September 20th, 2000
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見上げた空は、雲ひとつなかった。
重くのしかかってくるほどに青い空は、わずかに湿気を帯びて濃く、そして澄んでいた。
澄んでいるくせに、煮詰めたような色。
表通りから外れた路地の奥、今は枯れた古井戸の、崩れかけた石レンガ。
そこに座って見る空は、 家々の灰色とのコントラストが鮮やかで、とても気に入っていた。
それに人通りの激しい通りから裏通りへ入ったときの不思議な静謐(せいひつ)さがまた、ここに通い詰める要因でもあった。
特に今日みたいな日には格別だ。
さわさわ、と用水路を流れる水の音が、やけに大きく耳に届く。
長い時間それだけを聞いていると、一瞬たりとも実は同じ音はない。
刻々と変わっていく水の音。
聞き慣れるとそれで気温や天候の変化までわかってくるから、なかなか面白いものである。
そして今日は、それに遠くからわずかに人々のざわめきが混じる。
そんなところで生活の実感、なんてものすら感じられて心地よく……いつしか睡魔が訪れる。
目を閉じると、ふうっと風の音。
それが砂よりも綺麗に輝く黄金(きん)色の髪をなびかせて通り過ぎていく。
優しい、微睡(まどろ)み。
水のベールに包まれたような、暖かな午後。
たくさんの、音。
子守歌のように眠りを誘うその音楽に、さらわれるようにして意識が途切れていく。
陽射しが。
水が。
風が。
穏やかで。
……そこへ。
「ティル! やっぱりここにいた!」
突然ばたばたと雑音が入る。
ちょっと気分を概して、いかにも不機嫌そうな顔で起きあがった。
「……フィン。なんだよ、人がせっかくいい気分で寝ようかと思ってるところに」
言うと、駆けてきた友人は呆れたような顔をする。
「なんだよ、って。せっかくのお祭りなんだから、一緒に見に行こうと思って誘いに来たんだろ。おばさんに聞いたら出かけたって言うから。探すの大変だったんだぞ」
ホントにお前はいつもあっちこっちふらふらして、などといつもの説教モードに入ってしまいそうになるから、慌てて寝転がる。
お前の説教は聞き飽きました、のポーズだったのだが。
「いいから聞けよ、だいたいなあ……」
どうやら今日は引くつもりがないらしい。
このままでは、日が暮れるまで説教をしそうだ。
こいつはそういう奴である。
黒い瞳に、漆黒の髪。
美形で頭が良くて真面目で、性格がよくて、もてるのはよくわかる。
だがこの説教好きは何とかならないものだろうか。
こっちが人と付き合うのが嫌いだとわかっているくせに、何かというと突っかかってくる。
はみだし者にやたらと親切ぶる優等生、なだけなのかもしれないが。
「……知らないよ、祭りなんて。オレなんてほっといて行けばいいじゃないか」
「なんでだよ、3年に一度の神殿の本祭りだぞ? しかも友達が今年の巫女に選ばれてるって言うんだから。見に行こうぜ」
いい加減しつこい、と思って、そろそろ逃げ出そうかとしていたら。
「何やってんだお前ら」
「あ、アリル」
援軍が来てしまったようだ……。
「なに? フィン、まだティルを誘えてねえわけ?」
「そうなんだよ、アリルも説得に加わってくれ!」
「説得なんてめんどくせえことしてんじゃねえよ、ったく。おい、ティル、行くぜ」
「……っ。なにすんだよっ!」
いつもと変わらぬ無愛想でアリルがティルの腕をつかんでいる。
アリルはぐいっと顔を近付けて、一言。
「なにすんだって、強行突破」
どうやらティルのセリフに対する答えのようだが。
そのままじゃないか、とつい思ってしまう。
ここまでされては、もはや仕方がない。
ティルは大きく息をついた。
「わかったよ。行く行く。そーいや、約束してたもんな」
言いながら、自分でも確か先週そんな約束をさせられていたことを思い出す。
この2人、やたらとティルに絡んでくるのだから、いつも一人でいる自分にはうっとうしい。
立ち上がったティルにフィンは嬉しそうに笑う。
対して。
「……だから行くって! はーなーせーよーっ! アリルっ」
「だってお前この前遊びに行こうって言ってたのにすっぽかしたじゃんか」
「あれはあれこれはこれだろ。もー、ホントお前オレに信用ないのな」
アリルにつられて拗ねたように顔をしかめるティルに、フィンは既に吹き出して笑っている。
ティルは口をとがらせて、
「なんかお前らといると調子狂うんだよ……」
「実はそれが目的だったりして」
無愛想なくせに口の減らないのがアリルのいいところなのかどうか。
ティルは恨めしそうに、アリルを睨みつけた。
当人はどこ吹く風、だが。
こんな風にティルをからかっているアリルは非常に楽しそうだ、とフィンは言う。
しかしこの無愛想でよくそんなことがわかるものである。
ティルにはこんな友達ごっこみたいな関係はよくわからない。
(こいつら……よくオレみたいなヤツに構う暇なんかあるもんだ。オレといるとお前らまで……)
それでもやはり、2人といると楽しい気がしてしまう。
それではいけない、と思っているのに。
「それでさ、お祭りを見る前に神殿に行かないか?」
「神殿?」
「そう。ディアン様が今まで公開していなかった宝物(ほうもつ)を、明日の陽光(ようこう)祭りに先駆けて特別に見せてくれるって言うんだ」
ふうん、と相槌を打つ。
神殿は秘密主義的な性格を持っている。
祭りも本来なら神を祀るためのものなのだろうが、神殿はすこしばかりの神事をやるくらいで、あとはほとんど出店や見せ物のたぐいで祭りは進行するのだ。
今年は3年に一度の大祭だから、巫女神事があって例年よりは神殿が関わってくるものの、それでも祭りに介入はしないに等しい。
……はずなのだったが。
そういった意味で、興味がある。
「なるほどね。それは行かないともったいないか」
ティルがつぶやくと、それじゃ、とアリルが腕を引っ張る。
ティルは慌てて、
「な……っ。ちょっと待てって! オレ今日人前に出るつもりなかったから頭、簡単にしか巻いてないんだよ」
「べっつにいいじゃねえか、そんなもん。ちょいと珍しいだけだろ」
「見馴れればそうだろうけど、知らない人間には何て言われるかわからないんだからな」
そういうもんかね、といいながら、それでもアリルは自分が頭に巻いていた布を無造作にはずす。
布の下からは艶やかな黒髪がこぼれる。
ティルはそれを受け取ると、自分の頭に丁寧に巻き付けた。
「……そんなに変かな。俺は綺麗だと思うんだけど」
その几帳面を通り越して潔癖な巻き方に、フィンがぼそりと言う。
「変だろ? だってこんな……金色の髪なんて、どこのまち探したっていないんだからさ」
無表情でそう答えるティルを、フィンは納得できない顔で見ている。
しかし、化け物を見るような目で見られるのは事実なのである。
この砂漠の中で、黒か茶以外の髪の色を持つ者は1人としていない。
それゆえ奇異な視線を受けることは半ば自然なことであったのだ。
遥か昔には、金色はありふれた色だったと聞く。
それがいつの間にか絶え、この世界にはほんのたまに突然変異(ミュータント)として金髪の子供が生まれるようになったのだ。
それは決して本人に責はない。
だが偏見というものは、本人に責があるか否かには全く関係ないのである。
そして、突然変異はその数が希少であればあるほど迫害を受ける。
世界に一人、というのはそれの最たるものだった。
「……よし、と。これでいいぜ」
本当はあまりいいわけではないのだが、この際仕方ない。
「それじゃ、行こうぜ」
そういってアリルは再びティルの腕を引く。
結局快く行こうが行くまいが、アリルはこうするつもりだったらしい。
大声で客を呼び込む声、根気よく値切る声、あれやこれやと説明をする声。
まちの大通りは普段には見られないようなにぎわいを見せていた。
祭りがいちばん盛り上がるのは翌日なので、まだそんなに客は来ていないようだが、それでもやはり人通りが多い。
道の両側には所狭しとオレンジやら青やらの色鮮やかなテントが並んでいる。
そのほとんどは砂漠を旅するキャラバンたちのものだ。
キャラバンたちは、どこの『まち』にも属さない。
彼らは砂漠の各地で様々な商品を買い付け、まちをめぐってはそれらを売り買いをして生計を立てているのだ。
いつもなら滅多に集まることのないキャラバンたちだったが、この祭りの時期になると毎年どこからともなく集まってくる。
まちまちの争いは珍しくないのだが、このキャラバンたちには決して手を出さないことがなかばこの砂漠に住むものの掟になっていた。
「さすが本祭りだな。今年は特に店が多いようだね」
フィンが辺りを見回して言った。
確かにテントはぎっしりと隙間なく並べられていて、道沿いの建物に入るドアの分くらいしかスペースがない。
「最近生まれたまち捨ててキャラバンになる奴らも多いみたいだしな。なんせ、間違いなく儲かるからなー。下手すりゃ死ぬってのに、物好きな連中ばっかじゃねえか」
「らしいね」
2人の会話を、ティルは聞き流しているようでそっと聞き耳を立て、胸の内でそっと溜め息を付いた。
大抵の者は一生を生まれたまちで過ごす。
そして生まれたまちで死んでいく。
誰がそれを最初に決めたのかはわからないが、どうやらいつの間にか法律のようになっていったらしい。
ティルにはそれが鬱陶(うっとう)しい。
自分のことを知らない者がいないくらいのこの閉ざされたまちにいい加減閉口していたから。
出来ればこんなまち出ていってやりたいとも思うのだが……さすがにこれだけ長く暮らしてしまうと、様々な柵(しがらみ)が出来てしまう。
(出ていったところで、一人で生きていけるわけでもないしな)
砂漠で自力で生きていくには、ティルはまだ子供だ。
そんなことを思って、そっと視線をそらせた。
その先には、なにやら見たことのない楽器を持った青年が地面に赤いサテンの布をひいて座っている。
それが、ふと気になった。
「なあ、フィン」
「ん?」
「あれ……あの楽器、何て言うんだ?」
どれどれ、とティルの指した方を見たフィンも、一瞬考え込んでから首を傾げてしまった。
「なんだろう。俺も見たことないけど。吟遊詩人かな」
「そうなのかな」
同じように首を傾げるティルに、アリルは心底あきれた顔をする。
「あのなあ。知らねえもんをそこで考え込んでわかるわけねぇだろが。聞いてみようぜ。それがいちばん早(はえ)ぇ方法だろ」
言うが早いか、アリルはさっさと青年の前に歩いていった。
2人は慌てて後を追い、アリルが何か言う前にフィンが、
「こんにちは」
にこやかに挨拶をする。
アリルに悪意はなくても、この無表情は十分相手に誤解を与えるだけの威力があるのだから、全く気を遣う。
「……こんにちは」
一拍置いて、青年もにこりと笑った。
人好きのする、爽やかな青年だ。
「あの、その楽器はなんですか? 見たことがないんですけど」
「あぁ、これは私の生まれたまちの名産品なんですよ。とても小さなまちですから、知らなくても当然かも知れませんね」
言って爪弾く弦は、7本。
三日月のような形をして、小さな穴が幾つも空いているその楽器は、青年の指に弾かれるままに優しい音色を奏でる。
「何か一曲歌いましょうか」
「そうですね、是非お願いします」
「わかりました。それでは、私の曾祖母が歌っていた歌をお聞かせしましょう」
ポロン、と高い音。
青年はそっと目を伏せて、左手で弦を丁寧に押さえた。
月の光 優しい星のまなざし
永遠の夜を 染めていく
眠ったままの太陽
古い童謡か何かなのだろうか。
特に心を打つような歌詞ではなかったけれど、その旋律は、どこか懐かしい感じがした。
それを奏でる青年の声が、またこの世のものとは思えないくらい悲しく、澄んでいた。
見たこともない楽器は、青年に寄り添うように音色を響かせて。
明けない夜 目覚めることのない夢
新しい朝を 待っているの?
眠ったままの太陽
時が満ちて 光と光が出会う
世界は輝き 始まるの?
忘れられた物語
ピィィン、と弦(いと)を鳴らし、青年の歌は終わった。
余韻を残して右手を放す。
3人は、誰からともなくほうっと溜め息をついた。
「……綺麗な歌ですね」
フィンが心底感激したように言うと、青年は微笑んで3人を見回す。
「私はまだ未熟なので、うまく歌えないのですけれどね」
「いえ、とんでもない! あの、でも不思議な歌詞なんですけど。明けない夜があるんですか」
「ああ。あるんですよ。……例えば、白夜ってご存じですか」
「びゃくや?」
青年は頷く。
その視線が、どこか遠くを見ているように思えたのはティルだけだろうか。
「そうです。白い夜、と書くんですが。太陽が沈みきれずに地平線の近くで一晩中輝き続けるんですよ。それの反対もまたあるんです」
沈まない太陽?
博識のフィンも首を傾げた。
「見たことないな」
それを見て青年は笑う。
「そうでしょうね。この砂漠では見られないかもしれません」
「砂漠じゃないところがあるんですか?」
「……伝説では。実際がどうなのか確かめた人はいませんが、伝えられている話があるということはもしかしたらそれが本当だということかもしれませんからね」
砂漠に、外がある?
それはティルたちにとっては驚くべき話だ。
キャラバンたちでさえ、砂漠以外の土地は知らないのだから。
だが、この砂の土地を「砂漠」という名で呼ぶ以上は、それが他のものとの比較であることは否めない。
青年は目を瞠(みは)ったままの3人を見て苦笑した。
「でもね。確かめた人がいないほどですから、期待はしない方がいいと思いますよ。……ほら、そろそろお行きなさい。私はしばらくこの街にいるつもりですから、またいらしてくださいね」
ひとつのまちで暮らす少年たちにとっては、それは魅力のある話だった。
なにせ、砂漠に『外』があるなんて話す大人は誰一人としていなかったのだから。
冒険心の一番強い頃だから、それは無理もないのだろうけれど。
礼を言ってその場を離れようとした3人に、ふと青年が声をかける。
「……きみ。綺麗な、瞳ですね」
笑んだ口調に、はっとティルが振り向いた。
それはティルにしか聞こえていなかったようで、フィンとアリルは歩いて行ってしまう。
だからそれは、よけいにティルを混乱させた。
だが、言った青年の方はもう目を伏せて楽器を奏でている。
髪は隠せても、瞳は隠せない。
ティルの瞳の、サファイアよりも深い碧(あお)。
青年はそれを言ったのだ。
突然変異(ミュータント)の、もう一つの証───。
ティルは無視する青年をきっと睨みつけ、踵を返した。
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