Story.1
October 13th, 2000
★ ★ ★
「噂を流したのは───あんたか」
すばるの声が、薄いもやの中にりんと響く。
沼の中央、その水面から浮かぶようにして立っていた。
立っていた?
有り得ない、水の上なのだから。
水色の髪、水色の瞳、水色のローブ……その景色には、なんの違和感もしない。
美しいひとりの少女。
「あの子……」
フェルが息を飲んだのと、ほぼ同時。
その少女が、眉をひそめ…そっと指を組んだ。
すばるは、もう一度問う。
「あんたが、噂を流したんだな?」
こくり、少女がゆっくり首を縦に振った。
「…すごいわね、すばる。ドンピシャじゃないの。それより、あの子」
「わかってる。……あんた、精霊だな」
少女は再び頷く。
すばるの瞳が、納得の色を浮かべた。
フェルは首を傾げて、
「それじゃあ、彼女が《邪精(イーブル・フェアリー)》の気配を察知して、子供たちに知らせたのね。…でも、どうして子供たちにだけ?」
【子供たちにしか…私の姿は見えなかったから。それに、彼ら以外は信じてくれないと思ったから。……でもまさか…こんなことになるとは思わなかった】
こんなこと、とは、子供たちが恐怖ではなく、興味を抱いてしまったことだろう。
《邪精》から遠ざけるつもりが、かえって近付ける結果となってしまった。
「あんたなら知っているだろう。《邪精》がどこにいるのか…奴がいつ目覚めるのか。教えてくれないか」
すばるが問う。
とたんに、精霊の顔が険しくなった。
【…あなた、何者? 《邪精》のことを知っているし、私の姿が見えるみたいだし、それに…妖精と一緒みたいだし。一体何が目的?】
「俺の名は、すばる。こっちはフェルだ。俺たちは、《邪精》を倒すために各地をまわっている」
【《邪精》を、倒す……? 本当…!?】
「あぁ。そのためにわざわざここまで来たんだ」
精霊は険しい顔つきのまま、すばるの目をじっと見つめた。
すばるの心を読み透かそうとする目だ。
けれど、すばるはぴくりとも動じない。
凝視してくるその目を、ただじっと見返すばかりで。
根負けしたのは、精霊の方だった。
【……《邪精》は小学校に根を張ってる。目覚めるのは、……たぶん、あと1時間もないわ】
「そうか。すまない」
精霊の言葉を聞き終わるや否や、すばるはくるりと踵(きびす)を返した。
遠心力で降り飛ばされたフェルが、すんでの所で飛び上がる。
「ちょっ…ちょっとすばる、待ちなさいよ…っ」
確かに、時間はない。
フレイムやシルフが使えないとわかった以上、奴を目覚めさせてしまっては、とことんこちらが不利になる。
奴が目覚める前に、勝負をつけないといけないのだ。
しかも土地柄、小学校はここからかなりの距離がある。
とすれば、一刻も早く向かうに越したことはない。
それはわかっている、だが……。
「ねぇすばるっ! どうやって戦う気なの!? 今のあたしたちじゃ、戦う手段なんてないのに!?」
そう、フレイムとシルフが使えない、とは、つまり戦うすべがないこと。
だがすばるは一体何を考えているのか、振り向きもしない。
(ったくっ…ホントにあんたって人間はわかんないっ!!)
それでも、放っておくわけにもいかないし……。
フェルはヤケ気味になって、精霊に怒鳴りつけた。
「あなたも一緒に来てッ!!」
【え?】
「子供たちを救いたいと思ったんでしょ!? 今でもそう思ってるんなら、さっさと学校まで案内してよっ!!」
夕暮れのせまる校舎。
春休みの学校には物音ひとつなく、寒いくらいにしんと静まりかえっていた。
窓からは橙(だいだい)色の光が深く射し込み、それがかえって影とのコントラストを強くしている。
昼とも夜とも違う、不思議な雰囲気。
普段なら休みでも用務員くらいはいるものだが、今日はその気配すらない。
その、影に沈む校舎の片隅で、ひそやかな話し声がしていた。
ひとりではない。
5人、6人…もっといるだろうか。
「なんだよ、どこにもいないじゃん」
「きっと、隠れてるんだ」
「ね、鬼なんていないよ。だから帰ろうよっ……」
「怖いんなら、優真、おまえは帰れよ。これだから弱虫はなぁ」
「しっ。何か聞こえる」
ひとりが、口元に人差し指を立てた。
ざわめきがぴたりと止む。
ザ…ザザザ……。
壊れたテレビが立てる雑音のような、途切れ途切れのざらつく音。
それがかすかに、廊下の先から聞こえてきた。
廊下の先には、天井の高さまである、両開きのスライド・ドア……体育館だ。
「行ってみる?」
「もちろん!」
子供たちは、あるいはおそるおそる、あるいはわくわくと胸を躍らせながら、そのドアへ近付いていった。
そして、それを、そっと開く───。
ガシャンっ。
門に手をかけて軽く動かしてみたが、どうやら鍵がかかっているらしく、2センチばかり開いた鉄製の門は、それ以上動く気配がない。
通用門も調べてきたが、人の入った形跡はなかった。
門も塀も十分な高さがあるから、子供には入れないだろう。
もちろん、心配をしているわけではない。
戦いの場面にいられては、迷惑なのだ。
「すばるっ」
甲高い声に振り向くと、今追いついたらしいフェルが羽ばたいている。
後ろについてきているのは、あの精霊の少女だ。
その時、すばるの耳がかすかな声を聞き取った。
そのまま眉をひそめ、再び校舎を見上げるすばるを見て、フェルは一瞬怪訝に思う。
が、すぐにフェルも目を見開いた。
「……遅かったな」
「って、それどころじゃないじゃないっ!」
急いできて、呼吸が乱れているはずだったが、そんなことは忘れたように、フェルは高く飛んだ。
禍々(まがまが)しい気配、それが見えるようだ。
「こんな…。感覚の鋭くないあたしでも、こんなにはっきりわかるわ……」
「あぁ。“引き金”をひいた奴がいるな」
夕焼けに染まる、広い空。
逆光に浮かび上がる校舎。
それを包み込むようにして、黒い影のようなものが蠢(うごめ)く……幻。
「! ねぇすばる、人がいるっ」
フェルが声をあげた。
すばるは頷き、昇降口の奥をじっと見つめる。
駆けてくる…悲鳴と、叫び声。
「フェル…それからあんた。その辺りに隠れてろ。子供たちが来る」
「子供たち……って、まさか!? もう中に入っちゃってたの!?」
「そうらしいな。覚醒を促してしまったのもあいつらだ」
「でっ、でも、あたし妖精だから、普通の人には……」
「少なくとも、誰かひとりはそこにいる精霊を見てる。それなら、妖精が見えないとも限らない。見られてあとで厄介なことにならないためには、用心に越したことはないだろう」
「なるほどね…わかったわ」
言うと、フェルは精霊の少女を促し、近くの木の陰に身を隠した。
昇降口から、血相を変えた子供たちが駆けだしてきた。
すばるは、校門のすぐ近くにある、古い通用口を思い切り蹴り飛ばす。
長い間放っておかれて、木製のドアは腐っていたのだろう。
どかっという鈍い音とともに、扉は鍵もろとも簡単に外れてしまった。
子供たちは人の姿を見て安心したのか、まっすぐに通用口に走ってきた。
「お兄ちゃん! 助けて!」
「おばけ! おばけが出たんだよう!」
押し合うようにして出口に駆け込もうとする子供たちを、すばるはひとりずつ表に出す。
よほど怖かったのだろう、そのうちのひとりがすばるの手を握ってきた、その手は凍るほど冷たい。
「猫だよ! おっきい猫! すごく大きくて、口ががばあって裂けてるの!!」
「バカ、あんな大きい猫なんているわけないだろ!」
「じゃ、じゃあ、あれが……」
「……鬼?」
子供たちの話を聞いていたすばるが目を細める。
猫のような姿…先刻の、あいつだ。
「……おまえたち、もう家へ帰るんだ。あとは俺がなんとかするから」
けれど、その言葉に子供たちのひとりが反応する。
「! だめだよ、僕たち帰れない!」
「なぜ? 危険なのはわかっただろう」
「で、でも! 優真がまだ中に……!」
「優真? おまえたちの友達か?」
「うん! 優真は僕たちをかばって……鬼に追っかけられてるんだ!!」
ちら、と木に視線を送る。
顔を少しだけ覗かせたフェルが、こくりと頷く。
すばるも頷き返し、
「…わかった。ここで待ってろ。優真は必ず俺が連れてくる」
「お兄ちゃん!!」
「大丈夫だ。すぐに戻る」
すばるは、通用口から校庭に走り込んだ。
フェルと精霊が、空からそのあとを追う。
その後ろ姿を、子供たちは心配そうな眼差しで、じっと見つめていた。
《邪精》の気配を追いながら、フェルも不安そうな顔をしている。
攻撃手段がないことに、どうしていいかわからなくなったようだ。
「ねぇ、すばる…」
声をかけると、すばるはちらとフェルを見て、
「勝算なら、ある」
とだけ言った。
驚いたのはフェルだ。
「……って、え!? 勝算はあるって…どうすんの? あいつは水が苦手なんでしょ。バケツリレーでもやるの?」
「似たようなものだな」
は!? フェルが首を傾げる。
一体それはなんなのか、フェルが聞こうとする…が、ちょうど同時にすばるが精霊の少女に話しかけた。
「あんたの名前、聞かなかったな」
【え…。私は、ナイアド】
「ナイアド、な。わかった」
そしてそう言ったきり、何をしゃべるでもなく黙々と《邪精》の気配を探り出した。
(……ホント……あたしなんだって、こんなのとコンビ組んでんのかしら……っ)
はぁ、はぁ、はぁ───。
暗い階段を、必死に駆け上る。
足が重い、もう動かしたくない。
けれど立ち止まれば、自分を捜しているだろう鬼に捕まってしまう。
教室に入ったり本を投げつけたりしたが、あれで逃げ切れるとは───ましてや諦めてくれるだろうとは思っていない。
(みんな…大丈夫かな。ちゃんと逃げられたかな)
ずいぶんと走ったせいで、ジンジンと痺れる脳の奥で、ぼんやりとそんなことを思った。
口の中は乾いて、血のような味がする。
おそらくは肺が、極度の運動量に悲鳴を上げているのだろう、胸の辺りが痛い。
最上階に辿り着く頃には、ほとんど自分の意志では動かせないくらいに足が重くなっていた。
苦しい……。
座り込みかけて、ふと後ろに目をやる…と。
「っ!!」
踊り場に、シルエット。
一対の、金色に輝く目。
「っあ……。ああぁぁぁぁああ!!!!」
少し距離を稼いだと思っていた、なのにこんなすぐ後ろにいたなんて!
どこにそんな力が残っていたのか、自分でもわからない。
瞬間的に、突き当たりの扉に飛びついていた。
身体ごとぶつかるようにしてそれを開けると、冷たい風が流れ込んできた。
屋上だ。
薄暗い屋上を、一番離れた場所へと駆ける。
かしゃんっ。
フェンスを掴む。
すぐ近く、せまってくる気配。
逃げなきゃ。
逃げる?
どうやって?
(助けて……っ!!!)
「精霊召還……降りよ、シルフ」
ゴオオオオォッ。
いきなり強い風が吹いて、優真はフェンスにしがみついた。
今にも肩に食らいつこうとしていた《邪精》が、ぴたりと動きを止める。
「はあ…なんとか間に合ったみたいね」
緑色の髪をなびかせたフェルが、溜め息混じりに呟いた。
ファ…オ…オォォオ……。
《邪精》はくるりとすばるたちに向き直る。
すばるたちを敵と認めたらしい。
「ナイアド……俺たちに力を貸してくれ」
ぼそりとすばるが言う。
ナイアドが目を瞠(みは)った。
【…そういうこと、なのね。わかったわ、協力する】
ナイアドの答えに、すばるは黙って頷いた。
そして、印を組む。
「離還。精霊召還……」
フェルの身体から、ぽんっと薄い緑の光が抜ける。
《邪精》がわずかに体を引く。
元の姿になったフェルが、大きく息を吸う。
猫のような《邪精》の四肢に、力がみなぎる。
「…降りよ、ナイアド!!」
すばるの宣告。
隣にいたナイアドの体が、溶けだすように光の渦になっていく。
《邪精》が、くんっ、と体を沈ませる。
光はすばるに集まる。
そして、フェルの上に降り注ぐ。
光のヴェールがフェルを包み込む。
《邪精》はためた力で一気にすばるへ飛びかかる。
光が消え、そこには水色の髪の小さな姿。
フェルは両手を突き出す。
《邪精》の牙。
刹那。
どおおおぉぉぉんっっ!!!!!
……爆発だった。
思わず頭をかばった優真の腕に、水滴が散った。
(水…?)
フアアアアアッッ!!!!!!
続いて、叫び声のようなものが聞こえる。
優真がおそるおそる顔を上げる…すると、そこにあの化け物の姿はもうない。
かわりに、自分を助けてくれたらしい、さっきは化け物の影に隠れて見えなかった少年がそこに立っている。
その少年を見上げて、優真はどきりとした。
(あのお兄ちゃん…目が、赤い……!?)
すばるはさして興味もなさそうに、さっさと踵を返した。
「……よく頑張ったな。その勇気でこれからも…みんなを助けてやれよ」
それだけの、言葉を残して。
優真は呆然とそこに立ちつくす。
一体何が起こって…どうなったのだろう。
と、すばるの消えた階段の向こうから、誰かが登ってくる。
「…まぁ。ゆうまーっ!! どこだー!」
「あっ。いた! みんな、こっち!! 優真がいる!!」
それは、先程逃げたはずの友達…。
ぺたり、優真はその場に座り込んだ。
子供たちが駆けてくる。
誰ひとりとして欠けていない。
「大丈夫だったか、優真!」
「もー、無茶するなよ! 心配するだろー!!」
「無事だったからいいけどさー!!」
笑ってそう言ってくれる、仲間たち。
(よかった……)
安堵したせいだろうか。
優真の両目から、ぱたぱたと涙があふれ出す。
「あっ! 優真、泣くなよ!! 僕たちだっ…て…、ガマン…して、たんだからなっ!!」
「そ……そうだぞっっ…!!」
「ふぇ…っえぇ…。みんな…無事で…よか、った、よおー!」
「ありがとう優真ぁ……!!」
泣きじゃくる子供たちを、一番星が優しく見守っていた。
夜の道を歩いて、その村をあとにする。
見送るものなど誰もいない。
だが、そんなことにはもう慣れた。
「しかし、ひやひやしたわねー」
「そうか?」
大きく息を吐くフェルに、すばるは素っ気なく返す。
そんなすばるを、フェルは恨みがましい目で見つめた。
「…それもこれも、あんたが何も言わないせいよ。ナイアドが水の精霊で、彼女の力を借りて《邪精》を倒すつもりだったんなら、最初からそう言ってよね!」
「わからないおまえの方がどうかしてる」
「なっ」
すばるは嫌味なくらい涼しい顔で、
「まず、ナイアドが水の上に浮いていたことで、水に関する精霊だとわかった。そうでなければ、時間がないからといってなんの手だてもなしに敵のもとへ赴くような無謀なことはしない」
さらに、ひとこと。
「それに俺は名を聞いただろう。ナイアド、とは水の精のことだ。妖精のくせに、そんなことも知らないのか」
「……うるっさいわね」
だからといって、何も言わなくていいという事になるだろうか。
すばるをパートナーに選んだことを、最近1日に3回は後悔している。
が、悔やんだところで仕方がない。
「で? 次はどこへ行く?」
諦めた口調で、フェルが聞いた。
すばるは、一瞬何かを考え、
「やはり…あの場所へ行っておこう。あの街は邪気が溜まりやすい……探さなくとも向こうから出向いてくれるだろうからな」
春は、まだ浅い。
南へ向かうふたりの影は、やがて夜の闇に紛れていった。
→ Next Chapter
<After Words> |
さて…今回の議題は、何故高原風音はこんなに筆が遅いのか、についてです。 「はい!」はい、そこの黄色い人。「頭が悪いからだと思います」うむ。なかなかいいご意見ですね。 では、反対の人ー。「しーん…」では、満場一致で、高原風音は頭が悪いことが判明しました。 ……で。3章、たかが3章を書くのにこれほど時間を割いてしまった、というわけですね。困ったものです。 あー。でも少しずつ輪郭が出てきたかなあ。すばるとフェルの《邪精》退治物語。 面倒ですが、《邪精》ってあったら全部「イーブル・フェアリー」って読んでやってください。 なにせ振り仮名つかないので。 すばるたちが、どうして《邪精》を倒す旅をしてるのか、ってあたりはまた機会があれば出てくることでしょう。 とりあえず、倒しとけ。……それにしたって、すばる性格悪すぎ。暗いし。やな主人公だな、おい。 まあ、でも、次のストーリーでは、少し明るくなってくれるといいかな。話が。 てわけで、続きます。あしからず。 |