約束
− 2 −

「ルック」
 廊下の壁に寄りかかって立っているルックに、走り寄りながらシーナが名前を呼ぶ。
 ルックは表情のない顔を向けた。
「レイは…」
「…報告と、今後の打ち合わせ、だってさ」
 言いながら視線を動かしたそこは、大広間。
 ただ普段と違うのは、完全に扉が閉ざされていることだ。
 レイが閉めたわけではない。
 けれどそれは何かの拒絶にも思えてしまう。
 窓から風が吹き込む、その向こうはよく晴れた空。
 それはいつもと同じはずなのに。
 どこかで運命がねじれてしまったというのなら、一体どこから変わってしまったのだろう。
 それとも、そのねじれた姿こそが運命そのものだというのだろうか。
「あんたも…早かったね」
「…ん? あぁ、親父の話?」
「うん…。いつもは、ああだこうだって文句つけられてるんだろ。そのあとほとんど毎回剣の稽古させられてるじゃないか」
「そうだね、いつもはそうなんだけどさ。さすがにね……」
 言って、シーナは目を伏せた。
 声もどこか静かで、普段のような前向きな明るさが影を潜めていた。
 そのあとの言葉も紡がれるはずだったのに、それきり口を閉ざしてしまう。
 ルックはそれをほんのわずかに眉をひそめて見つめ、また目を逸らせた。
 どうせ口を開いたところで、たぶん話題は予想できるものしかない。
「…………」
「…………」
 会話が尽きる。
 けれどそうやって何も話さずにいることが、今唯一ふたりを落ち着かせる方法だった。
 誰かに根掘り葉掘り聞かれて、あの時のことを蒸し返すことは、やはり心苦しかったから。
 それでなくともリーダーレイの動向は、解放軍中はおろか周辺地域の住民までもが注目している。
 だからレイと近しいふたりには常に「今リーダー殿は…」という問い合わせが多かった。
 それは不特定多数の人間とコミュニケーションをとるのが苦手なルックにとっては特に、苦痛以外のなんでもない。
 だが今はそれ以上に、触れて欲しくなかった。
 たとえばそれがその辺にいる「誰か」の周りで起きた不幸な出来事だったとすれば、シビアな言葉のひとつやふたつ吐いたかもしれない。
 本人に対してもさらりと言えたはずだ。
 しかし、状況が違う。
 レイなのだ。
 その渦の中心にいるのは、レイなのだ。
 ルックは、小さく「ねぇ、」と呼んだ。
「……なに?」
 同じくらいの声でシーナも答える。
 視線は合わせずに、ルックが繋げる。
「…あのさ。僕は…僕たちは、一体なにを恨んで、一体なにを呪えばいいんだろう」
「え…?」
「わからなくなったんだよ。こうして今も理不尽な戦いの中にいて、なにかを呪いたい気持ちがあるのに。本当は、その対象はなんなんだろうってね。帝国を? 解放軍を? 運命とかいうものを? 自分自身を? ……それとも、………『呪い』と呼ばれる、真の紋章を……?」
 ルックは、自分の両手をじっと見た。
 その行動には意味はない。
 ただ、あまりにも無力に感じる自分自身がそこに表れているような気がした。
 この手には…なにも、つかめないと?
 けれどルックはすぐに頭を振った。
「…いや。僕は何を言ってるんだろうね。呪ったところでどうなるものでもない…」
 そう言うルックの顔をそっと覗いて、シーナは眉根を寄せた。
 呪っても仕方がない、と言いながら、心の奥でルックは何かを呪っている。
 それはたぶん、深い深い、漆黒の闇の色をしている。
 その正体はわからない、けれどそれがルックを傷つけ続けているような気がした。


 ふと、シーナは以前ルックが言った言葉を思い出した。
 あれは3人で川に落ちたあと…城に戻ってきてからだった。
「あのさぁ、ルック? ずっと聞きたかったんだ。キョウセイってなんなんだ?」
「なんだよ、急に」
「ルックが前に言ったんだよ。空を見て、キョウセイってさ。あれは……」
 ちらりとシーナに視線を送り、ルックは深く息をついた。
「あれを、聞いてたのか。……今の会話の流れでその言葉を持ち出してくるってことは、あんたにも大体なんのことかわかってるんだろ?」
「大体、だけどさ」
「それで十分だよ。凶星……凶事を予知する星だ。僕はあの時、それがレイの身に降りかかることに気付いた。でも、レイには言わなかった。レイを不安にさせるだけだからね。…それに、僕は、その星の災害をレイが受けずにすむようにしようと…してたんだ。結果、失敗したけど」
 淡々とルックが告げる。
 凶事の先触れの星…。
 そうなのだろうとシーナも思っていた。
 厳密に言えば、そのときはわからなかったのだが、状況が変わっていくことで何となく理解していた。
 ビクトールが感じたという不吉な予感、シーナが感じた漠然とした不安、そうしてルックの言葉。
 そのすべてが、レイに起こるだろう「なにか」を予言していたのだ。
 とはいえ、その「なにか」がなんなのかには気付けなかった。
 気付けなかったから、それを避けることができなかった。
 おそらくルックも同じ思いでいるのだろう、それまで冷静さを保っていた表情がわずかに歪んだ。
「……そうだ。僕は、その予知に気付いてたよ。だけど、それがどのくらい続くのかはわからなかった。グレミオが死んで、これがあの凶星の予言だったんだと納得してしまった。それだけじゃなかったんだ。レイの父親も、親友も、あの時にもう死は予言されていたんだ。本当に…レイは、失い続けてる…!」
 ルックは、それが「運命なんだそうだ」とシーナに言ったことがある。
 たしかにそれは理不尽だ。
 理不尽だ、と感じる。
 しかもそれが、レイの右手に宿る呪いの紋章『ソウルイーター』の仕業だと言われたからなおさらだ。
 シーナにはその力の強さは漠然としていて、今ひとつピンと来ない。
 けれど、それが大きな哀しみを生み出しているということだけはわかる。
 300年……その始まりの瞬間を、シーナも目にしていたから。
「真の紋章…が、そういうものだって…ルックは知ってたの?」
 思わずそう聞くと、ルックが目を上げた。
 まっすぐにシーナを見据えると、
「知ってたよ」
 きっぱりと答える。
「持ち主に不老の体と莫大な力を与える。それが幸運なことか不運なことか、あんたはもうわかってるだろ」
「うん。レイの…ルックの思いは、知ってると思うから」
 シーナの答えにも迷いはない。
 ルックがはっとしたような表情を見せる。
「……僕?」
「でしょ。オレは人の心が完全に読めるほどできた人間じゃないけど。でも、ルックがそれに対してどう思ってるかは…たぶんわかってると思うよ」
 困ったような、笑っているようなシーナの顔。
 ルックは唇を噛んでうつむいた。
 そうして、ぽつりと。
「……僕は。レイが本当に笑った顔を………見たことがない」
「あぁ……。そう、かもしれない…」
 シーナが思い出したのは、幼い頃のレイの顔。
 無邪気に笑う、どこまでもまっすぐな笑顔。
 再び出会ってから、あんな笑顔を見たことは、……ただの一度もなかった。


 と、扉の開く気配。
 視線をあげてそれを見たルックがぽつりと呟く。
「……あんたが間に合ってよかった」
「えっ?」
 シーナが問い返そうとしたが、そのときにはもうルックは壁から体を離している。
 レイが広間から出てきたのに気付いたのだろう。
 一瞬遅れて気が付いたシーナがルックの後に続いた。
「…あれ? ふたりとも、待っててくれたの?」
 フリックと共に外に出たレイは小さく言って、……笑った。
 けれどそれは、やはりどこか儚げで痛々しい。
 対してルックは、感情の出ない顔で小さく肩をすくめた。
「別にそういうわけじゃないけどね。このバカとはここで偶然鉢合わせ」
「そっか。ごめんね、ちょっと長引いた」
「気にしてないよ」
 さらり、と。
 何気ない言葉のやりとり。
 シーナは思わず周りを見た。
 広間から出てきた数名の姿があるが、誰もそれに気付いた者はいないようだ。
 ……ふたりの会話の、奇妙な圧迫感。
 まるでふたりとも何かをギリギリのところで押さえ込んでいるような。
 周りの者は、ただ親友を亡くしたレイに同情し、それでも毅然とした態度をとるレイの健気さにある種の感動を覚えている様子だが、それだけのように思える。
 こんなやりとり、聞いているだけで苦しくなる。
 心の通っていないやりとりだ。
 まさかそんなことがあるわけはない、と思いながらもシーナはほんの微量の不安を感じていた。
 それはもしかして、レイを『リーダー』と見る連中が周りにいるせいなのかもしれない。
 そうでなければこんな雰囲気でふたりが会話するはずがない。
 ならば、とシーナが口を開く前に……レイが振り向いて言った。
「それじゃ、この辺で。…さすがに、ちょっと疲れちゃったよ。僕は少し休ませてもらう。悪いけど、よろしくね。………ルック、シーナ。僕の部屋、来ない?」



戻るおはなしのページに戻る進む