Story.2

〜桜〜

第1章

October 27th, 2000

★ ★ ★







 静かな朝の住宅街を、ぱたぱたと走る音がする。
 うららかな春の、暖かな陽射し。
 少し冷たさの残る、爽やかな風。
 景色さえもが春霞ににじんでしまいそうな、清々しい朝だった。
 そこを走る少年は、それに目を奪われそうになって、慌てて頭を振った。
(……いけない、のんびりしてたら遅刻しちゃうよ)
 今日は、入学式を迎える前に、せいぜい遊んでおこう…そう言い出した友人たちとともに、近くのテーマパークへ出かけることになっていた。
 普段めったに遅れない自分が遅れては、いらぬ心配をかけてしまう。
 いや、理由は単なる寝坊なのだが。
 そんな理由で遅刻したことは、今までにはなかった。
 けれど今日は……。
(なにせ……変な夢見ちゃったからなぁ……)
 そうして、今朝見た夢を思い出す。
 暗闇……。
 その中にふたつ、ぎらぎらと輝く光。
 それはとてもよくないものだ……直感でそう思った。
 ふたつの赤い光。
 並んだ紅玉(ルビー)。
 まるで、自分を狙っている瞳……のようで。
 なんとなく、気配がした。
 やはり邪悪な気配で……。
 その気配は、やがてこちらに手を伸ばす。
 …確か、そんな夢だった。
 そこで目が覚めてしまったから、良くは覚えていない。
 なぜか夢見の悪さに、しばらく体を起こすことが出来なかった。
 自分には、それが一体何を意味するのかわからない……にもかかわらず。


 駅への近道をたどりながら、時計に目をやる。
 針は、待ち合わせの時間には十分に間に合うあたりを指している。
 何とか遅れないですむかな…そう思った時。
 心の隅を、何か不快なものがかすった。
 ほんのわずかな、違和感だ。
(……あれ……?)
 少年は、ぴたりと足を止める。
 背中のあたりに、ちりリ、と痛み。
(後ろ……だ)
 振り向くと同時に、風が吹いた。
 しっとりと濡れたような、つややかな黒髪がふわ、とそれになびく。
(なにか、いる)
 そこには、変わらない朝の景色。
 ただ違うところを挙げるならば、道の真ん中…空間がゆがんでよじれたように見える。
 そこから、黒い粒子が吐き出され、何かを形作っていく……。
(うわ…っ、大きい……)
 つい、そんなどうでもいい感想を思う。
 人間はとっさの時ほどどうでもいいことを考えてしまったりするのだ。
「ちょっと、これって…まずいよね」
 ぼそりと呟いてみる。
 下手をすると現実逃避してしまいそうな思考を、それで何とか自分の支配下におくことに成功した。
 成功はしたけれど……。
 がくがく、と足が震えてきた。
 本能が体を後退らせる。
 そうだろう、こんな現象が……あるはずはない、それが普通だからだ。
 しかし、目では、その黒い粒子を追っていた。
 自分の目の前に現れたそれが、自分に害を成すだろうことは、無意識に悟る。
 だとしたら、自分が逃げようとしているもの…その正体を見極めておきたかった。
 ……いや…怖くて逃げられなかったというべきか。
 とにかく、そいつはあからさまに哺乳類の形を取り出していた。
 ネコ科のような…すらりとした肢体。
 けれど頭が長い毛で覆われ、目が額の中央にひとつきり…こんなネコ科はいないだろう。
 第一、こんな不自然な現れ方をすることはないだろうし。
 そのひとつきりの目は、どろんと赤く澱み、こちらをじっと凝視している。
 だらんと開いた口からは鋭い牙が覗き、粘り気のある唾液が糸を引いて滴っていた。
(いやだ……。逃げなきゃ…だめ、だ)
 自分の中で、誰かがそう忠告する。
 が、動けない。
 目が離せない……!
 そうこうしている間に、そいつは完全に姿を現し、こちらに向かって前脚を一歩踏み込む。
(いや、だ……っ)
 せめて、目が背けられたら……!
 そう思った、瞬間。


 ───ドカッ……。


 とっさには、何が起きたのかわからなかった。
 ただ自分とその生き物の間に、誰かが飛び込んできたのだと、それだけを認識する。
 背の高い……それは、少年?
 わずかに茶がかった髪は、朝の光に反射して一瞬金色に見えた。
 彼は、二度、三度とその生き物に蹴りを、拳を入れていく。
(……すごい……)
 呆然と、そう思った。
 自分には力がないから…特にそう思えてしまうのだろう。
 ───ファァゥゥオォォッッ!!!
 生き物が、咆哮のようなものをあげて、掻き消える。
 それを、ただぼんやりと見ていてしまった。
 倒した、というのではなさそうだが、追い払ってくれたのは間違いないだろう。
「あ、ありがとう……助けてくれて」
 だから、ほんの少し間があいたあとでそう言った。
 しかしその少年はそれを聞いているのかいないのか…ちらりとも視線をよこさない。
(えぇと……どうしよう)
 礼は言った。
 だが、目を見て言えていない。
 心を伝えるには、ちゃんと目で見て言わなければ…律儀な性質(たち)だから、そう思ったのだ。
 といっても、わざわざ回り込むのもおかしいかもしれない。
 どうしようか、と途方に暮れかけた時だ。
 少年がぽつりと言葉を漏らした。
「……殺されるつもりか? せめて逃げるくらいのことはしてみせるんだな」
 低めの……静かな声。
 凪の海のような不思議な波動だ……そう思った。
 そうして、彼が振り向く。
 声と同じ、静かな表情。
 ……が。
 その視線が真っ向からぶつかりあった時…彼はわずかに目を見開いた。
「…み……!」
「え?」
 つい聞き返すと、彼ははっと我に返ったようだ。
 そのまま何も言わずに振り返り、走り出してしまう。
「あっ、ちょっと待って!」
 慌てて声をかけるが、その背はあっという間に路地を曲がり、見えなくなってしまった。


(彼は……一体?)
 とても端整な顔立ち。
 すらりとした体つき。
 ───けれど、一番目をひかれたのは、一瞬だけ見た……。
(瞳……。すごく、綺麗だった)
 翠色だった。
 澄んだ翠。
 エメラルドの、ような───。





 何も考えられなくなるほどに、走った。
 とりあえず闇雲に走って、奴の消えた気配を探った。
 しかし一度消えた気配など、簡単に発見できるものでもない。
 しばらくあちこちを探し回って、結局見つからずに、公園のベンチに座り込んだ。
 見上げた空は、青い。
(何をやっているんだ……俺は)
 思って、大きく息を吸い込む。
 あの日から……ずいぶんと時間が経った。
 自分の運命を大きく変えたあの日から。
 なのに、《邪精(イーブル・フェアリー)》は減る気配も見せない。
 手がかりさえもつかめない。
 そうやってただ、雑魚どもの相手をしていることに、少し焦りを覚えているのかもしれなかった。
 飽きたりは、しないけれど。
 そこに、ぱたた、と耳に羽音が聞こえる。
 それはふわりと目の前に降りてきて。
「……めずらしいわね。すばるが息切らしてるなんて」
 その声に目を上げて…そこでようやくすばるは自分の息が乱れていることに気付く。
「普段は走ろうが泳ごうが絶対息なんて切らさないのにね。何かあったの?」
 心配している口調でもなく、フェルはベンチに舞い降りた。
 すばるはそれを気にもとめない。
 ただ、いつものように何か考えるような仕草をして、
「とりあえず、予測した通りだ。《邪精》がでた」
 とだけ言った。
「え? あんた《邪精》に遭ったの?」
「あぁ」
「ちょっと、何であたしを呼ばないのよ! あんたの力だけじゃ《邪精》倒すの難しいんでしょ!?」
「……否定はしない」
「それで結局逃がしたのよね。それじゃみすみすあたしたちの存在を奴に知らせたようなものよっ!」
 やたらとフェルは怒鳴り散らす。
 けれどそれもいつものことであるし、すばるに動じる気配はない。
 ひとしきり怒鳴らせ、フェルが一息ついたところで再び呟いた。
「…襲われている者がいた。フェルを待ってる時間はなかったんだ」
 フェルの方も、そう言われては黙らざるをえない。
 すばるが、人間を見殺しになどできないことは、フェルもよく知っている。
 あきらめたように短く息をつく。
 折れるのは、いつもフェルの方だ。
「……わかったわ。やっぱり2人で探しましょ。広いから遭遇する確率は下がるだろうけど、いざって時に攻撃できないよりはマシだもの」
 すばるもそれには、軽く頷く。
「やはり……この街がネックだな」





 過ぎてゆく街のあかりが、ぽつぽつと目に暖かい。
 電車の扉にもたれ、反対側の窓の外を眺めながら、ほぅと短い息を吐いた。
 こんな風に、ふと静かになる瞬間……。
 それがとても好きだった。
「…しっかしなぁ。今日はよく遊んだよ」
 手すりにもたれた少年が、楽しげに言う。
 するととたんに、一団はおしゃべりに花を咲かせだすのだ。
「やっぱまだ春休みなんだな。まさかあんな並ぶとは思わなかったよ」
「いつもこんなもんだって。これでも一番人気のアトラクションは開園して真っ先に行ったから効率はよかったと思うけど?」
「そうよね。開園と同時に走り出すんだもの。男子はしゃぎすぎ!」
「なんだよ、関谷だって真っ先に飛び出したじゃん」
「私だって楽しみにしてたんだもんっ」
「由衣ちゃんっていつもおとなしく見られちゃうのよねー。ほんとはものすごくおてんばなのに」
「ね。私、そんなにおとなしいつもりないのに」
 電車の中なので声は抑えつつ、でも楽しい雰囲気で。
 これからは滅多に揃わないだろう顔ぶれを、せめて味わっておこうとするためだろうか。
「ま……でも、またこの7人で遊びに行きたいよな」
「そうだね」
「いつだって遊びに行けるでしょ? 私たち小学校時代からの仲良しなんだし」
「……そっか。そうだよね」
 この春休みが終われば、仲間たちは少しずつ違った道を歩き出す。
 けれど悲しみはない。
 ただほんの少し、寂しさがあるだけだ。
 かたん、かたたん、電車は夜の町を走っていく。


「じゃ、ここで解散だな」
 最寄りの駅。
 彼らの家は、ここから北に南にと散らばっていた。
「御里(みさと)、ちゃんと桂月送ってやれよ」
「わかってるって。井野くんも、関谷さん送ってあげなよ」
「な…っ。とっ、当然だろっっっ」
「どーだろな。送り狼だったりして」
「田坂ッ!!」
 それでも名残は尽きなくて。
 しばらくそんなふうに喋りあっていた。
 また会うことはある。
 全員で遊びに行くこともあるだろう。
 だが、同じ教室に机を並べることは、もうない。
「それじゃあね」
「バイバイ」
「おやすみ」


 ぽつりと灯る街灯のあかりに、少年と少女の影が淡く落ちる。
「……私たちも高校生かぁ……」
 少女の呟きに、少年は夜空を仰ぐ。
 漆黒の空。
 晴れているのに、星なんてほとんど見えない。
 わずかに0等星の恒星がぼんやりと見えるだけだった。
「早いね。この前まで小学生だと思ってたのに」
「…うん」
 少女もまた、同じように空を見上げる。
「私たち、ずっとクラスも一緒だったもんね。でもここまで来ちゃうとしょうがないかなぁ」
「中学までみたいに、地域で決まるわけじゃないからね。…桂月さんは、関谷さんと一緒だよね」
「うん、由衣ちゃんと。女子校だもん、気が楽よ」
「井野くんは男子校だし。田坂くんは共学か…。バラバラになっちゃうね、やっぱり」
「でも御里くんは湯本くんと友香(ともか)ちゃんと一緒でしょ。昔のままじゃいられないけど…少しでも多く、一緒にいられたらいいのに……」
 やはり……淋しい。
 そんなふうに溜め息をつく少女に、少年はふわりと笑いかける。
「いつだって会えるよ。さっき桂月さんがそう言ったんだよ」
「…そうね…。沈み込んでる場合じゃない、と」
「そうそう」
 そうやって、ふたりでくすくすと笑いあって。
 少女が、ふと首を傾げた。
「……駿(しゅん)くん」
 少年がびっくりしたように足を止めると、少女はおかしそうに笑った。
「なに? そんな驚くようなこと言った? 昔みたいに、名前で呼んでみただけなのに」
「いや……えぇっと。なんか久しぶりに名前呼ばれたから。そうだよね、前は名前で呼んでたっけ」
「うん。小学校に入ってからはやめちゃったけど。玲ちゃん玲ちゃんって後ろついてくる駿くん、なんか本当の弟みたいだったもん」
 今は少し離れたところに住んでいるけれど、幼稚園に2人が通っていた頃は、すぐ近所だった。
 それから小学校に入って、中学校へ進学して。
 思い返せば、ずいぶんと古い友人だ。
「でも心配だなぁ。駿くん、見た目と違ってかなり無茶するから」
「そ、そうかな」
「そうよ。小学生の時、田坂くんが川に落ちたじゃない。みんながただ慌ててる中で、駿くんいきなり川に飛び込んだもんね。駿くんまでおぼれたら大変なのに。そういう無茶なことはしないでね!」
 はあい、と肩をすくめて返事をする。
 しない……つもりだけれど。
 そういう時は、無意識に動いてしまうから。
 少女が心配するのも無理はない。
 せめて実力がともなえば……といつも思うのだ。


「それじゃ、またね」
「うん……玲ちゃん、新しい学校頑張ってね」
「駿くんも。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 玄関先でそう言って、別れた。
 彼女が玄関のドアを閉めきるまで見ていてしまったのは、自分も淋しいと思っているからなのだろう。
 ひとりきりになってしまった夜道を、駿はとぼとぼと歩いていた。
(こんなふうにして…みんな離れて行っちゃうんだなぁ……)
 ほんの少しの、センチメンタル。
 けれど、信じているから。
 いつまでも変わらない7人であることを。
「…でも…本当にもうちょっと……力とかつけたりしたいなぁ」
 誰もいない暗がりに向かって、駿が呟く。
 昔からよく「可愛い」と言われていた。
 それは容姿も性格も、らしいのだが。
 しかし実際は、そのおとなしげな雰囲気を裏切り、時折無茶をやらかすことがある。
 どんな危険にも平気で飛び込んでしまう。
 でも結果的に助かっているからいいようなものの、いつ命にかかわるようなことになるかはわかったものじゃない。
(それでなくとも、このごろ変な噂があるし……)
 その噂とは、奇妙な『化け物』の噂。
 時々、それに襲われたという者が現れる。
 彼らが無傷であることはほとんどなく、大抵が酷いケガを負わされているから、何かが起きているのは間違いないだろう。
 死亡した者も少なくない。
 無事な者の目撃証言によれば、それは大体四つ足の獣の姿だったという。
 よく見えなかったが、少なくとも見たことのある生き物ではなかった、と皆が口をそろえる。
 それを受けた警察は、その危険な生き物の捜索・捕獲に乗り出した。
 だが、いくら網の目のようにあたりを探しても、それをみつけることはできなかった。
 それもそのはず、被害者はそれが「煙のように掻き消えた」と言っているのだから。
 ───しかし、そんな警察を尻目に、『化け物』から救ってくれる少年がいる……。
 そんなささやかな噂さえも流れ出した。
 よくあるヒーロー思想だとけなす連中もいる。
 けれど事実その少年に助けられた、という声もある。
 もちろん助けられた者は無傷であるはずだから、ニュースにはならないけれど。
 その少年は容姿にも優れているらしく、女の子たちの間では密かに『紅(あか)い天使』だの『紅王子(くれないのおうじ)』だのと呼ばれて話題になっているらしい。
 もっとも、実際に会った者は、彼について恐怖を憶えるらしく、周りにはほとんど口を開かない、という話だが。
 一体人を救う彼が、どうして恐怖であるのか。
 それはわからない。
 しかし、『紅』という一瞬血すら想像させるような彼の形容は、そこに起因しているのかもしれない。
(…………あっ)
 そこで駿は、はっと息を飲んだ。
(今朝の……『あれ』。『あれ』がその『化け物』……だっていうの?)
 目の前で起きたことが唐突すぎて、噂やニュースとは繋がらなかった。
 だが、そう考えれば理解できる。
 あまりの非現実さに、夢か幻でも見たんだろう、と思ってしまっていたが。
 だとすれば、あれは現実?
 そして、駿を助けてくれたあの少年こそが『紅い天使』?
 駿は今朝であった少年を思い返す。
 茶がかった髪、バランスの取れた綺麗な顔立ち、鋭いけれどどこか影のある表情、
 ───あざやかな翠玉(すいぎょく)の瞳…………。
 怖い?
 なにが?
(別に……怖いなんて思わなかったけど。ただ…少し、悲しい気がした……)


 夜道を歩く駿の後ろ。
 街灯が作ったのではない、不自然な闇が、
 物言わず横たわっていた。





→ Next Story






おはなしのページに戻るStory2. 桜 第1章へ