Story.2

〜桜〜

第2章

June 2nd, 2001

★ ★ ★







「……ふたつ?」
 すばるの問いに、フェルは困った顔をする。
「そうよ、ふたつ。ひとつだと思って調べてたから振り回されちゃったんだわ。正確には、今この街を根城にしている《邪精(イーブル・フェアリー)》は2匹、ってことね」
 すばるは地図に目を落とした。
 そんなに広くはない街……だが元来それほどの感覚の鋭さは持っていないふたりだ。
 似たような気配が狭い範囲にふたつもあっては、攪乱されてそれぞれの居場所の限定が難しい。
 中途半端な感覚は、こういったときに不便なのだ。
 それに、広くないとは言っても、足で探すには広すぎる。
 フェルがあからさまな溜め息をついた。
「で? どうするの?」
 すばるは地図から目を離さない。
 地図には「《邪精》らしき姿を見たという目撃情報」を示す赤い丸があちこちに散在していた。
 たしかに、やけに点がばらけるな、とは思っていた。
 しかもほぼ同時刻に目撃されたりもしていたから、その可能性も考えていないわけでもなかったが。
「……やっかいだな」
「まったくね…。今のところはバラバラのようだけど、組まれたりなんかしたら余計大変よ」
「しかも、1から調べ直さなきゃならない」
「…あ、そっか。どっちがどっちだかわからない目撃証言なんて、いくらかき集めても意味がないのよね」
「そういうことだ。それで、その2匹の見分けはつくのか?」
「片方が赤で、片方が黒……形は同じみたいよ?」
「……そこからひとつひとつ判別していくしかないな」
 フェルが肩を落とす。
「なんか最近あたし、こんな地味な聞き込みばっかりみたい」
「それでしか情報が集められないんだから、仕方ないだろう。二手に分かれよう、俺も調べてみる」
 言いながらすばるが立ち上がると、フェルは驚いたように目を見開いた。
 そうしてくすくすと笑って、
「すばるが自分から動くなんて珍しいわねー。どんな風の吹き回し?」
「さぁ」
 すばるの返事は素っ気ない。
 しかしそれもいつものこと、フェルは慣れてしまっている。
「でもあたしたち、ひとりずつじゃ大した戦力じゃないのよ?」
「奴らを発見して、それから連絡を取っても平気だろう。どちらにしても、俺がここにいるのはばれているんだ」
「――……そうね」
 フェルが肩をすくめた。





 小さい頃から、変わった子供だった。
 『何もないところ』に『何か』を見ていた。
 自分にとって『何か』はたしかに存在する、現実のものだ。
 だがそれは他の人にとっては『何もない』のだ。
 だから『何か』は現実なのに、普通の人が見れば『何か』は幻でしかない。
 その『何か』が仮に現実だったとしても、多くの人にとって幻ならそれは幻なのだ。
 世の中は、実際そんなふうに出来ている。
 大勢がそうだと言えばそうなってしまう。
 ましてや、相手がひとりきりなら。
 ―――……さーん…おかあさーん。
 暗闇に、声がひとつ。
 はっきりと、小さな姿がひとつ。
 黒い髪に黒い瞳がぱちりと、とても愛らしい子供。
 ―――ねぇお母さん、庭の桜の下にね、きれいな女の人がいるよ。
 無邪気に手を引く。
 母であるはずのその人の顔は、暗闇の中に紛れて定かではない。
 ―――きれいなんだよ。
    髪の毛が水色でねぇ、目がいろんな色にきらきらしてるんだよ。
 輝く瞳をしたその子供とは対照的に、母親ははらはらと涙を落とす。
 ―――…お母さん? なんで泣いてるの?
 ―――…あのね。
    それは、見えちゃいけないの。
    そこには何もないのよ。
 ―――だって、本当にいるのに。
 ―――違うの、いないのよ。
    ね、お母さんと約束してちょうだい。
    「それ」が見えても、他の人には言わないって。
 ―――でも……。
 ―――ね、おねがい。
 子供は、知っていた。
 母が毎夜毎夜、布団の中で涙に暮れていることを。
 ―――脳波に異常はありませんが…精神的な病ではないかと。
 その医師の言葉を聞いた日から、「可哀想、可哀想」と言いながら泣くのだ。
 「可哀想」というその言葉がどんな意味を持つのか、よく知らない。
 でも自分は決して「可哀想」じゃない。
 それだけはわかる。
 そうして、母の涙が自分のせいであることも……知っていた。
 ―――ごめんなさい。
 すがりつく手を離し、子供はそれを繰り返す。
 ―――ごめんなさい。
    誰にも言ったりしないよ。
    約束するよ。
    だから、
 泣カナイデ………
 その涙が止まるように、子供は口をふさぐ。
 哀しませるようなことは、もう言わない。
 もう決して言わないから。
 だから、泣カナイデ……。
 …なのに、その涙は止められない。
 どうやっても、どうしても、止められない。
 そうしていつか子供は少年へと成長していく。
 そして少年は気付くのだ。
 ―――僕がいる限り、あの涙は止められない。





 どくん、と心臓が鳴っていた。
 一歩ごとに、鼓動が早まる。
 それは決して音をたてなかったし、後ろから照らしている街頭に影を落とすこともなかった。
 しかし、突き刺すような、気配。
 これに名を付けるのならば、これこそ「殺気」というものではないだろうか。
 こつんこつん……自分の足音。
 じわりじわり……何かの気配。
 嫌な汗が背中を伝う。
 それは暗い道で唐突に感じられた。
 何気なく歩いていた背中に、急に肩を叩かれたように。
 姿も音もないのに、それが少しずつ近付いているのを感じる。
 少しずつ、少しずつ……。
 それは間合いを計っているような動きだ。
 獲物が隙を見せた瞬間に飛びかかろうとする、野生の動物のような。
(……獲物……)
 心の中で繰り返す。
 その響きに、駿はさすがにぞくっとした。
 そう、まさしく今、自分はその「殺気」の持ち主の獲物なのだ。
 何かに命を狙われている……その非現実的な現象を実感してしまった瞬間。
 それは駿を混乱させるのに足る十分な恐怖だった。
 ぴたり。
 駿が足を止める。
 するとその気配も立ち止まる。
 駿はおそるおそる視線を後ろに流す。
 ―――暗闇だ。
 ただ空間に存在する、ひとつの闇だ。
 何かドロドロとした液体のようでもあるし、とらえようのない気体のようでもあるし、触手を動かす固体のようでもある。
 そのすべてが当てはまるようで、またそのどれにも当てはまらない。
 闇がそこにあった…というより、闇がそこにいた、という表現の方がしっくりとくる。
 それを呆然と眺めて、駿ははっと息を吸い込んだ。
(この気配…。あいつだ……今朝の!)
 後ろに迫る闇に姿はないから、見た目にはわからない。
 しかし、それの発する「臭い」のようなものは、確実に今朝遭遇したあれと同じものだった。
(僕を、狙ってるって……そういうわけ?)
 尾行されていたのだ、と駿は悟る。
 昼の間は隠れて、駿がひとりになるのを待っていたのだ、と。
 なぜ、と自分に問う。
 問うたものの、もとより自分が答えを持っている種類の問いではない。
 ただ目の前にそいつがいること、それだけがたしかなのだ。
 駿は息をのむ。
 蠢くような闇は、少しずつじわじわと近付いてくる。
 ―――闇。
 光の一筋すら、通さない。
 足はもう、凍りついたように動かなかった。
 こめかみを伝った汗が目に入って、視界が濁る。


「風の精霊よ、邪(よこしま)なるものの時間(とき)を凍らせ給えッ!!」
 ざざざああぁぁっっっ!!!
 一瞬、光に目がくらんだ。
 駿の目の前で、緑色の光が爆発した―――ように見えた。
 何回か瞬きをすると、目がそのまばゆさに慣れてくる。
 すると、目の前の闇が、その足もとから吹き上げる輝く風に煽られ、その動きを止めているのに気付く。
 だが駿がそれを改めて眺めるより早く、駿の腕を引く何者かがいる。
「早く……走れっ!!」
 えっ、と思った。
 思って、次の瞬間に駿は走り出していた。
 動ける。
 あんなに固まったように動かなかった手足が。
 背後で、逃れるようにもがく闇の気配がする。





 走って走って、煌々とあかりの灯るバス停の自販機コーナーに駆け込んだ。
 終バスは出たあとのようだが、あかりが落とされていないことになんだかやたらとほっとした。
 すっかり呼吸を乱していた駿は、ベンチに倒れ込むように座った。
 そこまで体力がない方ではないのだが、さすがに長時間全力疾走、というのは、一日中遊んでいた体にはこたえる。
 深呼吸で息を整えていると、自分を引っ張って走ってきた少年が道路に身を乗り出しているのに気がついた。
 あれが追ってこないかどうか確かめているのだろうか。
 彼の息は、まったく乱れていなかった。
 すらりと背の高い、茶がかった髪の少年。
 どこか心の落ち着く、気配。
「……ありがとう。また助けてもらっちゃったみたいだね」
 背中に、駿が話しかける。
 振り向いた、その瞳はやはり翠玉(エメラルド)の緑。
 鮮やかな宝石の瞳が、ほんの少し困ったように細められる。
「また…おまえか。今朝の」
 その声の響きには、戸惑ったような色が含まれている。
「そうみたい。ごめんね、何度も」
 少年は首を横に振った。
「これが俺の…目的のための手段としてやっていることだから、気にしないでいい。それより、災難だったな。奴らに偶然2度も襲われるなんて」
 それは何気ないはずだった一言。
 だがそれにぴくりと駿は肩を揺らす。
「……偶然……なのかな」
 今度は少年が反応する番だった。
「どういうことだ?」
「2度目は…そうじゃない気がするんだ。なにか……つけられてた、みたいな」
「なに?」
「あ、ほんとに、そんな気がするだけなんだけどね。よく思い出してみると…今朝あれに遭ってからずっと、何かが僕を見張ってるような感じがしてた……かも」
 とたんに少年の顔つきが厳しくなった。
 何かを考え込むように黙り込む。
「…それは、たしかか?」
「たしかとは言えない…と思う。僕にはそれ以上のことはわからないから」
「…………」
 少年はまた黙る。
 駿もつられて黙り込んだ。
 と、ちらりと少年が駿を見る。
「……それがたしかにしろ不確かにしろ、おまえのそばにいればあいつに遭遇する確率は高い、と。そういうことか」
「そうなるのかな」
「あぁ。今夜は、おまえに同行させてもらいたい。俺はあいつを倒すのが目的だし、おまえは自分の命を守る……そのための取引だ。条件は悪くないと思うが?」
 命を守る…それが駿の胸に重くのしかかる。
「むしろ、僕の方からお願いしたいくらいだよ。情けないけど」
「そんなことはない。奴らに遭ったあとだというのに、そんなふうに冷静な受け答えが出来るんだから、ずいぶん強い精神力だな。第一、精神力が強いんでもなければとっくに奴に喰われているだろうしな」
「……そんなこと、初めて言われた」
「そうか? ……とりあえず、商談成立だな」
 すっと少年が手をさしのべる。
「おまえ、名は?」
「御里。御里駿」
「俺はすばるだ」
「……すばる……」
 駿は少年の…すばるの手に、自分の手を重ねた。


 すばるの心は混乱していた。
 奴…《邪精》が、駿を狙った……。
 駿の気のせいではないとまだ言い切れるものでもないが、それがもし真実だとしたら。
 ―――《邪精》は同じ人間を狙って2度以上の攻撃をすることはない。
 それは奴らが「喰う」ために人を襲うのであって、それが「誰か」にはこだわらないせいだ。
 奴らは“負の感情”や“純粋な心”を好んで喰らう。
 だから大勢の中にその因子が強い者がいればその者に襲いかかるが、あえてそれを追ってまでは襲わない。
 その時近くにいた者をかわりに襲うだけだ。
 奴らは「食事」が出来ればいいのであって、その中身にはこだわらない。
 ……それが今まで数えればキリがないくらい《邪精》と戦ってきたすばるが導き出した結論だった。
 しかし駿の後ろに《邪精》の姿を見たとき…すばるがとっさに思ったこと。
(しまった……待ち伏せか!)
 駿だけではない、すばるもそう感じていた。
 自分なりの結論を持っていたすばるでさえ。
 だとすれば……?
 が、そうなると話はさらにややこしくなる。
 奴らが特定の個人を狙うようになれば、今までのように力任せに襲いかかるだけでなく、策略を用いてくる可能性があるのだ。
 力押しでこられるよりよほどやっかいだ。
(今回のことは偶然なのか、……それとも《邪精》が進化しているのか)
 できれば前者であって欲しい。


 そして。
 すばるの中にはもうひとつ混乱があった。
(俺が、「誰か」を「守ろう」としている……?)
 これまでは《邪精》を倒せればよかったから、襲われている者のことなどどうでもよかった。
 だから駿のことも放っておけばよかったのだ。
 仮に《邪精》が駿を狙っていても、駿を張ればいいだけのこと。
 それなのに、同行を申し出た。
 その理由は。
(……似ている………)





 夜もだいぶ更け、まったく人の気配のない道を、さらに奥へ進む。
 その辺りはクラスでいえば高級住宅街のようだ。
 一軒一軒の規模の大きい家が、道の両側に整然と並んでいる。
 駿はその中の目立たない一角へと曲がっていく。
 すると目前に、こぢんまりとした森が目にはいる。
 すばるがそれに目をとめたのに気付いた駿が、あぁ、と笑う。
「隣の家の土地なんだ。みんな最初はどうして住宅街の中に、って驚くんだけど、手入れもされてて綺麗だからすぐにみんな気に入ってくれるよ。……それで、ここが僕の家」
 駿が指したのは森の隣。
 小ぶりの家が静まり返ってそこにはあった。
 どこにも明かりはついていない。
 小さく見えるのは、やたらと大きい家々の続く道を通ってきたせいだ。
 庭もちゃんとあるし、この国の平均的な一軒家の大きさを考えれば大きい方なのだろう。
「……とりあえず、夜明けを待とう。夜が明けるのを待って、こっちから仕掛ける」
 ふと呟くようにすばるが言った。
 振り向いた駿も真面目な顔で頷く。
「だね。じゃあ作戦会議をしておかないと。…あがって」
「な……」
 すばるは目を見開く。
 不用心だ、と言おうとしたが、駿は素知らぬふうで、
「大丈夫。誰もいないから」
「だったら余計、見ず知らずの俺なんか」
「すばるくん、でしょ」
 と、笑う。
 こんな状況下で笑える……すばるには理解できなかったが……けれど。
「それに、やっぱり少し怖いし。…って言ったら、おかしいかな」
「……いや」
 すばるはわずかに目を細めた。





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