トライアングル17
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 僕はシーナと別れ、食堂を出た。
 普段ならついてくるのに、珍しいこともあるもんだな。
 今日は雪でも降るんじゃない?
 困るなぁ、行軍に差し支えるじゃないか。
 …まぁ冗談はさておき。
 シーナは前に、「オレといると楽でしょ?」なんて言ってたけど……的を射てるよね。
 本当に逃げ出すわけにはいかないとわかっていながら軽口を叩く僕を理解してくれてる。
 だからあんな妙な芝居ごっこに発展するんだけど。
 あんな…昔だったら当たり前だったようなやりとり。
 それをなくさずにいられたことは、幸運だったと思う。
 形や…相手は……変わっても。
 当たり前だと思っていると、その大切さに気付かないと人は言う。
 僕はそれをわかっていたつもりだったけど、今になって「気付かない」という意味を知った。
 心を占める、その重すぎる意味を。
 階段を上りながら、僕はかつての僕を思い出していた。
 そして考える。
 今の僕を。
 これからの僕を。


 最上階へ向かいかけた足が、ふとそのフロアで止まる。
 そうだ、ルックのとこ行ってみよう。
 途中ですれ違う人の会釈に会釈を返して、その小さな部屋を覗き込む。
 ……あれ。
 いない。
 他人が苦手なルックは人前に出たがらないから、大抵ここにいるんだけどな。
 見上げるほどの大きな石板だけがぽつんとある部屋は、奇妙な威圧感を持っている。
 部屋に入って近付くと、いっそうわかる。
 そこに刻まれた名前、名前、名前……「運命」というものに縛られてここにいる者たち。
 僕の名前もある。
 望むと…望まざるとに関わらず。
 それは絆と言うよりしがらみだ。
 ルックは……これをどんな気持ちで守っているのだろう。
「……レイ?」
 しんとした部屋に、静かな声が響いた。
 柔らかな声。
 息苦しい部屋の空気が、わずかに揺らいだのがわかった。
「おかえり。出かけてたんだ」
 僕は振り返りながら声をかける。
 部屋に入ってきたルックはほんの少しだけ肩をすくめた。
「ちょっとね。本を探しに」
「ルックって本好きだよね」
「知ることは好きだよ。レイだって暇があれば読んでるだろ」
「まぁ気分転換にはなるからさ」
 それでも前みたいに手当たり次第読んでる訳じゃない。
 どうしても実用的な書物を手に取ってしまうことが多い。
 だから最近、本当に熱中する本に出会うことが少なくなってる気がする。
「あぁ、じゃあ今まで図書室にいたんだね」
 僕が言うと、ルックはすっと目をそらせた。
 …え?
 本を見に行ってたんなら図書室だよね?
 僕、何かマズいこと聞いた?
 至って普通のことを聞いたつもりだったんだけど……。
「……今までというか…今少しいただけだよ。その前は食堂でお茶を飲んでた」
 戸惑うような声色。
 それでも別にそんな困るようなこと聞いたようには思えないんだけどな。
 そう思って、ピンと来る。
 食堂ってキーワードが繋がったからだ。
 言いにくそうにお茶してた、っていうルック。
 明らかに誰かの痕跡を残した空席の前に座っていた、シーナ。
 ふぅん……。
 ふたりでティーブレイク?
 珍しいこともあるもんだなあ。
 だって滅多にない光景だよ?
 それこそ、雪どころか巨大な雹さえ降りかねない。
 僕が驚いた顔で見ていたのに気付いたのか、ルックはちらりと僕を睨む。
「…なんだよ」
「あー…なんでもないってば」
「なんでもないような顔じゃないけどね。本当にレイは僕たちの前だと大根役者だね」
「だ…」
 うわぁ…ずいぶんはっきりと斬るね。
 べ、別に僕はそんなつもりじゃないんだけど。
 今だって何かを言いたかった訳じゃなくて、ただふたりは一緒にいたんだなぁって、それに気付いた…それだけなんだってば!
 なのになんだってそんな反応するかなぁ?
「…ともかくっ。その話はこれで終わり。いいねっ!?」
 怒ったような早口のセリフ。
 それって自分の発言が失言でした、って認めてるってことだよね。
 別にルックがシーナとお茶してたのは、そりゃたしかに珍しいことではある。
 でも、マズいことじゃないと思うよ?
 にもかかわらずどうしてそうムキになって怒る……いや、照れるかなぁ。
 そんなにバレたくないなら、ずっと図書室にいたって言えば終わりなのに。
 僕はそれを疑う要因はないし、その必要もない。
 ルックだって、僕のこと言えないじゃないか。
 僕たちの前では、嘘つくの苦手だよね。


 ルックが無理矢理話題を変えようとしてることがなんかおかしくて、僕は笑いを堪える。
 あぁ、睨まれてる睨まれてる。
 僕は慌てて目を逸らせた。
 すると…この部屋にいたら仕方ないね。
 再び、石板に目がとまった。
 そのままそこに刻まれた名前を眺める僕を、ルックはようやく落ち着いた目で見つめてくる。
「…………たくさん、並んだね」
 僕はやっとそう言った。
 前にも…こうやってルックと石板を眺めたことがあった。
 もちろんそれは1回じゃなくて……何度も、話はしてるんだけど。
 一番最初…あれはいつだったかな、まだこんなに人も多くなかった。
 そうだ、この湖の古城を手に入れてルックがここに来て間もない頃…だったっけ。
 あの頃の石板はまっさらで、所々にある名前がやけに大きく目立った。
 でもそれだけでひとりで戦ってるわけじゃない気がして、ずいぶん頼もしく思った。
 僕には仲間がいる。
 僕はこの中で、戦っていくんだ。
 不安に溺れそうになりながら、離反した帝国にほんの少し後ろ髪を引かれながら、それでも歩いていけると思ったのはこの石板のおかげだった。
 今はもうほとんどが名前で埋めつくされている。
 それだけの時間と出来事が過ぎ去っていったんだ。
 だから……いろんなことが変わっていった。
 いつしか、僕たちを導いていくはずだった「運命」が、課せられた重荷に変わるほどに。
「僕はたぶん…あの時よりも、ちゃんと『リーダー』だと思う。だけど……」
 なぜだろう。
 不安がぬぐえない。
 あの頃の不安が大きな波なのだとしたら、今感じる不安は………闇。
 音もなく侵略してくる、光を通さない純粋な闇だ。
 そしてそれは、この手袋の奥…右手から僕を蝕んでいく…気がする。
 大きな力の影で、すべてを喰らい尽くす静かで凶悪な牙の気配。
 それに呑み込まれてしまいそうに感じて、はっとすることが最近よくあった。
 僕はそれを「宿して」いるのだろうか。
 それとも、「支配されて」いるのだろうか。
 ルックは静かに僕の右手を両手で包み込んだ。
「! ルック……」
「…僕の意見は変わらないよ。運命に踊らされるために僕たちはいるんじゃない。運命を変えるために……僕たちは在るんだ」
 ルックの強い瞳。
 ……ルックも、変わった。
 こんなに近くに、ルックを感じる。
 僕はもう一度、上から下へと石板を眺める。
 そうしてふと薄くくすんだ名前を見つけた。
 …空白の天英星。
 二度と埋まらない場所。





 雑務とか、挨拶とか。
 ここ数日本当にそればっかだな。
 ちょうど今帝国軍と拮抗状態に入ってて、ヘタに動くわけにはいかないからな。
 今軽々しく軍を動かせば、足下を掬われるから。
 互いにそれを牽制しあってる状態だ。
 けど、そろそろだな。
 孤立させれば自滅するなんて考えが通用するほど解放軍は小さな組織じゃない。
 各地を制圧してる解放軍にとっては、一部湖上ルートを押さえられたところで他に手はある。
 もとの規模の違いが離れないのは強大な組織にはありがちだ。
 僕たちの力を計りきれないでいることで、自ら窮地を作っている。
 足下を掬われるのは、僕たちじゃない。
 とはいえ……何かこうこの数日は釈然としないんだけど。
 違和感っていうのかな。
 でも、それを気にしすぎるのもいけないし。
 考えてもわからないことを考えてる場合じゃない。
 部屋で地図を広げ、僕は敵軍に見立てた駒を滑らせる。
 こっちに来たら…こう。
 ここはこう押さえて……人数は、そうだな……。
 考え込んでいると、ドアが鳴った。
 顔を上げると同時に声がする。
「レイ様? よろしいですか」
 クレオだ。
 僕は地図を丸めた。
「いいよ。何かあった?」
「それが……」



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