Story.1
August 29th, 2000
★ ★ ★
生ぬるい風が吹く。
そいつと向き合ったまま、時間だけが無駄に消費されていく。
その化け物は、ふたりを睨み据えたまま微動だにしない。
おそらくこちらに隙ができるのを待っているのだろう。
それを知ってか知らずか、身構えることをやめたすばるは、ただじっとそれを眺めていた。
フェルはそんなすばるの様子を目で追ってから、小さく息をついた。
(……すばるが呼ばないって決めてるんじゃ、どうしようもないわね……。だったらせめて、あいつを追い払うくらいのことはしないと……)
そう、今のふたりに呼べるのは、シルフとフレイムしかいない。
しかしそれが効かないとなると……。
あとはどうやって、無事に奴から逃げるか、しかないのだ。
泣き出しそうな空───。
だが、フェルも奴から気を逸らすわけにはいかない。
フェルが気を逸らせば、奴は一気に襲いかかってくるだろう。
(あああ、もう……どうしたらいいのよっ)
逃げるためには、どちらかが気を引きつけておかなければならない。
けれど。
(すばるじゃ引きつけ役は無理だわ。あたしがなんとか……)
一体何を考えているのか、すばるはなんのモーションも起こさない。
と、その時。
ぽつり。
鈍い色に染まった暗い空から、水が落ちてくる。
ぽつり、ぽつりと。
(……っやだっ。これ、まずいわ…っ)
フェルは内心焦る。
湿気が多くなると、背中の羽が重たくて、飛びにくくなる。
蝶の羽から鱗粉(りんぷん)を落としたような4枚の羽は、濡れると役に立たない。
逃げるのにも戦うのにも、不利だ。
ぽつ…ぽつ、ぽつ、ぱたた……。
地面が黒く染みを作る。
はじめは小さく、徐々に大きく。
……すると。
──フォァォォ……ガァァッ!!!!
シュウウウウッ!!
「っえ!?」
フェルが思わず声を上げる。
すばるもわずかに目を見開く。
それは、化け物がその茶色い毛の間から、真っ白な蒸気を噴きだしている音だった。
雨の勢いが激しくなるにつれ、その蒸気の量が増す。
グ……フ…ァァァァ!!!!
苦しみ、のたうち、暴れ回る。
「え? え?」
フォァァァァ……ッ!!!!
そいつは、かき消える。
現れたときと、同じように。
すばるとフェルは、近くの神社の軒先に駆け込んだ。
雨はさらに酷くなっていた。
ザァァァァ、と、音までが重い。
フェルは重たるそうに、羽をぱたぱたと振るわせた。
「あぁもう、最低っ!! なんなのよ、あれ!! わけのわかんないヤツは来るし、雨は降ってくるし! あー、こんなにびしょびしょになっちゃうし!! やだやだっ!!」
「……うるさい。しゃべりすぎだ」
「すばるがしゃべらなすぎなのよっ」
溜め息をついて、フェルが荷物から小さなタオルを引っ張り出す。
ぶつくさ言いながら、それで髪をぐしゃぐしゃと拭いた。
すばるはそれに対しては、何も言わない。
ただ少し何事かを考えてから、
「いや……だが、雨が降ってくれたから助かったんだ」
ぼそりと言った。
驚いてフェルが振り向く。
と、すばるは濡れた髪を拭くでもなく、額に拳をあてて、厳しい顔をしている。
長めの前髪は、雨を含んでしっとりと垂れ、束になったその先から、水が雫になってしたたり落ちる。
濡れているその髪の色は、いつもより濃く見えた。
影になっているせいだろうか。
どこか遠くを見ているような瞳は、どこまでもどこまでも、深い。
きり、と形よく結ばれた唇。
すうっと通った鼻筋。
意志の強そうな眉。
宝石のような、計り知れない瞳。
怖いくらいに白く、血の気の少ない肌。
愁いを帯びた表情は、すばるの整った顔立ちをより端正に見せていた。
(……まったく、嫌味なくらいに綺麗よね)
そう、人であってはいけないような。
加えてわずかに野性的な風貌は、どこか異界に通じるような雰囲気さえある。
フェルはちょっと肩をすくめてみせた。
「で? 雨のおかげって?」
その問いに、すばるは前髪をかきあげてフェルを見た。
「あいつは…雨に濡れたことで苦しんでいた」
「つまり…そういうことね?」
「あぁ。水が弱点なんだろう」
そうしてほんの少し間をおいて、
「……フェル。まだ奴は消えていないんだろ」
「そうね。はっきりと位置は確認できないけど……この村にはいるみたいよ」
ぎゅう、とスカートの裾を絞りながらフェルが答える。
そして、
「策を考えるなら今のうちよ、すばる。雨が止んだらあいつはまたあたしたちを襲うわ」
真剣な口調で告げた。
すばるは言われるまでもない、という顔で空を睨みつける。
「だろうな。奴らにとって、妖精は最も栄養価の高いエサだからな」
「ちょっと、イヤなこと言わないでよ」
「事実だろう」
さらりと言い放って。
「どっちにしても奴は来る。だが、どうせならこっちから乗り込んでいきたい」
「そうね。乗り込まれるのと乗り込んでいくのは、結果が同じでも大違いだわ。いつまでもアレじゃ気分悪いし。…でもそれには、有効な攻撃手段を考えなくちゃ」
「あぁ。……水、か……」
しばらくして、フェルがぽつりと呟いた。
「もっと……精霊を味方に引き入れなくちゃだめね」
ちらりとすばるがフェルを見る。
「たしかにな。火のフレイム、風のシルフ……攻撃のバリエーションに欠ける」
「でも、かといって、そこら辺に転がってるものでもないっていうのが困りものだわ」
「精霊は万物に宿るが、資格のない者の目には映らない。精霊側で俺たちを不適格者だと判断した結果だろう」
他人事のように言うすばるを、フェルは恨みがましい目で見つめる。
「……仕方ないでしょ。すばるだってわかってるくせに。とりあえずすばるには言われたくなかったわね」
「俺はフェルだけがそうだと言ってるんじゃないだろう? ……俺も同じだ」
すばるの冷たい瞳。
雨は降り続く。
ざぁざぁと。
視界をゆがめながら。
高地の雨は、まだ冷たかった。
しかし見上げた先で、重くのしかかる雲は、上空の風で足早に押し流されていく。
(…この雨は、じきに止む。時間はない)
すばるの言葉のせいか、化け物に勝てなかったせいか。
フェルは元気なさげに足を投げ出していた。
だが、伏せた瞳だけが暗く光る。
それは憎しみの色。
「…“鬼”……か」
すばるの呟き。
はたとフェルが顔を上げた。
その時にはもう、いつものフェルに戻っている。
「やっぱり子供たちの“鬼”って、奴らだったのね」
「あぁ。《邪精(イーブル・フェアリー)》……」
「…………」
フェルは下唇を噛む。
「つまりはおまえの仕入れてきた噂話も、俺たちにとっては必要な情報だったわけだ」
「……そりゃあね。フェル様の情報収集はバカにできないってことよ」
「そういうことにしておこう。とすれば、フェル」
「わかってるわ。さっき聞いてまわった、噂の出所っていうのがここで使えるってことね?」
「賢くなったもんだな」
「もともとよっ!!」
すばるは、ほんのわずかな笑みを唇に浮かべる。
そして鞄の中から、丁寧に折り畳んだ地図を取りだした。
よく降る雨だ。
窓際で頬杖をつき、その雨をつまらなさそうに少年は眺めていた。
雨が降っていたら、家を出る口実が難しい。
なにせ、少年は雨の日に表に出ると、十中八、九、服をドロだらけにして帰ってくる。
そうすると、いつも母親に叱られるのだ。
誰が洗濯をすると思ってるの? と。
その文句も聞き飽きた。
けれど、今日は絶対に行かなきゃ。
(だって、僕が鬼を倒すんだ)
そうしたら、英雄(ヒーロー)になれる。
みんなきっと羨ましがる。
いつの時代でも、子供たちは英雄に憧れる。
いつか魔王が現れて、自分が勇者になって魔王を倒し、世界を救うのだと。
自分は特別な存在なのだと、誰もが心の奥底深くで思っている。
そしてある日、突然気付くのだ。
“自分は全然特別なんかじゃない”と。
その日が、“大人になる日”なのかもしれない。
それがいいのか悪いのかは、わからないけれど。
(早く雨、止まないかなぁ)
子供たちは、夢を見る。
英雄になる夢を。
──鬼が来るよ。
──早く逃げないと、食べられちゃうよ。
──骨ごとばりばりって、食べられちゃうんだよ。
──頭から? ううん、足から食べるんだよ…………逃ゲラレナイヨウニ。
──そして頭だけ残してくれるんだよ…………最後マデ恐怖ヲ味ワウヨウニ。
地図の上に、赤い印。
その横には同じ色で日付が書かれている。
「……と。これで全部」
「気がきくな。日にちまで聞いてくるなんて」
「どうせならぬかりなくやんないとね。もう1回聞いてまわるのはイヤだからよ」
それは村全体に広がり、多いところでは、真っ赤になって日付が読めないところもある。
「子供たちが老人も知らないような古い伝承を知っているとは思えない。そして、《邪精》を見てから“鬼”の噂が広まったとも考えにくい」
「どうして?」
「今暴れてる連中は、ほぼ知性がない奴らばかりだ。奴らは腹が空けばのべつまくなしに人間を喰らう。特に、“マイナスの感情”や“子供の無垢な心”は、腹を空かせていなくとも喰うだろう」
「そうね」
「この話を知っているのは子供だけ……。とすれば、はじめに伝わったのも子供である可能性が高い」
「とすると、《邪精》の存在を感知できるくらいの力を持っている何者かが、子供たちに《邪精》のことを知らせたって考えるのが妥当なわけね」
「おそらくはな」
すばるは、地図の上に描かれた印と日付を指で追う。
そうしながら難しい顔つきで、
「……あいつは。まだ生まれたての《邪精》だ。まだ目覚めきっていない」
「ええ!?」
「そんな感じがした。気配はしても被害が出ていないのがいい証拠だ」
「あ、そういえば……」
この地には、被害が出たから訪れたわけではない。
かすかな《邪精》の気配がしたから立ち寄っただけだ。
「それでも、人間というエサが近付けば遠慮なく喰うだろうがな。ただ自らの意志で狩ることは知らないだけで」
「でも、あたしたちの所へ来たのは…」
「好物の妖精を発見したから。あとは、目覚めかけてる…といったところじゃないか」
「…それって。やばくない?」
フェルが嫌そうに顔を上げた。
「ああ。それに、あの噂のフレーズ…『鬼が来る』。それは、奴の目覚めを暗示しているんじゃないのか」
「!」
《邪精》が現れた。
何者かがそれを察知する。
そうして、目覚めが近いことを知る。
だから子供たちに、それとは知られないような言葉でもって告げる。
が、そこに誤算が生まれる。
子供たちにそれを告げたのは何故か?
それは彼らを守りたかったのに相違ない。
けれど“鬼”の噂は、子供たちの好奇心を煽る結果になる。
不測の事態。
そして、どんどん目覚めていく《邪精》。
つまり時間は、ない。
すばるは指を走らせる。
隣でフェルが悩み込んでいた。
「ねぇ。これ、バラバラじゃない。こんなので本当に大丈夫なの? だって日付、あちこちに飛んでるじゃない」
「そうでもない」
「…とすると…ここ? 真っ赤になってる」
「違うな。そこは住宅地だから、子供の数が多い。それだけだ」
きっぱりと断言する。
そうしてひとつひとつ赤い点を指し、
「こことここ。日付が同じだろう。噂の発信源をひとつだと仮定して考えれば、この子供たちは同じグループだと見ていいな。そして、それを辿っていって……ここだ。一番古い日付」
すばるはそこで指を止める。
「……あ。けっこうその日付は固まってる」
「全体的に見ても、この地点の同心円上に広まっていっている。春休みだから学校で広まらなかったのが幸いしたな。…子供たちに“鬼”のことを告げたもの…それはこの近くにいるはずだ」
「なんで?」
「無差別に声をかけているんだとしたら、噂はそこから広まる。別の場所にそいつがいるんだとしたら、同時にそこからも広まるはずだ」
「あぁ…そうね」
そしてすばるは、トン、と地図に指を置いた。
「だとすれば、ここだろう」
フェルが目を落とす。
そこは印が何もない。
ただ地図記号がぽつぽつと並び、青く塗りつぶされた歪んだ丸がある場所。
「!? これって、森じゃないの」
「子供の行動パターンからすれば最適だと思う。なにせ、“自分たちを喰ってしまう鬼”の噂を広めるほど、冒険心の強い連中だ」
春休み。
一日中遊び呆けるのに必要な広い場所。
滅多に足を踏み入れることのない不思議な場所。
冒険のありそうな場所。
「そこに……いるっていうの?」
「絶対じゃない。可能性が高いだけだ。だが、高いだけのことはあるんじゃないか?」
「……じゃあ、誰が最初に言い出した…“発信源”なの?」
すばるは明るくなってきた空を見上げた。
「……子供にだけ見えるもの」
弱まってきた雨の中を、すばるはシューズを踏みしめるように歩く。
小さな森の中、踏み固められた道。
雨の重さに首を垂れる草花。
道より深くに入った場所を見やると、そこにはなずなが群生している。
ところどころ、ちぎられて先のないなずながある。
それも、たくさん。
たぶん大人の所業ではない。
───とすれば。
すばるは自分の説に確証を持った。
あとわずかで小さな沼に出る、そこで鞄の中に避難していたフェルがひょこりと顔を出した。
「あ、すばる。雨が止んだ……太陽が出てるわ」
その声に、ふと顔を上げる。
ちょうど、西にだいぶ傾いた太陽の光が射し込んでくるところだった。
水面。
白く残る靄。
そっと払い去られたように降る、柔らかな光。
かすんで見える対岸の緑。
朽ちた木が覗く水の表面。
夕立のあとの、すがすがしい空気。
沼の、真ん中。
少女の姿。
「噂を流したのは───あんたか」
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