扉
− 2 −
「待てってば、おい!」
足早に階下に降りるルックを、踊り場でなんとか捕まえた。
腕を掴むと、ぞんざいに振りほどいてくる。
もう一度腕に手をかけたが、やはりルックは俯いたままそれを払いのけた。
「なぁ…ルック! さすがにあれは言いすぎだよ。気持ちはわかるけど…だけどさ……。きっとあの連中もわかってるんだって。わかっててもどうしようもないって…そういうことなんじゃないかって」
「……っ。そんなの!! 僕だってわかってるよ!!」
声を荒げたルックが、顔をあげる。
シーナははっとした。
何かをこらえているような…。
(………泣きそうな…顔……)
こんな顔をするなんて。
初めて見る、ルックの意外な表情。
強く唇を噛み締めたルックは、すとんと視線を床に落とした。
小さな肩…いつもよりももっと小さく見える。
「…わかってる。あんなこと言っちゃいけない。わかってるけど、でも、我慢できなかった。これからの軍を考える、だなんて名目で集まっておきながら、悲しいから戦いたくないだとか死を利用するような真似は嫌だとか、あれをずっと繰り返してるんだ」
「オレが帰ってくるまでも?」
「そうだよ。ずっとあれの繰り返しさ。何のつもりでここにいるんだ? だってこれって戦争なんだろ? 勝たなきゃいけないんだろ? 誰かが死ぬのは、わかりきってたことだろ!?」
「……だな」
「僕たちは戦いに出る、怪我人が出れば死人も出る、それは向こうだって同じだ。そうやってたくさんの命が落ちるのを、僕たちは見てきた。いや、僕たちがそうしてきた。……なのに。よく知った人が死ぬと、……そのときだけ悲しむんだ」
少しずつ静かになるルックの声。
それをシーナは言いようもなく悲しい気持ちで聞いていた。
搾り出すようなセリフが、とても痛い。
「……ああ。けど…そういうものなんだろうな。実感のない『死』は、身近でない『死』は、ただの定義としての言葉でしかないんだ。でも、悲しいのが自分だけだって…そう思っちゃいけない。僕は、だからああ言ったんだ。………だって。一番悲しいのは、誰だよ………」
ルックが顔を隠すように俯いた。
栗色の髪がさらりと顔にかかる。
シーナは痛みに耐えるように目を細めた。
「…悲しみは量れない。相対的なものだし比べられるものでもないけど、……レイだろうな」
呟くように。
押し黙ったふたりの間に、冷えた風が吹いた。
シーナは迷っていた。
今、ルックにそれを聞いてもいいのか。
聞いてしまえば、ルックにもう一度悲しい思いをさせるかもしれない。
けれどそれを確かめる手段は他にはない。
同行したほかの誰かに聞くという手もあるが、一番近くにいたのはルックのはずで。
そして、一番深く意味を理解しているのも、たぶんルックだ。
「……ルック。……改めて…聞くけど。グレミオさんが……亡くなったんだな?」
こくり、ルックは頷いた。
間を置かない返事は、おそらくシーナの問いを予想していたからだろう。
「そう…レイを守って。本当に…あの過保護男らしいよ」
ルックはそう呟いて、ぽつぽつと語り始めた。
ソニエール監獄へ潜入した経緯。
そこに仕掛けられた罠。
内側からしか開閉のできない小部屋。
ガラスの瓶。
レイとルックの目の前で、閉じられた扉。
何の感情も見せない声で、ルックは淡々と語る。
だからこそ余計に、その異常な光景がその場にいなかったシーナにも感じられた。
「人食い胞子?」
「最悪だろ? もとから趣味はいいと思ってなかったけど。そこまで趣味も悪いと敬服するね。……バラの毒に加えて、あれが戦場にばらまかれたらどうなる?」
「っ……」
「…まぁ、密室でしばらく放置したら死滅したし…その前の戦いで使われなかったところを見ると、たぶん実戦向きじゃないんだろうな。たぶんあれは研究途中なんだろ」
その言葉を聞きながら、シーナは出会った頃を思い出す。
そう、初めて会ったとき…シーナを心底疎んじていた、あの頃のような口調だ。
おそらく今はシーナを否定しているわけではない。
否定しているのは……。
「それで…? レイは?」
思わず問うと、ルックは触れられたくなかったように唇を噛んだ。
しかし黙っていることもできないと思ったのか、
「……何も…。時々ぼんやりしてるみたいだけど、……何も、言わない」
「! それって…!」
「言葉はしゃべるよ。そうじゃなくて。……だってあいつ、言ったよ。『直ちに軍を立てなおす。解毒剤が出来次第、スカーレティシアに攻め込む』って」
シーナが息を呑む。
構わずルックは続ける。
「僕は、なんて言ったらいいかわからなかった。どんな言葉が救いになるのか、知らなかったから。…たぶん、そんなもの、ないんだろうね。……その僕に向かって、レイは……笑った」
「!」
「笑って、『大丈夫だよ』って……。あいつ、笑って……!!」
震えそうになる体を、ルックは自分で抱きしめる。
その笑顔が、染み付いて離れない。
「今は? レイは!?」
「ビクトールに少しは休め、って言われて、自室。普段どおりだよ。変わらない。逆に落ち込んでふさぎこむ連中を慰めて…! 僕はあんな顔、見たことない。大人の顔だ。僕の知らない『リーダー様』だ…!」
シーナは寒気が体中を駆け抜けるのを感じた。
目の前に突きつけられた現実。
レイの態度。
それをつき合わせてみれば、レイが何を考えているのかがおのずと見えてくる。
「あの、バカ……! 自分を殺す気か……!?」
シーナはギリ、と唇を噛んだ。
一番……
失いたくない人で、あったはずだ。
誰よりもそばにいた人であったはずだ。
気丈に振る舞っても、どこかで子供のようにぬくもりを欲していた彼の、
ぬくもりがその人だった。
彼は、その誰より大切な人の『死』を、
すべての『死』と同じように、
受け止めようとしている。
理由は一つだ。
彼が、『リーダー』であるから。
人をまとめる者が、己の悲しみに浸りきってはいられない……。
それは下に従う者を、不安にさせるから。
けれどそれは、
『解放軍リーダー レイ・マクドール』を彼のすべてにするということ、
すなわち……
『レイ』を、殺すということ。
その両立だって、不可能ではないはず。
けれど彼は、それを使い分けられるほど器用ではないから。
「あいつ……レイ……。信じられないよ。どうしてあんなに馬鹿真面目なんだか」
非難の響きのない声で、ルックがつぶやいた。
不器用に、それでもまっすぐに与えられた道に立ち向かう姿が、今は痛い。
そんなとき、ただ眺めていることしかできない自分の無力さに気付く。
レイにとって、自分は、『同じ軍に所属する者』でしかないのか?
何をレイにしてあげられるのだろう。
「せめて…せめて、オレがそこにいれば……っ」
シーナは吐き出すように言った。
ルックはそれを聞いた瞬間、はっと顔をあげる。
そうして、
────ぱんっ。
シーナの頬を叩いた。
「!? ルッ……」
「あんたがいて、どうしたっていうんだよ!! なに? 代わりにあの部屋に残って、レバーを引いた!? レイにグレミオを残すかわりに、あんたが死ねばよかったって!? それでレイが悲しまなくてすんだなんて思うなら、あんたは本当のバカだよ!」
「……! でも、オレには、何もできない…!!」
「それなら、そこにいても何もできなかった僕は、どうすればいいんだよ!!」
「っ!」
ルックは、シーナを突き飛ばす。
シーナが呆然としている隙に、ルックは階下に駆け出した。
そうだ…今自分は何を言った?
そこにいられなかった自分を責めているようで……同時に、ルックも責めていなかったか?
なぜ、と自分に詰問する。
何もできなかった自分が苦しいのと同じように…。
いや、それ以上の強さで苦しんでいるルックに向かって…!
「ルック!!」
もう姿の消えた階下に向かって、シーナは叫んだ。