふざけだと思った方がいいんじゃない?」
 フェルが言うが、少年は考え込むのをやめない。
「……フェル。老人はどうだった?」
「え? だから子供以外はみんな信じてないわ。あたしたち妖精も住みにくくなったものよね」
 遠くを見るフェルに、少年はぽつりと呟いた。
「発信源、か」
 フェルは不思議そうに少年を覗き込む。
 少年は迷わず視線をあげた。
「もう一度調べてきてくれないか。その噂を知っている子供たちの数と、その大体の位置」
 言い切った少年に、フェルは驚いたように飛び起きた。
「またあ? 今帰ってきたばかりなのに。もうちょっと休ませてよね」
 とは言うものの、体はもう飛び立つ体勢だ。
 次から次へ言いつけるのはいつものことだ。
 もう慣れた。
「大体でいいんでしょ」
「あぁ。でも出来るだけ正確に」
「はいはい。つまりはしっかりと、ね。じゃ行って来るわ」
 曇った空に、フェルは高く飛んでいった。





 具体的な時間と場所が示されて、子供たちの間で噂はがぜん真実味を増した。
 忍び笑い。
 大人には教えてあげない。
 子供だけの秘密だから。
「じゃあ、4時に集合な」
「うん」
「なんて言って家を出よう?」
「何でもいいよ」
 誰にも知られない約束は、蜂蜜の甘さ。
 けれど一番小柄な少年がおずおずと声をあげる。
「でも…本当に鬼が来ちゃったらどうするの?」
 それを聞いた子供たちは一斉にその子を見た。
「どうするって?」
「やっつけるんだよ。なぁ」
「そうそう」
 それでもその子は心配そうに、
「だけど、食べられちゃうんでしょ?」
「何だよ、優真。お前怖いのか?」
「こ、怖いわけじゃないけど」
「じゃあいいじゃんか」
 押し切られて、その子は黙り込んだ。
 ──来るよ、鬼が来るよ。
 ──鬼は、子供を頭から食べちゃうんだよ。
 ──ばりばりばりって、骨ごと、食べられちゃうんだよ。





 厚く濃い色に染まっていく雲が、速度をあげて山の方へ遠ざかっていく。
 公園の端にある東屋の中を、強い風が吹き抜ける。
 木の机の上に広げていた地図が飛ばされかけた。
 それをしっかり押さえつけながら、空気を吸い込む。
 湿ったにおいがした。
(……一雨来るか)
 あたりは昼間であるのに、雲に光を遮られて薄暗い。
 生温い風は不穏な気配を運んできていた。
 この村のどこか…巧妙に隠されているものの、奴らはここにいる。
 独特の臭気が、張り巡らせた神経を刺激するからだ。
 どこだ?
 どこにいる?
 地図を睨みつけて。
 風はいっそう強くなった。
 と、そこへ羽音をたててフェルが帰ってきた。
「もう一回ただいまぁ」
 先刻よりもさらに疲れ切った様子で机に倒れ込む。
「どうだった?」
「ちゃんと調べてきたわよ。だからちょっとくらい息つかせる暇ちょうだいよね」
 フェルはたらたらと文句を言いながら机の上で足を伸ばした。
 長いこと飛んできて疲れたのだろう、しきりに背中のあたりを気にしている。
 それに気が付いたのか、
「フェル。もうすぐ雨になる」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、フェルは嫌そうな顔をした。
「雨? 本当に? イヤねー、雨って羽が重くなるからキライなのよあたし」
「不便なものだな」
「そーなのよ、これって便利なんだけど、それなりに弱点はあるのよね」
 言って、盛大な溜め息をついてみせる。
 が。
「…それで、噂話のことなんだが」
 いきなり話を蒸し返されて、フェルは唖然としてしまった。
「あたしの話、聞いてた…?」
 確かに“ちょっと”でいいと言ったけれども。
 これは本当に“ちょっと”すぎやしまいか。
「あたし……とんでもない仕事バカをパートナーに選んじゃったみたいね……」
「何か言ったか?」
「なにも言ってませんっ」
 やれやれ、とフェルは肩をすくめた。
「ええっとね、まずこの辺では……」
 ……と。
 ふいに、なにも言わず少年が立ち上がる。
 あまりに脈絡がなくて、フェルが怪訝な顔で彼を覗き込む。
 すると、彼は公園の広場の方を厳しい目つきで睨んでいるではないか。
「……すばる? どうしたの」
「奴らだ」
「え?」
「すぐそこまで来てる」
「!!」
 間髪を入れずにフェルが身構える。
 言われるまで気付かなかった、かすかな気配。


 わずかに時が流れる。
 気配は、攻撃を仕掛けるにはまだ遠かった。
「ねぇ、すばる。“鬼”って言うのはもしかして…」
「それ以外のなんだと思っていたんだ?」
「…なんでもないわね」
 小声で。
 否応なしに緊張感が高まってくる。
 フェルは既に体中に力をみなぎらせて、臨戦態勢に入っていた。
 すばるもそっと印を組む。
 気配は、普通の人間にはわからないくらいの微弱なもの。
 すばるとて感覚が鋭い方ではない。
 だが、長いことその気配を感じていたから、いつの間にか慣れてしまった。
「…そろそろ行くか」
「OK。まずはどうするの?」
「とりあえずシルフをぶつけて出方をうかがう」
「わかったわ」
 すばるは息を整える。
 広場の中央、なにもなかったはずの場所。
 ゆらり、空間が揺れる。
 まるで陽炎(かげろう)のように。
「…天に空(くう)に住みませる幾多数多の精霊たちよ」
 低く唱えるすばるの両の手のひらに、常人には見えない光が集まる。
「その加護を我に与えたまえ。我は引き寄せる者、憑かす者、汝らが力を使役する者なり」
 その光はふわりと小さな珠になって、宙に消えていく。
 そしてそれは、消えたときと同じように突然フェルの頭上で輝いた。
 フェルに降り、フェルを包むひかりとなる。
「我が命においてその力を示したまえ。精霊召還、降りよ…シルフ」
 宣言と共に。
 フェルの姿が、空気のベールに包まれたように揺らぐ。
 揺らいで…画像が乱れ、ノイズが散る。
 ほんの一瞬の出来事だ。
 フェルの足元から風のようなものが吹く。
 クリアになった視界。
 そこにいた黄緑色の髪の妖精は、フェルではない姿。
 肩に掛けた布が、風に逆らってなびいていた。


 フ…オォ……。
 ふいに響く声。
 身構えた2人の目の前に、見たこともないような小動物が立ちはだかる。
 まるで地から湧き出たように。
「フェル!」
 すばるの声に弾かれ、別の少女の姿をしたフェルがそれに突進する。
 が、見た目がどことなく猫に似たそれは、フェルを難なくかわす。
 急旋回で再び向かう。
 だがそれでも当たらない。
 何度となく繰り返して。
 ようやっと、フェルがそれにぶち当たった…が。
 するり、と、フェルの体は素通りしたのだ。
「……! すばる!」
「離還! 精霊召還、フレイム!!」
 状況を把握したすばるが告げる。
 再び、ノイズ。
 今度は、赤い髪を炎のように揺らす少女の姿。
「行っくわよぉ!!」
 変化した瞬間、フェルはもう飛んでいた。
 完全に不意をつき、それを捕らえた。
 …はずが。
「う、うそぉ……」
 それは燃え上がらない。
 どころか、毛の一本すらも焦げていないではないか!
 すばるは眉をひそめた。
 そして、
「…離還」
 呟く。
 とたんにフェルの体は点滅するように元に戻ってしまう。
「ちょ…っ、すばる! 還しちゃってどーすんのよ!」
 呆然とフェルがすばるを見た。
 すばるは両手を降ろしていた。
 印を組んでいない。
「……シルフやフレイムじゃ効かない」
「ええぇっ!? じゃあどうするの!?」
「さぁ。どうしようか」
 無表情で、さらりとすばるは言ってのけた。
 フェルは青い顔で猫に似たそれを見つめる。
 それは、殺意を持って2人を睨みつけていた。





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