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「今日の予定は以上ですから」
事務所に戻るなりアップルがそう言った。
驚いてレイは荷物を置きかけた手を止める。
「あれ、インタビューもうひとつなかったっけ? たしか締切が近くてどうしても今日にして欲しいっていうのが一件」
「それでしたら、時間が変更になったんですよ。もう少し早めなければいけない事態になったとかで」
早めなければ?
でも…ならば今日の予定がこれだけということに説明が付かない。
それを問いただそうとした時、タイミング良く事務所の外に続くドアが開いた。
「たっだいまー」
聞こえてきたのは、からっと明るい声。
いつでも耳の奥に残っているほど、聞き続けている声。
けれど、なぜ?
「シーナ……おかえり」
どうして、と聞くつもりが、「ただいま」に反射的に答えてしまう。
すると嬉しそうなシーナが駆け寄ってきた。
「ただいまただいまレイ〜vv レイも今帰り? 運命的に奇遇だねぇ」
「それって結局運命的なの、奇遇なの?」
冷静なレイの切り返しに、シーナが詰まる。
シーナと一緒に戻ってきたナナミが弾かれたように笑った。
「あははっ、レイさんの勝ちー。ダメだよね、シーナさんてー」
「やだな聞き捨てならないぜ。天下の2枚目に向かってそりゃないだろ」
「自分で言ってちゃあね。…じゃ、とりあえず次の仕事は明日10時からの収録ね。対談と歌の番組だから。前話したよね?」
「うん、オッケ。今日はコレであがりな。お疲れー」
「お疲れっ」
レイは呆気にとられてそれを聞いている。
シーナって…こんなに真面目に仕事をする奴だったろうか?
サボる方が得意だったはずなのに。
「レイ? 部屋戻るだろ?」
「あ……うん。すぐ戻るから…先行ってて」
「わかった。おまえの鞄持ってっとくなー」
当たり前のようにシーナは、レイの鞄を手に部屋へ続くドアに向かう。
その姿が消えると、レイはばっとナナミを見た。
ナナミは小さく肩をすくめる。
「最初に言っとくと、こっちからは何も言ってないからね」
「じゃ……どうして」
「レイさんと同じ。レイさんに単独の仕事が入ったって聞くや否や、シーナさんも交渉に乗り出してきたんだよ。自分にも仕事振ってくれ、って。レイさんひとりに無理させられないからって。ごめんね、シーナさんにも黙ってて欲しいって言われたんだ」
レイは何かに迷うようにその言葉を聞いた。
(やっぱり……ダメだな。ひとりで頑張ろうとしても、どこかで無理が出る……。同じことを考えちゃうんだ)
相手に無理をさせたくない。
自分ひとりで背負えれば。
「……ありがとう。お疲れ様。……また、明日」
アップルが言っていたのはこのことか。
レイひとりが「護ろう」としているのでも、レイひとりが「護られている」と感じているのでも、ない。
……僕たちは、お互いに護りあおうとしている。
自分以外が傷つくことを恐れている。
きっと…………。
ひとつ息をついて、レイは部屋に戻った。
せっかくシーナがナナミたちに口止めしてくれたんだから、自分が気付いたことを知らせることもない。
なんでもないふうを装って入ったリビングは、甘い香り。
ダイニングテーブルでは、何か書き物をしていたらしいルックが、まとわりついてくるシーナを鬱陶しそうに追っ払っている。
「ただいま、ルック」
「あぁ、おかえり。…ったく、わかったから。あんたはもう……。レイ、疲れただろ。お茶にする?」
「うん。いい匂いだね」
「ジャムを煮たんだよ。スコーンに合うかと思ってさ」
ルックが立ち上がり、台所に向かう。
その後ろをシーナがついていくのが何かおかしかった。
笑って、レイはテーブルに近付き、その上の白い紙に目を落とす。
五線紙……。
そこに、ひとつひとつ丁寧に置かれた音符。
まるで楽譜の書き方のお手本のように、とても綺麗で繊細だ。
書いた人の人柄が良く表れた、優しい音の流れ。
「ルック……これ」
「それ? ちょっと作ってみたんだけど。やっぱり僕にはそういうの性に合わないね」
「そうかなぁ、すごく優しい感じがするよ」
「とりあえず、それを書かせてる鬼のような人々への恨みつらみが読み取れないようであれば、僕も立派な役者だね」
「はは……それはたしかに大した演技力かもね」
本日の紅茶はほのかにキャラメルの香り。
砂糖は入れずに、スコーンに乗せたジャムの甘みが引き立つストレートでいただく。
レイはこんな穏やかなお茶の時間が大好きだった。
昔からおやつの時間には、美味しいお菓子とあったかい紅茶、がグレミオのスタイルだったから。
レイがその習慣をこの部屋に持ち込んだ。
するとルックとシーナもいつの間にか、それに馴染むようになった。
もともとルックも紅茶派だったから、ルックにとっても歓迎すべき習慣だったのかも知れない。
そうして紅茶派のレイとルックで始まったお茶会だが、このふたりがいてシーナが入ってこないはずはない。
3人だけのお茶会はそれだけに閉鎖的で、だからこそ心地が良かった。
「…単独のインタビューって。何を訊かれるの?」
そう切り出したのはルック。
レイひとりの仕事、という事態に当然シーナとルックは話し合っただろう。
その上でシーナが残りの仕事を引き受け、ルックが作らなければいけない曲の作業を進める方向になったと推測できる。
人見知りするルックに単独の仕事は向かないだろうということは、本人でさえ認めている。
けれど、だからこそ『押しつけている』ように感じてしまっているのだろう。
普段の突き放すような口調の割には、根本的に優しい性格らしく、どうも気にしすぎてしまう傾向がある。
「うーん……。あんまり…変わったことを訊かれたりはしなかったけど。なんだろうな、リーダーとしてどうの、って話が多かったかな」
「レイもいつの間にかリーダーだもんな」
「僕たちの間で話題にのぼったことはないけどね。まぁ…一応僕が一番年上なんだから、しょうがないかなって」
「年齢だとは思わないけど。でも…少なくとも僕は、どうしてもやらなきゃならなくってもそんなのごめんだし。シーナがリーダーだったりなんかしたらもうどうなってたかわからないだろ。第一、こんな奴になんてついて行けないよ」
「えー!? オレってこう見えても責任感あるぜ?」
「どうだか。僕たちも軽く見られちゃって迷惑したと思うよ」
「レイまで……。酷いなー」
とりあえずリーダーとはグループの顔である。
それを考えれば、レイが適任であったのは間違いないだろう。
ルックやシーナがリーダーだった場合を考え、改めてそれを納得してしまう3人だ。
そんな、他愛のない話。
最後のスコーンにシーナが手を伸ばす頃……ふと思い出したようにレイが首を傾げた。
「あのさ……明日の仕事だけど」
「んー? 対談と歌…だっけ? それが?」
「最初に予定聞いた時さ、アイドルたちの対談って言ってたんだよね。その時は大して考えなかったんだけど。…たち、ってさ。この場合の『たち』って、僕たち3人ってことじゃないんじゃない?」
「まぁ……言葉の表現の問題だけど。言われてみれば……」
「うん、グループがいくつかって表現に聞こえるんだよ。そういえば今までなんとなく仕事してきて、他の人たちの存在ってあんまり考えてこなかったけど。本当に僕たちだけなの? そう考えるには、事態が大きくなりすぎてない?」
自社持ちの警備隊しかり。
事務所持ちの馬車しかり。
シーナはぱちくりと目をしばたたかせる。
ゆったりとカップを傾け、ルックが肩を落とした。
「なるほどね……。そうか、とうとう動き出したか………あの悪徳軍師共」
さすがに悪徳は言い過ぎでは…と一瞬思ったが、そういえばそれだけのことをされているのであえてレイは異論を唱えなかった。
「ルック…動き出した、って?」
「覚えてない? 一度この事務所、位置付けが変わっただろ」
ただの事務所から、社内のひとつの事務所へ。
スフィア=レーベルの中の、プロジェクト・アトリへ。
当然覚えている。
軍主ユウキは軍主の仕事があるから事務所のバイト扱い、だったはずなのに、いきなり次の発表ではスフィア=レーベルの社長になっていた。
一体この軍はどうなってるんだと思ったから、はっきり記憶している。
ルックは溜め息をついた。
「すなわち……この事務所は、スフィア=レーベルの一角に過ぎないってことだよ。僕らの事務所が僕らのためだけに存在しているというんであれば、他に事務所が存在するんだろうってことさ」
「あっ」
「そ……そっか……。え、でも、誰が?」
「さて、ね。とりあえず、人に言わせれば、顔のいい連中だって多いそうじゃないか。そういえば……最初僕らのスタイリング手伝ってたの誰だっけね。最近めっきり姿を見せないと思わない?」
「あ……っ!」
レイとシーナは顔を見合わせる。
いや、彼らだって同盟軍として戦っているのだから。
きっと専門職は専門職として別に雇うようになったんだ。
そうに違いない。
と……思ってみても。
そう、ここはスフィア=レーベル。
社長ユウキと副社長シュウという、最強コンビが牛耳る会社なのだから……。