Story.2

〜桜〜

第3章

June 14th, 2002

★ ★ ★







 玄関の鍵を開け、中に入る。
 家の中は、外から見た通りで、明かりはまったくついていない。
 ただひやりとした空気が漂っている。
 それはまるで、無人の家だ。
 すばるが驚いたようにその暗がりの先を見つめていると、駿が玄関の明かりをつけた。
 とたんにそこが、一般家庭と変わらない玄関だとわかる。
 作り付けの靴箱、金属製の傘立て、大きな姿見、奥まで続く廊下。
 明かりがあるとないとで、これほど違って見えるなんて。
 駿が靴を脱いであがりながら、すばるに笑いかけた。
「あがってくれる? 片付けてないんだけど」
「家の人は」
 言いかけたすばるを、駿がさえぎる。
「うん、本当に誰もいないから。僕だけしか住んでない」
 誰も?
 たしかに、夜も更けたとはいえ日付が変わるまではまだ時間がある。
 この時間に家の電気がすべて消えているということは、家人の留守を表すのだろうが。
 それにしても、駿だけ?
 何故、と問おうとしてやめた。
 それは駿のプライベートだ。
 すばるには関係がない。
 それを問う権限もなければ、他人に興味もない……。
 そう振り切って、すばるも靴を脱いだ。
 すると、
「どうしよう。何か用意しようか」
「何を?」
「夕飯。すばるくんはご飯食べた?」
 すばるはあっけにとられて駿を見た。
 見ず知らずの人間を引き入れて、夕飯?
「いや…。だが、そこまでしてもらうことはない」
「じゃあいやじゃなかったら食べてくれる? ひとりじゃつまらないから」
 駿の笑顔。
 不思議と、思わず頷いてしまいそうになる。


 駿はダイニングにすばるを招き入れると、「ちょっと待ってて」と言い置いてキッチンへ消えた。
 それからほんのわずかして、サンドイッチの乗った皿を持って出てきた。
 どうやら今の間で作ったらしい。
 ふたりは言葉少なに食事をした。
 すばるは時計を気にし、駿は窓を気にしながら。
「……追って、来るかな」
 ぼそりと駿が呟く。
 それを見て、
「……怖いのか」
 すばるが問う。
 駿は肩をすくめて、笑った。
「まぁね。普通の反応すぎるかな、と思うけど」
「そうだな。普通、か」
「僕って平凡だね」
「この場合、普通でないことの方が難しいんじゃないのか」
「ああ、そっか。そうだよね」
 なんてことはない会話。
 ほんの少しだけ、駿の語尾が震えていることにすばるは気付いている。
 それでもやはり、これだけの冷静さを保っていられた者を見たのは初めてだった。
 どんなに気丈に振る舞っていても、だいたいの者がおびえを隠せずにいた。
 第一、本当に心の持ちようが強ければ、いくら「負の感情」や「純粋な心」を持っていても《邪精(イーブルフェアリー)》は近づけない。
 だからそれを見た者は、必ずどちらかに当てはまるはずだと思っていた。
 だが……この少年は。
 実際のところ、すばるには襲われた人間が「負の感情」を持っていたのか「純粋な心」を持っていたのかの判別はつかない。
 それはそうだろう、《邪精》と戦っているからといって人の心を読むほどの力はすばるにはないのだ。
 時折そのものの表情や態度から読みとれることもあったが、それがさほどの意味を持つとは思えなかった。
 理由はどうでもいい。
 ただ《邪精》を倒すだけだ。
 そのはずだ。
 なのに、駿が襲われた理由……。
 それは何となくわかる気がした。


「ねぇ……」
 わずかな沈黙の後、駿がぽつりと声を上げた。
 じっと床を見ていたすばるは弾かれたように駿を見る。
 駿は、すばるの目をじっと覗き込む。
「あれはいったい何なのか……それを、聞いてもいいかな?」
 まっすぐに見てくる駿の目。
 それは、不思議な強さを持っていた。
 到底力がありそうには思えない外見だが、その眼の色はずいぶん深くて強い。
 見たことがある、色だ。
 すばるはそっと息を吐いた。
「……ひとつだけ、言っておく」
「うん」
「この世界の人間は…誰一人として今の事態を把握していない。だから、今は平穏無事に暮らせている……いや、暮らせていると思っているんだ。何も知らなければ、身を守る法もないが深入りする危険もない」
「そうだね」
「つまりは……俺がここで『あれ』の正体を話せば、御里…おまえが直接奴らの標的にもなりかねない。それをわかってるのなら話してもいい」
 言葉が上滑りするのをすばるは自分で気付いている。
 すばるはそれを話すことをためらっていたのだ。
 もちろん言葉通りの意味でもあるし、言外に自分の態度にとまどいを覚えたせいでもある。
 駿にどんな答えを出してほしいのか、それさえがよくわからなかった。
 その駿は、一瞬唇を噛んだ。
 けれどすぐに、柔らかな笑顔を浮かべる。
「……わかってるよ。大丈夫」
「でも」
「すばるくんの言うことは、わかる。僕が秘密を知れば、それを良く思わないあの連中が僕を襲うかも、ってことだよね?」
「そういうことになる」
「うん。でも、僕は2度襲われてる。僕はそれをつけられたんじゃないか、って思ってて、すばるくんもその可能性がないわけじゃないから僕のうちにまで来てくれてるわけだね。だったら、知ろうが知るまいが、僕は明日にでも襲われる。そうじゃない?」
「!」
「どうせそうなるんなら、何も知らないまま殺されちゃうより、理解してから殺されたいな。正体不明の殺戮者じゃ、納得できないよ。……あ、もちろん殺されるつもりなんてないけどね」
 肩をすくめて駿は笑う。
 何も疑わない笑顔。
 すばるは肩から力が抜けるような感覚にとらわれた。
「……なるほどな。そういうことになるか。……だが、御里。おまえ、俺が本当はあいつらの仲間だったらどうするつもりだ? おまえを助ける振りをして、家に入るチャンスを得たのかもしれないぞ」
 が、駿はきょとんとして。
「え? すばるくんが? まさか、ありえないよ」
 とても簡単なことのように。
 すばるはもう一度息をつく。
「わかった。…その前に、お茶のおかわりをくれないか?」
 夜明けまでは、あと数時間。


 かたりと物音ひとつもしない家。
 割と広いその家の中、居間にだけ灯された明かり。
 その心細げな明かりの中で、すばると駿は並ぶようにして座っていた。
「最初に言っておくが。俺も全てを理解しているわけじゃない。経験で何となくこうなんだろう、と理解している程度だ。それ以上はないから、期待には応えられないかもしれないぞ」
「うん、いいよ」
「そうか……」
 すばるはそっと目を伏せた。
 どこを見るでもない視線の中で、今までに戦った《邪精》の姿が次々と浮かぶ。
「まず…あいつらは《邪精》という」
「イーブル……フェアリー」
「全くセンスのない命名だな。その昔、俺が奴らと戦い始めた頃、しゃべれる奴がいて……そいつがそう名乗っていた」
「昔から戦ってたの?」
 すばるの目を見て駿ははっとする。
 ずいぶんと遠くを見ている目だ、と思った。
「…そうだな。随分昔なような気がする」
 すばるの翠の目。
 感情が読みとれない色だ。
「俺はある時、ふとした弾みで《邪精》と呼ばれる奴らに遭遇した。奴らは、人を喰らう。厳密に言えば、人の心だな」
「心? でも亡くなった人もいるんだよね?」
「奴らは心だけを喰らうような高等技術は持たない。体を引き裂いて、その心が上げる悲鳴を食いちぎり、喰らう。まれに心だけを喰らう奴もいるようだが……どちらにしろ心が食われれば、その人間は死んだも同じだろう」
「…うん」
「かといって、誰でも彼でも喰う訳じゃない。それなりに奴らも好みがある。それは、『負の感情』…いやだ、怖い、苦しい、悲しい、憎い、ずるい、羨ましい…そんなマイナスのベクトルを持った感情だな、それを抱いている奴を狙う」
 誰もがふとした瞬間に抱いてしまう、気持ち。
 その差は大きいか小さいか程度で、あるかないかではない。
 その強さが問題なのだとすばるは言った。
「強ければ強いほど美味いんだろうな。実際に喰ったことがある訳じゃないから知らないが。人間同士だってあるだろう、他人が不幸になるほど愉快になるようなことが」
「他人の不幸は密の味…ってやつだね」
「あぁ。《邪精》も様々なタイプを見てきたが、その『負の感情』を好むのは共通の思考のようだ」
「じゃあ、僕も?」
 駿は今朝と、そしてさっきのことを思い出した。
 マイナスのベクトル……自分の心を深くへ沈めていく感情。
 いやだ、怖い、苦しい、悲しい、……。
 それはどうかわからない。
 けれど、さっき…長い間仲の良かった友達と、別々の道を歩き出すことを寂しく思っていた。
 悲しいと、切ないと思っていた。
 まさかそれで?
 そう目で問いかけるが、すばるはあっさりと首を振った。
「違う。御里が襲われた原因は…奴らのもう一つの好みのせいだろうな」
「もう一つ?」
「そうだ。奴らは『負の感情』の他にも好む心がある」
「それって?」
 ぴたり。
 なぜか、すばるが口を閉じた。
 首を傾げて先を促すが、すばるは何を考えているのか押し黙ったままだ。
「すばるくん?」
 改めて問いかけると、ようやく口を開いた。
 けれど。
「それはあとで話す。それより」
「?」
「……近い、かもしれない」
 駿はそのすばるの言葉に首をかしげる。
 すばるは、厳しい顔で振り向くと、視線だけで頷いた。
「奴が、近づいてきている気配がする……」
「! それって、さっきの奴?」
「かもしれない。この町には今、2匹《邪精》がいるらしいから、はっきりとしたことは言えないがな」
「2匹、か。じゃあどっちかわからないってこと?」
「そういうことだな。そう遠くはない…さっさと戦闘の方針を決めておいた方が良さそうだ」
 ごくん、とつばを飲んで、駿が頷く。
 すばるはもう一度考え込むような瞳をして押し黙った。


 わずかに間をおいて、すばるがローテーブルの上に何かを置いた。
 からから、とガラステーブルの上でそれが音を立てる。
「これ…は?」
 駿が不思議そうな顔で問う。
 ガラステーブルの上には、いくつか石がばらまかれていた。
 石といっても、透明だ。
 赤と緑と青と、それぞれ薄い色で、部屋の灯りを通して床にそれぞれの色の影をつけていた。
 ガラスかと思ったが、それとも少し違う気がする。
 すべての石には中にひびが入っており、光の差し方でわずかに色を変える。
「綺麗だね……」
 まるで鼓動でも聞こえそうな奇妙な石。
 規則的な波動。
 駿の素直な感想に、すばるは反応に迷ったようだった。
 が、すぐにそのうちのひとつを手に取る。
 薄い緑色の石だ。
「これは…俺たちは『リファールの石』と呼んでいるんだが。不思議な力があるんだ」
「やっぱり、普通の石じゃないんだ」
「やっぱり?」
「えっ!? あ、うん、ほら、そんな気がしたから……」
 そうか、と呟いてすばるは続ける。
「さっき…奴に襲われた時のことを覚えているか?」
「うん。……あっ。あの時の」
「そういうことだ。俺が奴に投げつけたのが、これだ。『風の石』。風の精霊の力が封じ込めてある」
「そっか、だからさっき光と一緒に風が吹いたんだ」
「攻撃はもちろん、足止めにも使える。使いようによっては効果は千差万別だろうな。ただ、威力自体はそんなに大きくない。あとは、一度使ってしまえばそれまでだから…そこが問題といえば問題だな」
 駿の脳裏に、あの緑の光が甦る。
 まばゆい色。
 澄んだ色。
 光に澄んだも澄まないもないと思っていたが、あの光は違う。
 物理的な力としては強くはないが、なにか胸に迫る強さがあった。
「攻撃手段としてはこれくらいしかない。心許ないが…やるしかないだろうな」
「うん。これを、僕が?」
「やれるか?」
「やってみるよ。使い方はあるの? すばるくんは呪文みたいなものを唱えてたけど」
「…そうだな。別に決まり文句があるわけじゃない。適当でいい。ただ、頭に精霊に呼びかけると使いやすい」
「風の精霊よ…っていうあれだね。うん、わかった」
 すばるは駿にひとつ、ふたつと石を渡す。
 そして渡しながら、
「だいたい想像はつくと思うが…この赤が炎、青が水、それから緑が風だ。間違えると機嫌を損ねるのか、暴発する可能性がある。そこだけ気をつけてくれ」
 と言った。
 赤が炎、青が水…駿が口の中で繰り返す。
 優しい薄い色。
 精霊の力……。
 ふと気付いたように、すばるが駿の顔を覗く。
「……信じるのか?」
「え? なにを?」
「精霊の存在。普通は信じないものだと思うが?」
 問うと、駿は少し困ったように笑った。
「そうだね。…だって、あんな奴らがいるなら、精霊だっているんじゃない…?」
 少し迷うような言葉。
 それがなぜか、すばるの胸に強く残った。





 一睡もしないまま、夜が明けた。
 眠くなる余裕すらなかったから、大して苦ではなかった。
 むしろ、これからどうなるかを考えた時、そこに不安がある。
 だが、今不安を持っていてはならない。
 ここで気を抜いていては、《邪精》に立ち向かうことすらできない。
 …朝日がようやく暗い空に光を見せはじめた頃、ふたりはそっと家を出た。
 靴ひもを結ぶ駿の頭の上で、
「……いつもなら、俺には協力者がいる。だが、今は……。正直、キツいかもしれない」
 すばるが呟くように言った。
 はっとして駿が顔を上げると、もうすばるは玄関のドアを開けていた。
 駿はもう一度決意を瞳に込めると、きりりと靴ひもをきつく縛った。


 広い場所がいい、といったのはすばる。
 駿が近くの公園を挙げると、すばるは頷いた。
 その頃には、後ろに微かな気配を感じていた。
 いる。
 近くにいる。
 足早にふたりは公園に駆け込んだ。
「…やっぱり広い場所がいいの?」
 小さく駿が聞く。
 すばるはそれをちらりと見て、
「あぁ。こっちとしても周りのことを考えなくてすむ。向こうとしても狭い場所じゃ身動きが取りづらいだろうからな。あえて狭いところを選んでもよかったんだが、下手に人がいるそばで迎え撃って、大騒ぎされるわけにはいかないからな。来るぞ」
「うん」
 すばるがそうしたように、駿も身構える。
 かといって駿はすばるのように武道で戦えるわけではない。
 身を守るのは、すばるから渡されてポケットにたくさん入っているあの石だけだ。
 すばるは言った。
 ───ちゃんと戦おうとか、そういうことは考えなくていい。
    まず、自分の身を守ることだけ考えろ。
    それでもし余裕があれば、それを使ってフォローしてくれればいい。
 そうだ、駿にできることはわずかしかない。
 わずかしかないが、だからこそそれを果たしたい。
 黒い粒子…昨日と同じ。
 駿は、そっと石を握った。


 どんっ。
 とっさに何が起きたのかわからない。
 気付くとそれは、すばるが駿を突き飛ばしたのだった。
 それまで駿がいた場所には、鋭くえぐれた土。
 ばっと視線を仰がせると、すばるが《邪精》を蹴り飛ばしているのが見えた。
「すばるくん!」
「さがれ、御里っ。間合いを取るんだ」
 攻撃の合間、すばるはこちらを見ずに言う。
 駿は頷いて、背を見せないように後退る。
 ……思っていたより、俊敏だ。
 昨日の朝のように、ゆっくりと歩んでくるのだと、どこかでそう思っていた。
 それを奴は、いきなり攻撃をしかけてきたのだ。
 すばるの瞬時の判断がなければ、えぐれた土は駿の姿だったはずだ。
 駿は固く唇を噛み、手のひらに握りしめた石に神経を集中させた。
 手のひらの中の石は、緑。
 濁った赤の目は、思わず吐き気がするほど気色が悪い。
 けれど、押しつぶされるわけにはいかない。
「…っ、風の精霊よ……っ」
 わずかに戸惑いながら、それを……投げた。
 信じていないわけじゃない。
 目の前にある事実から逃げるつもりはない。
 だが、自分の投げた石の力が届くかどうか、それでなくともいきなり本番だ、それが少しの迷い。
 そのせいか、《邪精》の足下に落ちた緑色の石は、しんと反応がない。
(…うわ、失敗……?)
 焦る駿の視界に、赤い目がぎらりと向くのが見えた。
「御里っ!」
 すばるの声。
 答えられない。
 が、その時。
 ────ふ………ざあぁっっ!!!
 吹き上げる風。
 《邪精》が動きを止める。
「で…っ、できた…」
 思わず駿は呟く。
 その強い風に、公園の端に咲いた桜の花びらが落ちて舞い上がる。
「すばるくん…!」
「ああ!」
 隙をついて、すばるが《邪精》の間合いに飛び込んだ。
 1発…2発。
 攻撃の手をゆるめない。
 視界は、桜の花びらであふれかえる。
 淡いピンク色……。
 すばるの瞳、《邪精》の向こう、駿の姿。
 桜………。
 一瞬、集中力が途切れた。
「!!」
 自分に向かって振り下ろされる鋭い爪。
 避けたつもりが、完全には避けられていなかった。
 ざんっ!!!
 二の腕を、えぐる。
「…すばるくんっ!」
 駿の声がする。


 ふぅっと。
 景色が、ぼやける。
 淡く霞がかった、ピンクの景色。
 満開の桜の下で、笑っていた……。
 手を伸ばす。
 でも届かない。
 それはもう、知っていたはずで。
 必死で叫んでも、手のひらは空虚な風をつかむ。
 笑顔が、
 遠い。


「炎の精霊よっっ!!!」
 ごぉぉっ。
 先程の風とは違う、熱い風が前髪をなびかせる。
 すばるはそれで我に返った。
 はっと見ると、駿がいつの間にかすばると《邪精》の間に立ちふさがるように立っていた。
 《邪精》は足についた炎を振り払おうともがいている。
「大丈夫? すばるくん」
 目線だけ振り向かせて、駿が聞く。
「あ……あぁ。済まない。気を抜いた」
 あれは幻。
 桜が見せる、幻覚。
 わかっている。
 すばるは左腕を押さえつけた。
 指の隙間から血が流れるのがわかったが、大して深い傷ではない。
「…行こう」
「うん」
 改めて、ふたりは《邪精》に向き合う。
 それでも不利な状況には、かわりがなかった。





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