アトリ
=Scandalous Blue=
− 3 −

 次の日もいい天気だった。
 朝も早くから眩しい青が窓の外に広がっている。
 それだけでも気持ちがいいのに、今日は休みだ。
 余計に気分がいい。
 思い切り背を伸ばして爽やかな空気を胸一杯に吸い込む。
 昨日あれだけ疲れ果てていたはずの体も、一晩経ってずいぶん回復した。
 といっても、昨夜の騒ぎはあれからもしばらく続いてしまい、部屋に戻ったのは朝焼けをギリギリ見ずに済んだくらいの時間だった。
 やはりスポットライトを浴びて人前で動いていれば、どうしてもテンションがあがる。
 そのテンションを引きずったまま帰ってきてしまったせいで、どうも寝付けなかったのだ。
 だから昨日、シーナのテンションがあれだけおかしかったのも頷けるというもので。
 ……ライブのテンションがなくてもシーナはあんなものかもしれないが。
 結局レイもあのソファに引き込まれたことを考えると、レイとルックもそれなりにテンションはあがっていたのだろう。
 ルックのテンションがあがっている状態なんて想像もつかなかったが、あれだけ素直にシーナのそばに行ってしまうのだから、たぶん微妙にハイだったはずだ。
 実を言えば、自分も舞い上がっていたことにレイ自身気付いていた。
 だからといってそれを表に出すのは恥ずかしかったりする。
 気心が知れたふたりだけれど、だからこそ秘しておきたい自分の本性もある。
 おそらくいつかバレるだろうけれど、もうちょっとカッコつけたままでもいいかなともなんとなく思って。
 かりかりと頭を掻いて、レイは自分の部屋から出た。


 かちゃっ。
「おはよー……ってあれ?」
 リビングに出て、レイは目をしばたたかせる。
 光に満ちた静かなリビング。
 誰もいない?
 きょろきょろと部屋を見回していると、キッチンからルックが顔を覗かせた。
「おはよう。今日は少しだけ遅いね」
 いつも通りのルック。
 どこかほっとして、レイはキッチンのカウンターに腕をついた。
「ん、まぁ今日は休みだし、ちょっとゆっくりしてもいいかなって思ってさ。なんせ昨日……あれってもう今日だよね、寝るの遅かったから」
「僕もそう思ったんだけどね。朝になるとどうしても目が覚めるんだよ」
 言いながら、肩をすくめる。
 しかしそうすると、3時間程度しか眠っていない計算になるが。
 普段はそれでも平気らしいが、ライブの翌日では厳しくないのだろうか。
「…疲れ、取れてるの?」
「残ってないわけじゃないけど。でも大丈夫だよ。仕事がないって思うだけで心の疲れは取れそうだ」
「あはは……気持ちはわかる」
 体力がなくなるのは早いが、回復するのも早い。
 それは自覚している。
 以前は戦い続きの毎日だったから、疲れを翌日に残している場合ではなかった。
 そのせいだろうか、睡眠時間が少なくとも熟睡して疲れを取る癖がついていた。
 だから、今この生活で疲れが持続しているのは、体力面よりも精神面が原因だろう。
 少なくともこれがソロプロジェクトだったらとっくに限界値を超えていたはずだ。
「はい。朝の水分」
「あ、ありがとう」
 ルックの差し出す麦茶のコップを受け取りながら、ふたりには悪いけれどふたりがいてくれてよかった、とつくづく思うレイである。
「レイ?」
「ん?」
「休みだっていうのに、ちゃんと着替えてるんだね」
「あー…。ルックだってそうじゃないか」
「まぁ……」
「いくら僕たちのプライベートスペースって言ってもね…。いつノックと同時にドアが開くかわかったもんじゃないから。……でしょ?」
「……まったく同意見」
 思わずあさっての方向を見てしまう。


 と、ルックが「そうだ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「昨日、僕たちだけ3人先に帰っただろ。荷物も適当に詰めて帰ったから、余計な書類まで僕の荷物に入ってたんだ」
「そっか……」
「ちょっとそれ、事務所の方に置いてくるよ」
 レイは耳を疑う。
 ルックが?
 自分から?
「あ、いいよ。僕があとで行ってくるから」
「いいって。置いてくるだけだからね。それより、レイ、あのバカまだ寝てるだろ? あれ起こしておいてくれない? 食事、何度も仕度するの面倒だから」
「わかった」
 レイが頷くと、ルックはキッチンから出てリビングの机の上に置いてあった茶封筒を手に事務所に出て行った。
 呆気にとられてその背を見送る。
 が、そのドアが閉じてからはっと気付く。
「! ルック…っ。もしかして、シーナを起こす役目を僕に無理矢理振ってったんじゃ…!」
 たしかにあのドタバタがあったあとでシーナを起こしに行くのは、なんとなく気恥ずかしい。
 先手を取られた、と閉じてしまったドアを拗ねた目で見つめた。


 誰もいないと踏んだ事務所のデスクには、既にナナミが座っていた。
 とたんにルックの表情がピンと張り詰める。
 ルックが出て来たことに気付いたナナミが、振り返らずに、
「あ、おはよー」
 と明るい声をあげる。
「うん……」
 それには気のない言葉を返す。
 昔解放軍にいた頃には虚勢を張って嫌味を言うことなんてザラだったし、同盟軍に入って人を茶化すセリフも一応は吐くようになっていた。
 けれど、どうも自分は会話が苦手なようだ。
 レイやシーナ相手ならいくらでもしゃべれるのだけれど。
 その理由に、ルック本人は気付いていなかったりする。
 ただ、自分にとってふたりが何か特別な存在らしいと、それだけはわかっていたが。
「…一体こんな朝早くから何してるのさ」
「あぁ、昨日のチャリティーライブの後処理。寄付先の手続きとかね」
「まさか寝てないの?」
「まあねー。これでもマネージャって大変なんだから。楽しいけど。あ、でも、これが終わったら寝るから大丈夫だよ。……ルックくんって優しいんだね」
「!?」
 何を言い出すんだ、という顔を向けるがナナミは視線を落としたまま。
 はぁ、とルックは息を吐いた。
「……寝てないせいで思考でもおかしくなってるみたいだね。その手続きに関する書類、1種類僕の荷物に紛れ込んでたよ」
「本当? よかった、もう一回取り寄せなきゃと思ってたんだ。そこのテーブルの上に置いておいてくれる?」
 ローテーブル。
 視線を巡らせる。
 そこには他にもいくつか紙の束が置かれていた。
 その上に持ってきた茶封筒を置いて、机の端になにやら青い本が置いてあるのに気付く。
 A5くらいの大きさでそれほど厚くない本だが、カバーも何もついていない艶やかなその表紙には、薄いブルーのタイトルらしき英字が印刷されているが、それだけだ。
「…ナナミ? この机の上にあるの…見ても構わない?」
「大丈夫だよ。うちにアーティストに隠すような重要機密なんてないもの。小さい事務所だもんね」
 ナナミのその言葉を受けて、ルックはついその本を手に取ってしまった。
 世の中には知らなければよかったこともたくさんあるのに。
 ぱらぱらとページをめくったルックの手が、凍りつくように止まった。





 一方、レイは。
 ウンでもなければスンでもないその部屋のドアをじっと見つめていた。
 さっきからノックはしている。
 声だってかけているが、それに対してまったく返事がないのは、やはりシーナも相当疲れているのだろう。
 それとも、体調でも崩してしまったのだろうか。
 ドア越しに起こそうと思っていたレイは、散々思い悩んだ末、ノブに手をかけた。
「……シーナ? 入るよ?」
 一応そう断り、そっとドアを開ける。
 すると風が頬をなでた。
 カーテンが風をはらんでふわりと広がって、部屋が明るく浮かび上がる。
 その窓の近くにベッドがある。
 丸く膨らんだ布団は、注意深く見ると微かに動いている。
 規則的な動きに、完全に熟睡していることが伺えた。
(…まったく。窓開けっ放しにして寝ちゃったんだな。不用心ったらないね……)
 やがてカーテンが静かに降り、開いてしまった隙間から青い空が覗く。
 薄暗くなった部屋を、レイは足音をさせないようにベッドまで歩み寄った。
「おはよう……シーナ。朝だよ」
 起こしているはずなのだから声のボリュームを上げてもいいはずなのだけれど、小さな声でそう呼びかける。
 身を乗り出して覗き込むと、わずかに顔が見える。
「シーナ。シーナってば」
 ぴくん、とシーナが反応する。
 わずかに間をおいて、瞼が薄く開く。
 やがてぱちぱちとまばたいて、レイの顔に気が付くとすぐに笑顔を浮かべた。
「あー……おはよ、レイvv」
 ほんの少しかすれた声。
 それにドキッとして、レイは内心慌てる。
「あ、ええと、おはよう。……大丈夫? 疲れ残ってない?」
「んん…だーいじょうぶv 目覚めにレイの顔見たから全部吹っ飛んだよv」
「それはよかったね。あのさ、ルックがご飯にしようって。もし起きられるようだったら一緒に」
「起きる、起きる」
 嬉しそうな答え。
 そう、と頷いて離れようとしたレイだが、シーナの手がそれよりも早くレイの腕を掴んでいた。
 寝起きで体温が高いらしく、温かい手。
「…なんだよ?」
「起きるから、その前にいつもみたくおはようのキスは〜?」
「っ!!!」
 突拍子もないセリフ。
 レイはかっと頬を赤くしてシーナを睨み付ける。
「って、いきなり何言うかな! もういいよ、起きてこなくていいからずっと寝てろっ。第一、いつもって、そんなこと僕一度もしたことないだろっっっ!!!」
「レイってば照れちゃって、可愛い〜〜〜vv」
「だから…っ。あぁもう離せよっ」
 そう言ったところでシーナが離してくれるわけがないとはレイも十分承知している。
 が、だからといって言わないのも妙だし。
 やはりというかなんというか、シーナは離さないどころかそのまま強く引っ張ってくる。
「ちょ…っ」
 抗議する間もあらばこそ。
 バランスを崩したレイはそのままシーナの上に倒れ込んだ。
 その上さらに抱きしめてくるから、一瞬反応に迷ってしまった。
「レイ〜〜〜vvv」
「……ね、寝ぼけてるだろっ。離せってばっ」
「寝ぼけてなんかないぜ。正気も正気v」
「なおさら悪いっっ!!」


 ばたんっ!!
 突然ドアが開いた。
 ぎくりとしてレイが体を起こす。
 慌てたレイに続いてシーナがのんびり首を巡らせると、そこには肩で息をするルックの姿。
「ルック〜〜v おっはよー」
「あ…ルック、お帰り……えっと、いや、これは、その」
 何故か言い繕おうとするレイ。
 けれどルックはそれには構わず、走る勢いでふたりの元に歩いてくる。
 シーナも何事かと体を起こした。
 そうして、ルックはまっすぐにふたりを見たまま、
「……万に一つの可能性がないわけじゃない。逃げよう」
 !?
 レイとシーナは目を見開いた。
 逃げる?
 どうしてそんな急に。
 いや、急ではなく、常々それを願望として持ってはいたが。
「そうだね…あの人に見つからないなんて無理かもしれない。でも、どうにかして……そうだ、うまく結界が張れればなんとか……」
「え…っ、待ったルック、オレには事情がよく飲み込めないんだけど…」
「あんたひとりを置いてくつもりはないよ。3人ならなんとかやっていけるだろうし」
「そ、それは僕も嬉しいけど……もしかしてとんでもないワケあり?」
 おそるおそる聞いたレイに、ルックは眉をひそめて頷いた。
「……聞かない方がいいと思うけど」



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