〜Deir Paidir〜

第1章 黄泉(すなのまち)

October 13th, 2000

★ ★ ★




 俯(うつむ)きがちに歩くのは、癖だ。
 足元ばかり見て歩いているから人にぶつかりそうになるはずだが、歩いてくる人の足もちゃんと見ているから、意外にぶつかることはあまりない。
 もちろん、ティルのその癖には理由がある。
 一つは、人と顔を合わせることが苦手だから。
 そしてもう一つは、その碧(あお)い瞳を見られたくないから。
 下を向いて歩いていると、気持ちまで下を向いてしまうのは何故だろう。


 さっきよりも増えてきた人の波を避け、ティルは裏通りに入った。
 瞬間、喧噪が途絶えてふうっと風が駆ける。
 どこかで鳴いている鳥のさえずりがそっと聞こえてくる。
 大通りから遠ざかるにつれて心の中も穏やかになった気がした。
 まるで、この世界には自分以外の人間はいないような。
 空の色も相変わらず落ちついた青だ。
 やっと、はあっと息をついてティルは顔を上げた。
 頬が爽やかな空気に触れる。
 人混みは息が詰まるから。
 そしてそのあげた視線の先……いつもの場所に、小さなテントが見えた。
 人通りのないさびれた裏道にぽつんとあるテントは、何かそれだけでもの淋しい。
 そんな雰囲気に呑まれそうになって、ティルは我に返った。
(なんでオレがそんなこと思うんだよ。イーヴは好きでここにいるんじゃないのか)
 そうだ。
 だからそんなことを思う必要はないんだ。
 自分がそう思ったことが不快で、けれどそれを表情には出さずにそのテントの入口を覆う布をばさりとのけた。


「イーヴ」
 同時に声をかけると、小さな机の奥に座っていた老女がその皺だらけの顔を上げた。
「おや、ティル。今日も来てくれたんだねえ」
 自分の半分くらいしかないんじゃないかと思ってしまうくらい小さな老女は、皺を余計に深くするように嬉しそうな表情をする。
「いいのかい、私のところへなんか来て? せっかくのお祭りなんだから、お友達と遊びに行ったらいいのに」
「ばあさんこそな。もっと人の多いところに店出した方がいいんじゃないのか? こんなとこじゃめったに客も来ないだろうにさ」
 そう言って、机の上に置いてあった水晶玉を軽く爪で弾いてみた。
 チン、と小さな音が響く。
「だってばあさん、昔は名の知れた占い師だったんだろ。少し宣伝とかしたら結構客足取れるんじゃないか」
「ほほほ、もうそんな体力はないよ。私にはここで十分さ。それにね、こんな所でも熱心な人は来てくれるんだよ」
 イーヴはただ笑う。
 そんなもんかな、とティルは不思議に思うが。
 それでも、その笑顔を見ているとそうなのかもしれないと思ってしまう。
 どうもこの笑顔には弱いらしい。
(いつでも笑ってるとこが、オレのばあちゃんにそっくりだから……なんだろうな)
 誘われるまま組み立て式のイスに座り込みながら、ティルはそんなことを思った。


 ティルの祖母アルヴァは砂漠中に名の通った占い師だった。
 イーヴはその一番弟子だったから、独り立ちしたあとでも頻繁にティルのうちにやってきていた。
 それでティルは幼い頃からイーヴになついていたのだ。
 その祖母は、7年も前に亡くなったが。
 亡くなったと言っても、その亡くなり方が普通ではなかった。
 彼女は、銀のまちの間者の手に掛かって殺されたのだ。
 ……ティルの、目の前で。
(優しいひとだったのに)
 出されたお茶をすする。
 その味は祖母の入れてくれたお茶の懐かしい味がした。


 思い出すと、体が震える。
 寒気がする。
 吐き気がする。
 だからできれば思い出したくなんてなかった。
 けれど、気を抜けばあの優しい笑顔がよみがえる。
 祖母は、このまちの長老だった。
 いつも穏やかで、その笑みはまるで大地のようだった。
 息を引き取る間際に、微笑みながらティルの髪をそっと撫でてくれた。
 煌(きら)めく刃(やいば)に貫かれ、苦しんでいるはずなのに。
 涙が出た。
 いや、祖母が死んでいこうとする、それが悲しかったからじゃない。
 紅い血の海で痛みに苛(さいな)まれながら、それでもティルが負うであろう心の傷を気遣ってくれた、その優しさが胸に痛かったからだ。
 あの時の、手のひらの暖かさ……。
 今でも、感覚の奥に残っている。
 だが。
 そのあとで必ずといっていいほど襲いかかってくる嫌悪感には、今になっても慣れることはできない。
 自分の目の前で、手のひらで、命が消えていく瞬間を!
 手が震える。
 指先がしびれる。
 そのしびれが手首を伝い、腕を伝い、体中を麻痺させてやがて脳があまりの吐き気に機能を停止させる。
 人は死んだらどこへ行ってしまうのか。
 そんなことはわからないし、死んだ後で行ける場所があるのかすらわからない。
 でも、目の前から消えてしまって二度と会うことはない。
 それだけは確かなのだ。
 「心の中ではずっと生き続けているから」なんて、そんなものが何になるのかティルには理解できない。
 どんなに精密に記憶していたとしても、それはその人自身の心にしか過ぎない。
 死んでしまえば、この世には偶像しか残らない。
 だから。


 それをまた思い出しかけて、ティルはカップを握る手に力を込めた。
 唇を噛んで下を向いたティルの肩に、イーヴがそっと手を置く。
「ティル……。ほうら、そんなに沈み込むもんじゃないよ」
 ああ、と返された言葉にイーヴは困ったような顔をした。
 ティルはなんでもないといいたげな顔で笑うが、それがうわべだけだということに本人も気付いている。
 それに気付いてもそんな表情を作ってしまうティルが、まるで本当の孫のように可愛いティルが自分を閉ざしていることが、悲しくあったからだ。
(ごめん、イーヴ。でもオレは)
 甘えれば騙されて、優しさに触れれば裏切られる。
 それにもう、気がついてしまったから。
(だから、オレには幸せになる資格なんかないんだよ。だってオレは、この手で……)
 手が白くなるほど強くカップを握って。
 さすがにイーヴもどんな言葉をかけようかわずかに考えた、その時だ。


 ばさり、と入口の布が払われて眩しい光が射し込んだ。
「あ、ティル! 来てたのぉ」
 あっという間に暗い空気が払拭されてしまう。
 がくり、と首を落としながら見事だと感心もしてしまったではないか。
 声の主は、もちろんエヴァで。
 エヴァは、なにやら買い込んだらしい紙袋をどさどさと床に置いた。
「あら、あとの子はどうしたの」
「……神殿で足止めくらってる」
「神殿? ああ、なるほどね。巫女役の女の子たちにフィンが捕まっちゃったってわけ。あはは、あの子モテるからねえ。それで純情なティルくんは逃げて来ちゃったのかあ」
「なんだよ、それ」
「だあから、気にしないでってば」
 まったく、いつまでも気が若い。
 付き合わされるこっちの方が若いはずなのにどうしてか年を感じてしまう。
 何かそうさせるものがあるのだろうか。
 呆れたように溜め息をついてカップの中のお茶をすする……と、不意に思い出したようにティルがイーヴに向き直った。
「そういえば、さっきの瓶。あれって中身はなんだったんだ?」
 イーヴは何のことだかわからなかったようだ。
 すぐに納得したエヴァがぽんと手をたたく。
「ああ、あれね。……って、ティル。あんた何が入ってるか知らないでおつかいしてたの? あらあら、揺らしたりこぼしたりしたら爆発するような薬だったら面白かったのにね」
「……おい」
 そんなものだとしたら、気軽に頼まれたこっちはたまらない。
 軽く睨(ね)め付けると、エヴァはきゃたきゃたと笑い出した。
「いやあねえ、冗談よ、冗談! もう、ホントに冗談通じないんだからあ。あれはね、聖水よ。水晶の魔力を高めるマジックアイテムなんだけど、癒しの力もあってね、母さんが湖の水を清めたのを神殿でも使ってるの」
 大笑いしながら言うエヴァに、イーヴが溜め息をつく。
「まあ、エヴァ。あんたティルに聖水を持って行かせたのかい。私はあんたに頼んだんだけどねぇ」
「いいじゃないの、ティルたちが神殿に行くっていったから、ついでによ」
 イーヴはますます困った顔をする。だから思わずティルは苦笑してしまった。
「気にしないでいいよ。本当についでに持っていっただけだから」
「そうかい?」
 それでもやはり気にしているらしい。
 それじゃあ、と言ってイーヴは机の影で何かごそごそ探し始めた。
「?」
 そうやってしばらく探し物をして、やがて顔を上げたイーヴは小さな珠(たま)を持っていた。
「なに、それ」
「お駄賃にね、貰っておいとくれ」
「オレはそんな子供じゃないぜ」
「まあいいからいいから」
 にこにこと人好きのする笑顔で言われて、つい受け取ってしまった。
 手のひらに乗るくらいの、透明な珠だ。
 一瞬、エヴァが表情を固める。
「……母さん? 何なの、その珠は」
「さあ、私にもよくわからないんだけどね。つい最近占い客の若いのが礼に置いていってくれたんだよ。何でも西方で取れた珍しい石なんだそうだけど」
 珍しい、と言う単語に慌てたのはティルだ。
 驚いてその珠を突き返す。
「そんなの受け取れないって! 取っといた方がいいんじゃないのか?」
「いいんだよ、ティルにはいつも世話になってるからね。なに、珍しいと言っても綺麗なだけだろう。気にすることはないよ」
 そこまで言われては、断る理由もない。
 ありがとう、と聞こえるか聞こえないかぐらいの礼を言って、ティルはその珠を服のポケットの中に押し込んだ。
「んで、エヴァもこれがなんだか知らないのか?」
 ティルがふと尋ねると、エヴァはいつもの調子で肩をすくめた。
「さあね。私も学がないから、わかんないわー。まさか落としたりなんかすると爆発する代物じゃないとは思うけどー?」
「まだ言うかな」
「あはははは、知らなかった? 私、お調子者だから」
「知ってたけどね」
「言ったわねえ?」
 明るく混ぜっ返すエヴァに、本日何度目かしれない溜め息をついた。






 人混みを避けるように、ティルは家路を急ぐ。
 フィンたちと約束した時間にはまだ早い。
 だが、夕食を取ってから家を出るには少しばかり遅い時間になってしまった。
(ったく……。エヴァのおしゃべりは尽きるってこと知らないからな)
 日は既に傾きかけている。
 今の時期が一番日が長いとはいえ、暮れてしまうと早い。
 慌てて曲がり角を曲がったところで、ポケットの中でかちりと音がした。
(あ。そういや、さっきの)
 無造作に落としこんだ、あの珠の存在を思い出す。
 ポケットの中に入れっぱなしだった金のリングにぶつかって音をたてたらしい。
 それは大した意味を持つものではないのだけれど、ぼんやりといじることが多くて入れたままにしてあるのだが。
 しかし、金属と一緒に入れておいてしまって、傷でも付いてしまわなかっただろうか。
 そう思って、ティルはポケットの中の小さな珠を取り出した。
 陽射しに、わずかに煌めく、珠。
(……傷は付いてないみたいだ。結構硬いのかな)
 そうして光に透かしてみて、その輝きに、ふと心が奪われる。
(これ、何だろう。水晶かな。綺麗だな……ヒビ一つ入ってない)


 それはどこか不思議な色にちらちらと光りさざめく。
 覗き込むたびに表情の違う色。
 まるで万華鏡のように、無限を秘めた一粒のプリズム。
 この世の喜びも悲しみも、全てを抱いているような強くも儚い微妙な揺らめき。
 手探りの未来をも思い出せそうな……。


 そんな奇妙な感覚がとても自然に思えて、ティルは大きく息をついた。
 乾いた砂の下で長い時間をかけて結晶になった石。
 その長い時間が、決して平和なものではないことを、歴史は語っている。
 周りに目をやると、祭りに浮かれて騒ぐ人々。
 危険と隣り合わせのかりそめの平和に浸りきった人々だ。
 そして自分も間違いなくその中の一人。
 ティルはふと思う。
 ───このまちには、何かが足りない……。
 それが何かなんて、知る術(すべ)もないけれど。
 そして、誰もがそれを探すことを諦めてしまっている。
 そんな気がした。
 死んだまま生きているこのまちでは、それを見つけだすことは至難の業なのかもしれない。


 ティルはまちを縦横に貫く大通りから細い路地に入った。
 静かな家々の中にひっそりと建っている小さな家。
 そこがティルの家だった。
 狭いけれど、2人が暮らして行くには十分な広さだ。
「ただいま」
 古びた木の扉を開けながら声をかけると、
「おかえりなさい」
 竈(かまど)の前に立っていた女性が振り向いた。
 とても線の細い、風でも吹いたら折れてしまいそうな女性だ。
 彼女はいそいそと火を起こしながら、ティルの顔をそっと覗いた。
「今日は随分と長いこと出かけていたのね。どうだった? お祭りの準備はちゃんと進んでいた?」
「うん。今年は出店も多いから、母さんも少し見に行ったら?」
「そうね。気分が良かったら、見に行こうかしら」
 ティルは、この母親のティルテュと二人暮らしをしている。
 ティルテュは体が弱いために、めったに表に出ることはない。
 だから家の外の用事は大抵ティルがこなしていた。
 ……もちろん、その髪は黒。
「あ、それで、母さん。オレ、今夜の前夜祭に行こうかと思うんだけど」
 ティルがそう言うと、ティルテュは一瞬びっくりした顔をして、それから笑った。
「そうなの? ティルが自分から出かけるって言い出すなんて、珍しいわね」
「たまにはそんな気分の時もあるんだよ」
 母の口調にわずかにからかう気配があって、ティルは口をとがらせる。
「ふふふ。それじゃあごはんを食べてから行くのね?」
「ああ。だから早めに食べたいんだけど、大丈夫かな」
「大丈夫よ、もう支度は出来てるから。あとは暖めるだけだから、今のうちに出かける用意をしちゃいなさいな。いくらこの季節でも、夜は冷えるわよ」
「わかった」
 不器用な、それでもティルにすれば精一杯の笑顔を浮かべて、ティルは自分の部屋がある2階にあがった。
 普段は表情の乏しいティルだが、母親の前ではほんの少しだけ表情をあらわす。
 なるべく、ティルテュには心配をかけたくなかったから。



→ Next Story



第1章 黄泉 3 へ戻るおはなしのページに戻る第1章 黄泉 5 へ進む