アトリ
=Home, Sweet Home=
Side A

Part.2 Side Luc...

 体を包んでいた淡い光が、すっと消える。
 どことなく浮遊感さえ感じていた足に、ふいに地面の感触が戻った。
 昔からそれを意識することはなかったから自然なことのように思うが、ふたりはいつも「慣れない」「妙な感じがする」と言う。
 おそらくはそれが普通の感覚なのだろう。
 自分にはなんてことないことが。
 人と人の認識には、こんなに差がある。
 けれどその差があるからこその個々の人格なのだという。
 その違いごと好きだ、とあいつは言った。
 そんなことをぼんやりと思い出して、ルックは目を上げた。
 薄暗い光はうっそうと茂る木々に太陽が遮られているせいだ。
 その微かな光の中、目の前の建物はわずかに青く光って見える。
 それは建物を構成する石自体が青みを帯びているからなのだが、昼の中でも夜光虫のようにひっそりと光をたたえる様子は、まるで何かから隠れているような印象を与える。
 もしかすると、それが真実なのかもしれないが。


 建物には、扉がない。
 見上げれば遥か高くに窓は見えるのだが、常人では上れない高さだ。
 よじ登るにしても、足がかりのない滑らかな壁には侵入者もおそらく手を焼くだろう。
 第一、侵入したところで盗めるようなものは何一つない。
 狙うとすれば、ここに住まう者に宿る「モノ」くらいだ。
 それがやっかいだから、こうして人の侵入を防いでいるのだが。
 ルックは無感動に何もない壁に近付いた。
 すっと手を挙げ、壁に触れる。
 すると、吸い込まれるように手が壁をすり抜ける。
 そのまま歩みを進めていくと、その姿は白くなびく法衣の袖を最後に、完全に壁の中に消えてしまった。


 息をつく頃には、ルックの体は広い吹き抜けの底に描かれた円の中にある。
 黒く床に染みつけられたそれは、一見ただの模様に見えるが、たしかに「扉」なのだった。
 建物の中は、ひんやりとして音もない。
 外観以上にひっそりとした石造りの部屋には生活の匂いというものが皆無だ。
 家というよりは、祠に近い雰囲気。
 円形の部屋には壁伝いに手すりのない階段が上に向かって伸びており、ルックはまっすぐにその階段へ向かう。
 自分の足音だけが響くその空間には、何とも言い難い寂しさがあった。
 ………寂しさ?
 以前の自分には、考えられなかった感情だ。
 けれどそれが今はたしかに、ある。


 壁に定間隔でつけられた装飾がうっすら青く光る。
 石の青い光をわずかに強くしたような儚い色。
 そのせいで永久に続きそうに思えてしまう長い階段。
 それが唐突に途切れ、壁にぽかんとあいた四角い穴の前に辿り着いた。
 同じ明かりで照らされた短い廊下がその奥に続き、さらにその向こうからは明るい光が漏れている。
 見慣れた光景だから珍しくとも何ともないが、長いこと帰っていなかったせいで、どこかこの世とかけ離れた世界の空気を吸っている気分になる。
 足を踏み入れれば、その明るい光は床の魔法陣によるものだ。
 四隅に燭台があり、ちらちらと炎が踊っているが、陣から溢れる青白い光の方が遥かに強い。
 そしてその中央に背を向けて師が立っていた。
 もちろんルックが戻ったことは入口を通ったときから気付いていただろう。
 驚いた様子を見せることもなく、レックナートは振り向いた。
 長いローブの裾がしゅるりと小さな音をたてる。
「おかえりなさい」
「只今戻りました」
「随分早かったのですね。連絡が来てからまだ2日ですよ。楽しんでいるようだから、戻らないかと思ったけれど」
 なんとなくルックはむっとする。
 楽しい?
 人前で歌ったり踊ったりしなければならない状況が?
「楽しいなんて……そんなはずないでしょう。僕があんな騒がしい場所にいなければならない理由はないんです。そして僕はそれを回避することもできたはずなんですから」
 あの場に踏みとどまらざるを得なかったのは誰のせいだったか。
 暗にそれを含ませる。
 けれどレックナートはそれに対しては何も答えなかった。
 わずかに笑んだままの表情で、
「あなたも疲れていることでしょう。今日は、ゆっくりお休みなさい」
 と、告げる。
 この人は、とらえどころがない。
 溜め息混じりに頷いた。
「………わかりました」





 休む、とはゆっくり体を休めることではなかったのだろうか。
 建物の中にほんの申し訳程度の広さしかない厨房に立ち、ルックはさっきよりも深い溜め息をついた。
 これは、部屋に戻る際につい厨房を覗き込んでしまった己の責任だろうか。
 しばらく使われた形跡のない棚を眺めていて気付いてしまったのだ。
 綺麗に並べられた食器類が……最後に自分が片付けた、そのままの配置だと。
 自分がいない間、あの人は一体どんな生活をしていたのだろう。
 考えるだけで頭が痛くなる。
 食料庫を見るとかろうじてふたり分はありそうな食材があったので、荷物を置いてくるのもそこそこにルックは厨房に立った。
 やはり、ここも静かだ。
 食材を同じ大きさに切り刻みながら、ルックはふとそんなことを思った。
 随分久しぶりで忘れていた。
 そういえば、いつもこんなふうに、ただ己の立てる音だけの厨房で食事の仕度をしていたのだったか。
 だって……このごろは…………。
 頭の中、克明に浮かび上がる。
 穏やかな足音と「手伝うよ」という柔らかな声。
 やかましい足音と「オレも、一緒にいるっ」という底抜けに明るい声。
 手を止めて、脳裏の風景をよりはっきりと思い浮かべた。


 食卓に一通りの料理を並べ終わる頃、レックナートが現れた。
 その仕度に気付くと嬉しそうに、
「まぁ…。ルックの手料理なんて久しぶり」
 と笑った。
 だから、おそらく、根は悪い人ではないのかもしれないと胸の内でほんの微かに一瞬だけ思う。
 すぐに否定したけれど。
 それは、時々会話があるけれど静かな食卓。
 問われるままに今の生活のことをぽつぽつと答える。
 そのたびにいちいち思い浮かぶ顔。
 ずっと一緒にいるのだから当然だ。
 すべてが、ふたりに繋がる。
 レックナートは微笑んでそれを聞いていた。
 そして話が一段落すると、そっと口を開く。
「やはり……楽しんでいるようですね」
「……人の話を聞いてますか。僕はおかげで大変な目に遭ってるという話をしているんですが」
「いいえ。そちらの方ではなく。今……ルック、あなたがあのふたりのことを話しているときの声……」
 思わず、ルックは息をのむ。
 意識していなかった。
 どころか、すべて同じ調子で話したつもりだったのに。
「僕は……そんな」
「ならば、誰に食べてもらいたくてこの料理を作ったのかしら?」
 誰のため?
 そんなもの……。
「腕を上げましたね、ルック。とても優しい味がしますよ」



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